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カス・ダマトとマイク・タイソン

元・ライトヘビー級世界チャンピオンのホセ・トーレスが、カス・ダマト(1908~85)門下の弟弟子であるマイク・タイソンについて書いた『ビッグファイト、ビッグマネー』(山際淳司訳 竹書房)を読みました。  「第四章 出会い」から、抜粋し、番号を付けて紹介します。

『①ひと昔も、ふた昔も前のことだ。  ボクシングの指導者、コンスタンチン・ダマトはまだ若くて、短気なマネージャー兼トレーナーだった。 かれはニューヨークの南ブロンクスで育った。

②カス・ダマトは22歳のときにはすでに白髪となり、片目しか見えず、そのうえ色盲という状態だった。  32歳になったころから、その原因についてついにかれは語らなかったが、臭覚、味覚、視覚、聴覚が衰え始めた。

③ダマトはほんの子供のころにボクシングにほれこみ、かれの言葉を借りれば「ストリート・ファイター」となっていた。  12歳の時に、自分の倍の年の大人と喧嘩をし、顔を何かで殴られた。  そのために彼は片方の目の視力を失った。

④22歳の時に、カスはジャック・バロウと共にエンパイア・スポーティング・クラブを創立し、若いボクサーを育てはじめた。  3人の世界チャンピオン、フロイド・パターソン(元・ヘビー級世界チャンピオン)、ロッキー・グラシアーノ(元・ミドル級世界チャンピオン)、そして私、ホセ・トーレスをはじめとするボクサーたちがそこから出た。  フロイドや私がダマトにゼロから育てあげられたのも、まさしくそこだった。

⑤カスは1930年年代の中頃にアメリカ軍に入隊し、ボクシング・コーチとなった。  第二次世界大戦直前に除隊された時は、軍曹だった。  カスはあまり背が高いほうでもなく、強健でもなかった。  たくましい首にのった頭にはわずかに白髪が残っているだけだった。

⑥カス・ダマトは独立独歩の孤高の人だった。  自分の考えを執念ともいえる頑固さで守り通した。  その根本的なボクシング哲学は、高い次元においては、リング上の勝敗を決するのは肉体のメカニズムではなく精神力であるというものだった。

⑦カスは何度もくりかえしていった。  「ボクシングでは人間性と創意が問われる。  勝者となるのは、常に、より多くの意志力と決断力、野望、知力を持ったボクサーなのだ」

⑧そんなころ、1979年、マイク・ジェラルド・タイソンは初めてカス・ダマトと会った。  それはまた、私がタイソンと会った年でもある。

⑨カスは私がプロボクサーであった11年間(1958~69)を通じてマネージャーをし、私を世界ライトヘビー級チャンピオンに育て上げてくれた。  その後もかれは、二人の若いチャンピオン、ウィルフレッド・ベニテス(元・スーパーライト級、ウェルター級、スーパーウェルター級の3階級世界チャンピオン)とエドウィン・ロザリオ(元・ライト級、ジュニアウェルター級の2階級世界チャンピオン)を含めて、数百名の若いボクサーのトレーニングを手伝ってきた。

⑩しかし、子供のころからずっと育てたボクサーはまだいなかった。  1979年2月のある寒い朝、カスは一人の若いボクサーのことで夢中になっている様子だった。  (中略)  やってきたのは力強い顔をした少年だった。  カスはその少年の頭にそっと手を置くと、私にいった。  「この子がマイク・タイソンだ。  ボクシングに対する興味と希望を捨てさえしなければ、いつかヘビー級の世界チャンピオンになる子だよ」

⑪ヘビー級にしては背が低く(5フィート6インチ)、ボクサーにしては筋骨たくましく(186ポンドで、ほとんど脂肪はなく筋肉の塊だった)、荒々しいルックスのわりに内気なようだった。  マイクはその時13歳にもなっていなかったが、すでにかなりの件数の犯罪を犯していた。』

それから7年9か月後の1986年11月22日、タイソンは史上最年少(20歳5か月)で世界ヘビー級チャンピオンとなります。 ところが、カス・ダマトは前年の11月4日に亡くなっているため、 残念ながら見届けることができませんでした。

外出自粛が続いていますが、本を読むには最適の環境です。  

「与えられた環境条件の中でできるだけのことをする」というのは、私の生活信条の一つでもあります。

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