2023.09.23 Sat
アイゼンハワー
私が尊敬する歴史上の人物の一人がD・D・アイゼンハワーです。 第二次世界大戦時の連合国遠征軍最高司令官で、ナチス・ドイツ占領下にあったフランスのノルマンディーへの上陸作戦を指揮したことで有名です。 のちに第34代アメリカ大統領に選ばれました。 その人がらについて、過去のブログで取り上げています(https://masatoshiyamada.blog.fc2.com/blog-entry-1183.html)。
最近、アイゼンハワーに関する映像・文章を3つ見たので紹介します。
1.映画『ノルマンディー 将軍アイゼンハワーの決断』・・・プライム・ビデオ
2.『ヨーロッパ十字軍 最高司令官の大戦手記』(D・D・アイゼンハワー著 朝日新聞社 1949年12月15日発行)
本書から抜粋し、番号を付けて紹介します。
『①1944年9月1日から3ヶ月間、私は大部分の時間を前線視察に費した。 戦線は広がる一方だったので、視察にはなかなか時間がかかったが、これは非常に有益であり、時間と努力を償って余りがあつた。 私は司令官たちを各本部に訪ね、膝を交えて個人的に語り合い、また部隊全体の気分を知ることが出来た。
②あるとき私は、前線陣地に足を止め、第29歩兵師団の数百の将兵と語り合っていた。 立っているところは泥でツルツルすべる丘だった。 しばらく話をして立ち去ろうとしたところ、泥にすべってスッテンコロリところんだ。 周りからドッと笑い声が起つた。 この笑い声から私は戦争中を通じてこれほど兵隊と打ちとけた会合は他にはなかったと信じている。
③私はたびたび友だちから前線訪問をやめるようにすすめられた。 彼等は、私が自ら話しかけることの出来るのは結局ごく少数の兵隊だけではないかといったが、これはもっとも至極である。 けれどもこれらの訪問が私を疲らせるだけで、なんら重要な意味はないという言分には承服し兼ねた。
④私は第一にこれ等の訪問によって兵隊たちの本当の気持をつかむことが出来ると考えた。 どんなことでも私は彼等に話しかけた。 私が好んで持ち出した質問は、特定の小部隊が歩兵の戦闘で何か際立つた新しい策略を使ったことがあるかどうか、というようなことであった。 私はその後も、兵隊たちが私の話に答えてくれる限りは、何事についても話しかけたのであつた。
⑤古くから言い慣わされている言葉に「丸裸の戦野」というのがある。 これは戦場を見た者ならだれにも実感のこもった表現である。 渡河作戦のように、異常な戦術的活動の集中を必要とする場合を除いて、前線地帯の戦野に立つ感情は何ともいえぬ淋しさなのだ。 そこにはほとんど何ものも見えない。
⑥友軍も、敵も、兵器も、軍隊が戦っている瞬間、突如として視野から消え去ったように思える。 誰もがみな非常な淋しさに襲われ、動いたり、姿を見せたりすれば、瞬時に死が訪れるという人間的な恐怖心のとりこになってしまうので抑制力を失ってしまう。 こうした戦場こそ指揮官に対する信頼、戦友愛が完全に現われる舞台なのである。
⑦私自身の力ではこの方面に大した働きは出来なかった。 だが私は、兵隊が金ピカの将官に話しかけることも出来るのだと知っていれば、将校をこわがるようなこともなくなるだろうと思った。 また私の前線視察のやり方を将校たちが見れば、彼等が部下を知り、友愛感を抱こうとするようになることもあり得るのであった。 いずれにしろ私は戦争中、前線訪問をやめなかったし、兵隊たちと話をしないことは、私にとって有害無益であった。
⑧あるときアフリカで、ある前線部隊の兵隊が私に、補給部隊にはあり余るほど行きわたっている板チョコレートが、自分たちのところにはちっとも来ないという不平をのべた。 私は部隊長にその理由をただしたところ、彼は再三再四要求したけれども、その都度輸送の方法がないという返事で断られているということだった。
⑨私はすぐに後方に電話をかけて、前線の航空隊や各部隊にこれらの物品が行きわたらないうちは、補給部隊にも一本のキャンディ、一本の煙草も配給してはいけないと命令した。 そうしたら驚くほど短時間の中に、彼等の要求が直ちに実現したとの喜ばしい報告を受けとった。』
過去ブログでも紹介しましたが、末端の兵士にまで気を配るアイゼンハワーの人がらには感動します。
3.『歴史群像』2022年10月号・・・特集『アイゼンハワー 平凡な軍人はいかにしてトップに上り詰めたのか』
抜粋し、番号を付けて紹介します。
『①輝かしい経歴の前段階には、不遇の「下積み時代」が存在していた。 希望する部署に進めず、上司のパワハラに苦悩し、階級は1920年から1936年まで16年間、少佐に留まっていた。 当時はおそらく誰一人として、この少佐がたった8年後に元帥という軍の最高位へと昇進するとは想像しなかっただろう。 (中略)
②歴史的に見たアイゼンハワーの最大の功績は、ヨーロッパがヒトラーとナチスの支配下に置かれた状況を打ち砕く、西側連合軍の反攻作戦をすべて成功に導いたことだった。
③野戦部隊の指揮を一度も実戦で経験していないというハンデを負い、戦間期には昇進と無縁の地味な役割を演じたアイゼンハワーだったが、第二次大戦における輝かしい成功の要因を分析すれば、その「下積み時代」に蓄積した、幅広い分野での知識と実務経験が大いに役立っていたことがわかる。
④彼は、参謀将校に必要な各種能力をこの時期に磨きつつ、戦車の構造や運用法、大規模な兵站管理の要点と限界、戦略と作戦の連関構造などについての理解を深めていた。 また、コナー(階級は当時最高位の陸軍少将)とマーシャル(大将、陸軍参謀総長)という二人の師から、大局的な判断の下し方を学び取った。』
最近、アイゼンハワーに関する映像・文章を3つ見たので紹介します。
1.映画『ノルマンディー 将軍アイゼンハワーの決断』・・・プライム・ビデオ
2.『ヨーロッパ十字軍 最高司令官の大戦手記』(D・D・アイゼンハワー著 朝日新聞社 1949年12月15日発行)
本書から抜粋し、番号を付けて紹介します。
『①1944年9月1日から3ヶ月間、私は大部分の時間を前線視察に費した。 戦線は広がる一方だったので、視察にはなかなか時間がかかったが、これは非常に有益であり、時間と努力を償って余りがあつた。 私は司令官たちを各本部に訪ね、膝を交えて個人的に語り合い、また部隊全体の気分を知ることが出来た。
②あるとき私は、前線陣地に足を止め、第29歩兵師団の数百の将兵と語り合っていた。 立っているところは泥でツルツルすべる丘だった。 しばらく話をして立ち去ろうとしたところ、泥にすべってスッテンコロリところんだ。 周りからドッと笑い声が起つた。 この笑い声から私は戦争中を通じてこれほど兵隊と打ちとけた会合は他にはなかったと信じている。
③私はたびたび友だちから前線訪問をやめるようにすすめられた。 彼等は、私が自ら話しかけることの出来るのは結局ごく少数の兵隊だけではないかといったが、これはもっとも至極である。 けれどもこれらの訪問が私を疲らせるだけで、なんら重要な意味はないという言分には承服し兼ねた。
④私は第一にこれ等の訪問によって兵隊たちの本当の気持をつかむことが出来ると考えた。 どんなことでも私は彼等に話しかけた。 私が好んで持ち出した質問は、特定の小部隊が歩兵の戦闘で何か際立つた新しい策略を使ったことがあるかどうか、というようなことであった。 私はその後も、兵隊たちが私の話に答えてくれる限りは、何事についても話しかけたのであつた。
⑤古くから言い慣わされている言葉に「丸裸の戦野」というのがある。 これは戦場を見た者ならだれにも実感のこもった表現である。 渡河作戦のように、異常な戦術的活動の集中を必要とする場合を除いて、前線地帯の戦野に立つ感情は何ともいえぬ淋しさなのだ。 そこにはほとんど何ものも見えない。
⑥友軍も、敵も、兵器も、軍隊が戦っている瞬間、突如として視野から消え去ったように思える。 誰もがみな非常な淋しさに襲われ、動いたり、姿を見せたりすれば、瞬時に死が訪れるという人間的な恐怖心のとりこになってしまうので抑制力を失ってしまう。 こうした戦場こそ指揮官に対する信頼、戦友愛が完全に現われる舞台なのである。
⑦私自身の力ではこの方面に大した働きは出来なかった。 だが私は、兵隊が金ピカの将官に話しかけることも出来るのだと知っていれば、将校をこわがるようなこともなくなるだろうと思った。 また私の前線視察のやり方を将校たちが見れば、彼等が部下を知り、友愛感を抱こうとするようになることもあり得るのであった。 いずれにしろ私は戦争中、前線訪問をやめなかったし、兵隊たちと話をしないことは、私にとって有害無益であった。
⑧あるときアフリカで、ある前線部隊の兵隊が私に、補給部隊にはあり余るほど行きわたっている板チョコレートが、自分たちのところにはちっとも来ないという不平をのべた。 私は部隊長にその理由をただしたところ、彼は再三再四要求したけれども、その都度輸送の方法がないという返事で断られているということだった。
⑨私はすぐに後方に電話をかけて、前線の航空隊や各部隊にこれらの物品が行きわたらないうちは、補給部隊にも一本のキャンディ、一本の煙草も配給してはいけないと命令した。 そうしたら驚くほど短時間の中に、彼等の要求が直ちに実現したとの喜ばしい報告を受けとった。』
過去ブログでも紹介しましたが、末端の兵士にまで気を配るアイゼンハワーの人がらには感動します。
3.『歴史群像』2022年10月号・・・特集『アイゼンハワー 平凡な軍人はいかにしてトップに上り詰めたのか』
抜粋し、番号を付けて紹介します。
『①輝かしい経歴の前段階には、不遇の「下積み時代」が存在していた。 希望する部署に進めず、上司のパワハラに苦悩し、階級は1920年から1936年まで16年間、少佐に留まっていた。 当時はおそらく誰一人として、この少佐がたった8年後に元帥という軍の最高位へと昇進するとは想像しなかっただろう。 (中略)
②歴史的に見たアイゼンハワーの最大の功績は、ヨーロッパがヒトラーとナチスの支配下に置かれた状況を打ち砕く、西側連合軍の反攻作戦をすべて成功に導いたことだった。
③野戦部隊の指揮を一度も実戦で経験していないというハンデを負い、戦間期には昇進と無縁の地味な役割を演じたアイゼンハワーだったが、第二次大戦における輝かしい成功の要因を分析すれば、その「下積み時代」に蓄積した、幅広い分野での知識と実務経験が大いに役立っていたことがわかる。
④彼は、参謀将校に必要な各種能力をこの時期に磨きつつ、戦車の構造や運用法、大規模な兵站管理の要点と限界、戦略と作戦の連関構造などについての理解を深めていた。 また、コナー(階級は当時最高位の陸軍少将)とマーシャル(大将、陸軍参謀総長)という二人の師から、大局的な判断の下し方を学び取った。』