FC2ブログ

PREV | PAGE-SELECT | NEXT

神風

1.8月7日のブログで日本史学者・呉座勇一さんのインタビューを紹介しました。  以下は、その中の一部です。  

『(太平洋戦争で)日本軍が奇襲を多用した背景の一つに、源義経が一ノ谷の戦いで見せた(断崖絶壁を馬で駆け下り、敵陣の背後を急襲した)『鵯越の逆落とし』があったと言われます。  『義経は奇襲で平家の大軍に勝った。  だからわれわれも、奇襲でアメリカに勝てる!』と思ったわけです。

しかし奇襲が上手くいったのは真珠湾攻撃など最初だけで、あとは連戦連敗でした。  実は最近の研究では、鵯越の逆落としは『平家物語』の創作で、事実ではない、と考えられている。』

歴史上の事実を誤解することの怖さを強調されていました。


2.今回取り上げるのは『奇襲』ではなく『神風』です。  『蒙古襲来と神風』(服部英雄著 中公新書)の『はじめに』から抜粋し、番号を付けて紹介します。

『①太平洋戦争が終わるまでは、大人も子供も「神風(かみかぜ)」を信じていた。  嵐による蒙古襲来(元寇)での勝利である。  無謀な戦争を、無批判に国民が支持しつづけた背景の一つに、この不敗神話があった。  戦争最優先の全体主義国家はあらゆる批判を許さなかったとはいえ、国民も戦争を終わらせようとは考えず、努力も行動もしなかった。

②国家の歴史認識の原点に「神風」があった。  領土の蒙古襲来、すなわち文永の役、弘安の役での敵国退散・防戦勝利に、「神風」なる摩訶不思議な言葉が付与され、その後、日本の宗教家・思想家・歴史家が、日本は神の国であるという大前提のもと、神風史観を順次形成していった。  (中略)

③神風史観によって、蒙古襲来は以下のように解釈された。  

『神風によって、蒙古が退散した。  つまり、二度とも神風が吹いて、元寇は決着がつく。  文永の役では敵は一日で引き返し、弘安の役では嵐によって、肥前鷹島に集結していた敵船が沈み、全滅した。』  (中略)

④神風史観によれば、必ず嵐(神風)がやってくる。  そして決着がつく。  ところが事実はさまざまに違う。

⑤文永の役についていえば、一日で敵が帰国した原因とされる嵐はその日、つまり赤坂鳥飼合戦があった文永11年(1274)10月20日には吹いていない。  (中略)

⑥つづく弘安の役では、確かに台風が来たし、じっさいに鷹島沖に船は沈んでいる。  (中略)  ただし鷹島に停泊していたのは全軍ではなく、旧南宋軍であった。  朝鮮半島の高麗を中心とする先遣部隊は博多湾にいた。  

⑦台風通過は弘安4年(1281)閏(うるう)7月1日。  その4日後の7月5日に博多湾・志賀島沖海戦、さらに2日後の7月7日に鷹島沖海戦があり、ともに日本が勝利した。  嵐・台風が決着をつけたわけではなく、その後にも合戦は継続されていた。  (中略)

⑧のちになって「神風」とされた大型台風は、日本の船も沈めている。  九州・本州を横断していったから、田畠にも人家・山林・港にも、甚大な被害を与えた。  怨嗟(えんさ)の嵐であって、それを当時の日本人が神風と呼ぶことはぜったいになかった。

⑨元や高麗に戻った将兵は、戦略ミスではなく嵐のために帰国したとして、敗戦の責任を逃れようとした。  大風雨被害は確かにあったが、より強調・誇張されていった。』


3.『終章』からも抜粋して紹介します。

『冒頭で、非科学的な神風思想が日本不敗神話を形成し、敗戦が決定的になってもなお戦争をやめることができず、犠牲者・損失が飛躍的に増え続ける大きな要因になったことを述べた。  (中略)  自殺攻撃をする神風特攻隊こそが、神風思想がもたらした悲劇の最たる象徴のように思われてならない。』

私も本書を読むまで、二度の元寇は嵐によって元の船が沈み、勝利したものだと思っていました。  

13世紀の事実についての誤解が20世紀の「神風特攻隊」を生んだわけです。

8月7日のブログで紹介した呉座さんの「歴史を物語として学んでしまうと、こういう大やけどをすることもあるのです」という一文がここでも胸に響きます。

TOP↑

PREV | PAGE-SELECT | NEXT