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『平家物語』と「運命論」

毎週、予約録画して観ているテレビ番組がいくつかあります。  NHK・Eテレの『100分de名著』もその一つです。  5月は『平家物語』が取り上げられ、能楽師の安田登さんが解説されていました。  5月20日に放送された第3回のタイトルは『衰亡の方程式』です。  安田さんが書かれたテキストから抜粋し、番号を付けて紹介します。

『1.「運命論」から読み解く源平の盛衰

①(平)清盛を失った平家は、このあと(源頼朝のいとこで同じ清和源氏の)木曽義仲との戦いに敗れ、とうとう都落ちすることになります。  今回は木曽義仲の活躍と平家の没落、そして、その義仲が頼朝派遣軍に討たれるという、源氏と平家双方の運命を追っていきたいと思います。

②さて、いま「運命」という言葉を無造作に使ってしまいましたが、この言葉は中国古典からの輸入語であり、『平家物語』以前はあまり使われていませんでした。  (中略)

③日本人が「運命」ということを考えはじめたのは、平安貴族の必読書のひとつであった『文選(もんぜん・・・六朝時代の梁の昭明太子(501~531年)が編纂した中国の詩文集)』の寄与するところが大きかったのではないでしょうか。

④『文選』には三命論と呼ばれる文章があります。  班彪(はんぴょう)の「王命論」、李康(りこう)の「運命論」、劉峻(りゅうしゅん)の「弁明論」です。  

⑤「運命論」によると運命には「運」「命」「時」の三つの側面があると言います。  「運」とは大きな流れ(運び)、「命」とはその人が持って生まれた天命、「時」とは流れゆく時間のうちの一瞬をしっかりとつかまえる力をいいます。

⑥王朝が興ったり衰退したりするときには「運」が大きく寄与します。  運が盛んになれば名君が現れるのですが、同時に忠賢の臣も現れ、王朝が変わります。  この「運」は天が定めるものであり、人間はいかんともしがたいというのが李康の考えですが、しかし『平家物語』では人の悪行と善行によって「運」も変え得ると考えます。  (中略)

⑦また、「命」と「時」の関係も大切です。  各人には定まった「命」があります。  しかしどんなにすばらしい「命」をもって生まれて来ても「時」をつかまえることができなければ、その「命」は十全に機能しない。

⑧『平家物語』の中では清盛の子どもたちがその例です。  逆に「命」として恵まれずとも、「時」をつかむことができれば「運」を変えることすらもできる。  源頼朝をはじめとする源氏の武将たちがそのように描かれます。


2.キーパーソンは文覚

①義仲はさらに驕りを増大させ、その果てに滅ぶことになるのですが、頼朝はのちに鎌倉幕府を開く大将軍になります。  (中略)

②ここで、もう一度『文選』の「運命論」を参考に考えてみると、義仲と頼朝を分けた重要な鍵、あるいはキーパーソンは実は文覚(もんがく・・・真言宗の僧。  高雄の神護寺復興を決意し、後白河上皇に荘園寄進を強要して院の逆鱗に触れ伊豆に流されるが、そこで頼朝と知り合い親交を結ぶ。)ではなかったかと思うのです。

③(後白河法皇の第三皇子)以仁王(もちひとおう)の(平家打倒の)令旨が出されたとき、頼朝はなかなか挙兵しませんでした。  ところが文覚がやって来て、はじめて立つ決心をする。  もちろん直接のきっかけは後白河院の(征夷大将軍任命の)院宣です。

④しかし、それをもたらした文覚との出会いは、「運命論」の「運」の考え方そのものです。  「運命論」によれば、運がすばらしいときにはすばらしい君主が出る。  が、同時にすばらしい忠賢の臣も出る、とされています。

⑤「聖明の君には、必ず忠賢の臣あり。  其の相(あい)遇(あ)う所以(ゆえん)は、求めずして自ら合ふ」とあります。  君主と忠賢の臣である軍師は誰かを介したり、片方がもう片方を求めたりして合うのではなく、自(おの)ずからふっと出会うというのです。  

⑥これに当てはめて考えると、頼朝にとっての忠賢の臣は文覚でした。  文覚が頼朝に出会ったのは、彼が後白河法皇に無礼を働いて伊豆に流罪になったからです。

⑦流されたふたりが偶然出会って、そして院宣がもたらされて立ち上がった。  君主と忠賢の臣という条件がそろったこのとき、頼朝は、まさに「運」を得ていたのです。  (中略)

⑧義仲は忠賢の臣との出会いを待てなかったし、そもそもいなかった。  ですから「運」を得ていなかった。  こう考えられるのではないかと思うのです。』

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