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田中清玄先生

1983年5月26日、極真空手20周年・大山総裁夫妻ご成婚35周年を祝う「大山倍達を励ます集い」が東京プリンスホテルで開催されました。 大山総裁夫妻の仲人である田中清玄先生が乾杯の音頭をとられました。  当日参加させていただいた私も「伝説の人」である田中先生に初めてお目にかかり、とても感動したことを思い出します。

今回は『田中清玄自伝』(田中清玄述 ちくま文庫)から、田中先生の師である山本玄峰老師(禅僧・21代臨済宗妙心寺派管長)の話などを抜粋し、番号を付けて紹介します。  以下は本書の著者紹介です。

「田中清玄 (たなか・せいげん)
1906-93年。   北海道生まれ。  1927年、 東大在学中に共産党に入党。   30年の再建大会で書記長となり、 武装共産党を指導する。  34年に転向し、戦後は“大物フィクサー”として、日本国内はもとより中東やインドネシア、中国など国内外で活躍した。」

『1.・・・田中さんにとって、玄峰老師との出会いは、結局どのようなものであったと思いますか。

①あらゆる面で心から信頼し、尊敬する人生と宇宙の大先達であり、玄峰老師を師匠としてもったことは、私の人生における最大、無上の幸福であったと確信しています。  私が直接、老師の教えを受けたのは、刑務所を出てから敗戦の年までのわずか三年半にすぎません。  しかし、その後も、亡くなられた三十六年まで、二十年の間、おりに触れて老師をお訪ねし、教えを受けてまいりました。

②亡くなられてすでにもう三十年を越えましたが、私にとっては、玄峰老師は今なお生きているのと同じです。  老師の残された言葉に次のようなものがあります。

「人間は早く出世することを考えてはならん。  若いときにはなるべく人の下で働き、人を助け、人のために働かなければならん。  花も葉もない寒中に、木の根に肥料をやっておくように、人生には何よりも根肥が大切なのじゃ。  四十よりも五十、五十よりも六十と、齢を取るにしたがって人に慕われ、人の役に立つ人間になり、むしろ死んで後に人に慕われ、人を教えていくような人間にならなければならん。  それがためには出世を急がず、徳と知恵と力を養っておくことじゃ」

③老師の一生はまさにその言葉通りでした。  人生の達人というべきでしょう。  そして私が、玄峰老師は今も生きていると申し上げた意味も、お分かりいただけると思います。


2.・・・田中さんは、これまで国内外でずいぶん多くの人的関係を作ってこられましたが、その秘訣は何ですか。

①秘訣というほどのことではありませんが、何でも自分を捨ててかかること。  自分というものを滅してかかること。  これは面倒ですよ。  我執になったらだめです。  私はそれを純一無雑(じゅんいつむざつ)の心境といっている。  この心境で相手と向かい合えば、相手の人物の器量がそのまま見えてくるものです。

②それと、相手が信用した以上は、こっちも信用するぞという態度を貫き通すことです。  いったん約束した以上は、どんな困難があってもやる。  嘘は言わん、これが世界中で通用する真理です。


3.・・・よく日本の外交の駄目な理由にあげられるんですが、いいときだけ相手と付き合い、政権から滑り落ちたり、逆境におかれると、交際を絶ってしまうということがあるようですが。

①だから嫌われる。  付き合いというものは、そんなものじゃないんです。  仕事というのは人間と人間を結ぶきっかけにすぎないんですから。  

②そのきっかけだけを漁って歩いて、だれが相手にしますか。  人間と人間の本当の付き合いなら、生死を共にすることもあるだろうし、喜びと悲しみを共にすることもあるだろうし、少なくとも私は今日まで、そう信じてやってきました。』


※大山総裁と田中先生の対談もネットで見つけましたので、興味ある方は読んでみてください。

http://www.masoyama.net/?eid=259

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