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武道家の楽観性

前回紹介した哲学者・武道家の内田樹先生の別の対談集を読みました。  『善く死ぬための身体論』(集英社新書)という本で、対談相手はヨーガ指導者の成瀬雅春先生です。  内田先生の「まえがき」から抜粋し、番号を付けて紹介します。

『①僕の合気道の師匠である多田宏先生と成瀬先生との対談を聴きに行った時です。  帰途、五反田まで歩く道筋で、多田先生に「成瀬先生って、本当に空中に浮くんでしょうか?」と伺ってみたら、多田先生がにっこり笑って「本人が『浮く』と言っているんだから、そりゃ浮くんだろう」とお答えになったのが僕の腹にずしんと応えました。

②なるほど。  武道家は懐疑的であってはならない。  そんな命題が成立するのかどうかわかりませんけれど、何を見ても、何を聴いても、疑いのまなざしを向けて、「そんなこと、人間にできるはずがないじゃないか」というふうに人間の可能性を低めに査定する人間が武道に向いていないことはたしかです。

③でも、実際にそのような「合理的」な人は武道家の中にもいます。  そういう人は筋肉の力とか、動きの速度とか、関節の柔らかさというような、数値的に表示できる可算的な身体能力を選択的に開発しようとする。  でも、実際に稽古をしている時に僕たちが動員している身体能力のうち、数値的に表示できるものはたぶん1パーセントにも満たないんじゃないかと思います。

④していることのほとんどは、中枢的な統御を離れて、自律的に「そうなっている」。  いつ、どこに立つのか、どの動線を選択するのか、目付はどこに置くのか、手足をどう捌くのか、指をどう曲げるのか・・・・・・などなど。  ただひとつの動作を行うにしても、関わる変数が多すぎて、そのすべてを中枢的に統御することなんか不可能です。  (中略)  淡々と稽古を積んでゆくうちに、そういう「賢い身体」がだんだんでき上ってきます。

⑤武道の稽古においては、「こういう能力を選択的に開発しよう」ということができません。  だって、「どういう能力」が自分の中に潜在しているかなんて僕自身が知らないから。  あることができるようになった後に、「なんと、こんなことができるようになった」と本人もびっくりする。  そういうものです。  (中略)

⑥そのどこに向かうのかわからない稽古の時に手がかりになるのはただひとつ「昔、こういうことができる人がいたらしい」という超人たちについてのエピソードです。  そのような能力の「かけら」でも、もしかすると自分の中には潜在的にあるのかもしれない、修業を積んでいるうちに、思いがけなくそういう能力が部分的にではあれ発現するかもしれない、それだけが修業の手がかりになります。  

⑦そういうわりと楽観的でオープンマインデッドな修業者と「そんなこと、人間にできるはずがない。  そういうのは全部作り話だ」と切って捨てる「科学主義的」な修業者では、稽古を10年20年と重ねてきた後に到達できるレベルが有意に変わります。  

⑧どんな異能であっても、「そういうことができた人がいる」という話は受け入れる。  「そういうことって、あるかもしれない」と思う。  そして、どういう修業をすれば、どういう条件が整うと、「そういうこと」ができるようになるのか、その具体的なプロセスについて研究し、実践してみる。  

⑨だって、それによって失われるものなんて何もないんですから。  自分の中に潜む可能性を信じようと、信じまいと、日々の稽古そのものに割く時間と手間は変わらない。  だったら、「そういうことができる人間がいる」と信じたほうがワクワクするし、稽古が楽しい。  人間の潜在可能性についての楽観性と開放性は武道家にとってかなり大切な資質ではないかと僕は思います。』

人間の潜在可能性を信じて、今朝も立禅でした(笑)

  

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