2023.05.06 Sat
事に当たって恐るるなかれ
2017年に亡くなられた渡部昇一先生が生前最後に書かれていた原稿による『終生 知的生活の方法』(扶桑社新書)を読みました。 『秀吉に学ぶ「事に当たって恐るるなかれ」』 の項から抜粋し、番号を付けて紹介します。
『①私は大学の教員になってから、長期間にわたって言論糺弾団体に押しかけられるというトラブルに見舞われたことが二度ほどあります。 その間、大学にいる時は本当に大変でしたが、それでも家に帰る時までには気持ちを整理して学校でのことは忘れるようにしていました。 おそらく家内は、自分の亭主にそんなトラブルが起こっていたとは最後まで気がついていなかったと思います。
②私が混乱を乗り越えることができたのは、子供の頃、講談社の『少年倶楽部』か何かに連載されていた佐藤紅緑(佐藤愛子さんの父上)の「来れ語らむ」という文章を読んだからだと思います。
③その文章の中にあった「豊臣秀吉の偉いところは、その一生に恐怖感がなかったことだ」という一節を読み、子供ながら、事に当たって恐怖感を持たないということは重要だなと感心し、以来、「事に当たって恐るるなかれ」という言葉を繰り返し自分に言い聞かせてきました。 ただし、私は家内の車の運転に非常な恐怖感を感じます。 同じ恐怖感でもこの種のことは別物です。
④もう少し小さい事例を言うと、半世紀前の日本には英会話ができる人はあまりいませんでした。 われわれは英文科でしたから多少できたのですが、それが突然、「ドイツへ留学しろ」と言われたのです。 当時、英語学研究の水準はドイツが世界最高でした。 イギリスよりもはるかに高かったのです。
⑤その留学話が出た時、私を推してくださった先生は「君は英文科出身だから、学位を取るところまで無理するな」と言われました。 当時は留学生が挫折感やノイローゼでよく自殺したので、心配してくださったのだと思いますが、私は留学することに一瞬の躊躇も覚えませんでした。 ドイツ語会話をどうしようかなどとは少しも考えませんでした。
⑥ドイツ語会話は一時間もやったことがなかったのですが、 「恐るるなかれ」で向こうに行ってしまいました。 結局、ドイツの大学が規定した最短の時間で、 「マグナ・クム・ラウデ(大いなる称賛をもって)」という言葉がつく優等の博士の学位を取り、 日本の英語学者として最初に300ページの本をヨーロッパで出版しました。
⑦織田信長が本能寺で殺されたという情報が豊臣秀吉のもとにもたらされた時、彼の眼前には毛利の大軍がいました。 その時の秀吉と比べたら、自分の心配など爪の垢にもならない。 万事この伝で自分に果たしてできるかという不安を払拭し、 「汝、恐るるなかれ」で今日までやろうと努めてきました。 (中略)
⑧また、学生時代から夏休み中は露店商の商売をやった経験がありましたから、いざとなったら、テキヤの親分のところに行って「仕事をやらせてください」と言えばすむ話だと思い、トラブルが起こってもどんと構えていられたのです。』
⑦については、『中国大返し』として知られています。 ウィキペディアで検索すると以下のように出てきます。
「戦国時代末期の天正10年(西暦1582年)6月、備中高松城の戦いにあった羽柴秀吉が主君織田信長の本能寺の変での自害を知った後、速やかに毛利氏との講和を取りまとめ、主君の仇明智光秀を討つため、中国路を京に向けて全軍を取って返した約10日間にわたる軍団大移動のこと。」
史実を後から見ると、毛利氏との講和取りまとめが簡単に行われたようにも感じられます。 しかし実際は、相当困難で不安な状況にあったはずです。
『①私は大学の教員になってから、長期間にわたって言論糺弾団体に押しかけられるというトラブルに見舞われたことが二度ほどあります。 その間、大学にいる時は本当に大変でしたが、それでも家に帰る時までには気持ちを整理して学校でのことは忘れるようにしていました。 おそらく家内は、自分の亭主にそんなトラブルが起こっていたとは最後まで気がついていなかったと思います。
②私が混乱を乗り越えることができたのは、子供の頃、講談社の『少年倶楽部』か何かに連載されていた佐藤紅緑(佐藤愛子さんの父上)の「来れ語らむ」という文章を読んだからだと思います。
③その文章の中にあった「豊臣秀吉の偉いところは、その一生に恐怖感がなかったことだ」という一節を読み、子供ながら、事に当たって恐怖感を持たないということは重要だなと感心し、以来、「事に当たって恐るるなかれ」という言葉を繰り返し自分に言い聞かせてきました。 ただし、私は家内の車の運転に非常な恐怖感を感じます。 同じ恐怖感でもこの種のことは別物です。
④もう少し小さい事例を言うと、半世紀前の日本には英会話ができる人はあまりいませんでした。 われわれは英文科でしたから多少できたのですが、それが突然、「ドイツへ留学しろ」と言われたのです。 当時、英語学研究の水準はドイツが世界最高でした。 イギリスよりもはるかに高かったのです。
⑤その留学話が出た時、私を推してくださった先生は「君は英文科出身だから、学位を取るところまで無理するな」と言われました。 当時は留学生が挫折感やノイローゼでよく自殺したので、心配してくださったのだと思いますが、私は留学することに一瞬の躊躇も覚えませんでした。 ドイツ語会話をどうしようかなどとは少しも考えませんでした。
⑥ドイツ語会話は一時間もやったことがなかったのですが、 「恐るるなかれ」で向こうに行ってしまいました。 結局、ドイツの大学が規定した最短の時間で、 「マグナ・クム・ラウデ(大いなる称賛をもって)」という言葉がつく優等の博士の学位を取り、 日本の英語学者として最初に300ページの本をヨーロッパで出版しました。
⑦織田信長が本能寺で殺されたという情報が豊臣秀吉のもとにもたらされた時、彼の眼前には毛利の大軍がいました。 その時の秀吉と比べたら、自分の心配など爪の垢にもならない。 万事この伝で自分に果たしてできるかという不安を払拭し、 「汝、恐るるなかれ」で今日までやろうと努めてきました。 (中略)
⑧また、学生時代から夏休み中は露店商の商売をやった経験がありましたから、いざとなったら、テキヤの親分のところに行って「仕事をやらせてください」と言えばすむ話だと思い、トラブルが起こってもどんと構えていられたのです。』
⑦については、『中国大返し』として知られています。 ウィキペディアで検索すると以下のように出てきます。
「戦国時代末期の天正10年(西暦1582年)6月、備中高松城の戦いにあった羽柴秀吉が主君織田信長の本能寺の変での自害を知った後、速やかに毛利氏との講和を取りまとめ、主君の仇明智光秀を討つため、中国路を京に向けて全軍を取って返した約10日間にわたる軍団大移動のこと。」
史実を後から見ると、毛利氏との講和取りまとめが簡単に行われたようにも感じられます。 しかし実際は、相当困難で不安な状況にあったはずです。