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運を呼び込む努力と感謝

いくつか関心のあるテーマがあって、それに関する文章をよく読みます。  最近だと「健康」がその一つですが、若いころからずっと続いているのは「運」というテーマです。

昨日の日経新聞・夕刊に「運」に関する寄稿が二つあったので、抜粋し、番号を付けて紹介します。

1.「運を呼び込む努力と感謝」・・・プロトレイルランナーの鏑木毅さん

『①小学生の前で自分の経験を伝える機会があり、あるとき、子供から「将来(何らかの)プロスポーツ選手になって世界で活躍したいです。   どうすればいいですか」と尋ねられ、答えに窮したことがある。

②というのも私自身、運動でずば抜けた能力はなかったから。  能力不足を自覚していればこそ、それを補おうとこのトレイルランニングというスポーツで誰よりも努力した。  その自負はある。

③だが努力さえすれば夢は必ずかなうのかと問われると、残念ながら必ずしもそうとは言えない。  子供たちの夢を壊してしまうようだけれど、実は「運」に巡り合うタイミングがなによりも重要になるのだ。

④競技活動を支えてくれる協力者やスポンサー企業が見つかり、レース時に運良くライバルが存在するかどうか。  気象条件はもちろん、マクロ的な目線でみていくと、時代の流れなども関係してくることがある。

⑤自分ではコントロールできないさまざまな要素を味方につけないと、プロスポーツ選手として大きな成果は得られなかった。  自分は単に運がよかったのかもしれない。  心底、そう実感する。  ただこう伝えてしまうと、この子は失望するだろうか。

⑥とらえどころのない「運」。  その中で自分自身でコントロールできるものがあるとするなら、それは人への気遣いだと感じる。

⑦国内の大会で連戦連勝を飾り、世界への挑戦を始めた当初、妻からびしりと言われた。  「あなたは最近はてんぐになっている。  そんな状態だと応援されなくなるわよ」  (中略)

⑧それ以来、なるべく初対面の人にも話しかけやすい雰囲気づくりを心がけた。  すると協力してくれる人も自然と増えると同時に自分の競技力も上がっていった。

⑨気遣いが競技力を直接、高めるわけではない。  立ち居振る舞いに気を配り、年齢がかなり下の人にも敬う姿勢を忘れないよう注意していると、自分の責任の重さや期待を再認識できた。  それを糧として積み重ねた努力が結果として世界への扉を開いたのだと思う。

⑩冒頭の子には「まずは一生懸命に努力してね。  そして決して感謝の気持ちを忘れずに、誰からも好かれる選手になってね」と伝えた。

⑪運は全くの偶然ではない。  自分の手でつかめるよう努力し、引き寄せることもできる。  今はそう考えている。』


2.「残された時間は少ない」・・・漫画家の竹宮惠子さん

『①(前略)  感動をWBCは我々に再び与えてくれた。  もう目を丸くして驚くような展開が繰り広げられ、「野球の神様が用意した舞台」と言われるような名勝負で締めくくられた。  それは今更この場所で述べなくとも、多くの人が知るところだ。

②私がユニコーン・大谷翔平を更に強く意識したのはあるCMで語る彼の言葉だった。

③自分が体の調子も良く、年齢的にもべストに野球を理解しており、打席がどのように回ってくるか、誰が相手ピッチャーか、などなど、様々な条件を入れると、あとどのくらいベストなプレーが残せるのか、決して多くの時間はないのだ、というような意味のことを語っている。  修行僧みたいだと、いろいろな人が感じているのはこういうところかもしれない。

④でも、彼は自分の幸運をしっかり掌握していると思った。  運を呼び込むために何をすべきか、どんなスタンスで待てばいいか、準備となるような考え方はどんなものか。  そして肩に力を入れることなく彼はいつも自分の持ち物に感謝している。  そうしないと運の神様との駆け引きに負けると言わんばかりに。  そんな風に見えるのは私だけだろうか。

⑤若い人、特にこれから世に出て自分を問う人へこんな言葉を贈る。  「自分が出会うすべての機会は奇跡のようなもの。   二度と同じ瞬間は巡ってこない。  だからその幸運(あるいは不運)を大切に」。

⑥でも、どれくらいの人が、すべてが二度とないことを知っているだろう。  この瞬間が常にいとおしいと、どんな時にも思いたい。』


3.鏑木さんは⑩で、竹宮さんは④で、「運」と「感謝」との関係に言及しています。

5月13日のブログでも瀧靖之さんの著書から次の文章を紹介しました。

『ノーベル賞をはじめ、優れた業績に贈られる受賞者の会見や、スポーツで優勝した選手のインタビューなどをテレビで見ていると、感動をもって気づくことがあります。

受賞された方々の多くが、眼を熱くして、「この賞は、私一人の賞ではありません。  支えてくれたみなさんと一緒にいただいた賞です」と、語っています。  自分個人に与えられた賞でありながら、自分を育ててくれた恩師の方や、一緒に仕事をした仲間、支えてくれたスタッフ、そして、両親や家族への感謝でいっぱいの受賞者の姿が、いつも印象強く心に残ります。』


4.感謝の気持ちの少ない人で、長期的に運のよい人を見たことがありません。  

城西支部では昇級した少年部に帯を渡すとき、「空手を習わせてくれているご両親への感謝を忘れないように」と伝えるようにしています。

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知的好奇心と共感力その2

前回のブログで、子どもの将来にとって大切な能力として「知的好奇心」と「共感力」を取り上げました。  

『秘伝』今月号の連載『武道者徒歩記』(日野晃著)のタイトルは『社会で一番重要な能力とは?』でした。  抜粋し、番号を付けて紹介します。

『①自分が活動する場としての社会で、一番重要な事は何だろう?   これも当たり前の事だが、「コミュニケーション能力」とそれと同時にある「人間関係を築く能力」がある事だ。  さらに贅沢を言えば「気遣いが出来る事」だ。

②その3つがあれば、そして、それらに加え人間に嫌味がなければ、社会に出ても上司や先輩達に引き立てて貰える。  そういった引き立てがあるから、学校を卒業した当初の社会生活の未熟な時、仕事であれ人間関係であれうまく行くのだ。  もちろん、起業をするとしても同じ能力が必須だ。

③重要なのは、決して専門のスキルではない事だ。  もちろん、スキルはあった方が良いに決まっているが、それが無くてもこの3つの能力さえあれば、社会では生き抜いていけるのだ。  (中略)  

④これらの能力の基礎は、幼児期から少年期に鍛えられるのではないかと私は考える。  それは、野生の時代だからだ。  お母さんから産まれ、良いも悪いも何もかもを知らない、何もかもを体験していない状態があり、そこからたった1年や2年しか経っていない時期だ。

⑤また、幼児の出だしは、それこそ家族や周りの見知った大人達しかいない状態から、同年代、もしくはそれに近い年代の幼児達と初対面し、自分の言い分というか我がままというか、思い通りにいかない事がある、という事に戸惑う時期だ。  (中略)

⑥幼児期少年期の良い所は、年齢差を超えて遊ぶところにある。  お兄ちゃんお姉ちゃんから、遊びやルールを教えて貰う事があったり、時には意地悪されたりもする。  そんなごった煮が気持ちを強くさせたり、顔色を見るという事も覚えるのだ。  これぞ社会性が育つ種である。  (中略)

⑦そして、自分自身の「好奇心」のおもむくままに行動するのが基本だが、見知った人以外の人が出現する事で、つまり、知らない人と認識する事で、人見知りしたり懐いたりといった事が混在する時期でもある。

⑧また、「好奇心」のおもむくままの行動や行為は視線に表れていて、驚くほど透明で怖いほど鋭い視線を浴びせて来るのもこの時期だ。  この視線は生物として本能に属する重要な状態なのだが、これは自意識の発達や知識が増える程に消えて行くから不思議だ。  どうして怖いほど鋭い視線なのかというと、「好奇心」そのものとその「好奇心」の強さが意志の方向を明確にするからだ。

⑨社会では、個人の個性や創造性が大事だと言われている。  では、その個性や創造性は何時何処で育まれるのだろうか?   本来は先程の幼児期が基本となる。  どれだけ「好奇心」だけで動き回ったかだ。  場合によっては、その「好奇心」で何かを作ったり、何かのコレクターになったりする事もある。

⑩私の愚息は2歳くらいの時、街を走る自動車の名前を全部言い当てていた。   愚息が自動車の名前を当てるので「どうして分かるのか?」と、何度質問したか分からない。  とにかく、何かに執着しているような特異性を発揮する事もある。』

①~⑥は「共感力」、⑦~⑩は「好奇心」について書かれています。

※文中の「好奇心」の「」は私が付けました。

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知的好奇心と共感力

『こんなカンタンなことで子どもの可能性はグングン伸びる!』(瀧靖之著 ソレイユ出版)を読みました。  「2章 たった2つの力を育てるだけで、子どもの可能性が大きく広がる!」から抜粋し、番号を付けて紹介します。

『①私は、長い間、人間の脳について研究を行う中で、一生の脳の土台となる「子どものときの脳」に大変注目をしてきました。  子どもの脳に焦点を当てたとき、どのようにすれば子どもが幸せに育ち、幸せな人生を送れるのか私たちの研究を通して、とても大きなことが見えてきたのです。

②子どもの将来にとって、大切な能力の要素はさまざまありますが、「とくに大切なのは、たった2つ!」ということです。  その2つとは、子どもの「知的好奇心」と「共感力」です。  長年の研究を通して、この「たった2つの力を育てるだけで、子どもの可能性をグングン伸ばすことができる!」ということがわかってきたのです。

③「知的好奇心」は、「もっと深く知りたい、もっと深く探究したい」という気持ちのことです。  この「知的好奇心」は、子ども自身の力でさまざまな能力を自分のものにし、夢をつくり、自分自身の人生をしっかりと歩いていける力を持っています。

④「共感力」は、「人の気持ちを理解し、寄り添うことのできる力」です。  人を思いやる心をつくり、社会の中でたくさんの人と一緒に生きていくことができる力となります。  (中略)

⑤「知的好奇心」と「共感力」。  この2つの力は、お子さんが生きていく上で、大切な車の両輪といえます。  それぞれが同じように育つことで、まっすぐにしっかりと前に進むことができます。

⑥「知的好奇心」がしっかり育っていても、「共感力」が育っていないと、たとえばこんなふうに車は傾いてしまいます。

・どんなにやりたいことがあっても、どんなに学校の成績がよくても、なかなか友達をつくることができません。

・自分の望む仕事につくことができても、人と一緒に何かをすることが苦手で、仲間と一緒に仕事をする喜びや達成感を味わうことができません。  社会の中にいることがつらくなってしまうことでしょう。
 
⑦反対に、「共感力」が育っていても、「知的好奇心」が低いと、どうでしょう。  

・思いやりのあることで、多くの人から好かれ、まわりにはいつも友達がいっぱい。  ですが、興味を持てるものがなく、毎日がつまらない。

・いつも自分が何をしたいのか、何をしたらよいのかがわからず、ただ、そのときそのときの環境に流されてしまうことでしょう。

⑧ノーベル賞をはじめ、優れた業績に贈られる受賞者の会見や、スポーツで優勝した選手のインタビューなどをテレビで見ていると、感動をもって気づくことがあります。

⑨受賞された方々の多くが、眼を熱くして、「この賞は、私一人の賞ではありません。  支えてくれたみなさんと一緒にいただいた賞です」と、語っています。  自分個人に与えられた賞でありながら、自分を育ててくれた恩師の方や、一緒に仕事をした仲間、支えてくれたスタッフ、そして、両親や家族への感謝でいっぱいの受賞者の姿が、いつも印象強く心に残ります。

⑩どんなに優秀な能力があっても、人が一人でできることは限られています。   それを大きなものにしてくれるのは、一緒に仕事をする仲間、助けてくれる人々の存在であることを、私たちは受賞者の言葉から教えられます。

⑪受賞された方々の高い能力は、人一倍強い知的好奇心が実を結んだものでしょう。  頂点を極めるためには、人知れぬつらい経験も乗り越えてきたはずです。  そして、ひとつの大きな仕事をするためには、どこの場でも、たくさんの人との関わりあいがあります。

⑫人に信頼されなければ、たくさんの人と一緒に仕事は成し遂げられません。  相手の気持ちに寄り添う、思いやる、この共感力の高い人と人とがつながったとき、すばらしい実を結ぶのだといえます。』

極真空手の稽古における「知的好奇心」は、「もっと型がうまくなりたい、もっと組手が強くなりたい」という気持ちから生まれてきます。  

また、「共感力」は一緒に稽古する友達、一緒に試合に出る仲間とともに養うことが可能です。  そういった意味で、空手の試合は個人競技ではありますが、チームの一体感がとても大切になります。



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事に当たって恐るるなかれ

2017年に亡くなられた渡部昇一先生が生前最後に書かれていた原稿による『終生 知的生活の方法』(扶桑社新書)を読みました。  『秀吉に学ぶ「事に当たって恐るるなかれ」』 の項から抜粋し、番号を付けて紹介します。

『①私は大学の教員になってから、長期間にわたって言論糺弾団体に押しかけられるというトラブルに見舞われたことが二度ほどあります。  その間、大学にいる時は本当に大変でしたが、それでも家に帰る時までには気持ちを整理して学校でのことは忘れるようにしていました。  おそらく家内は、自分の亭主にそんなトラブルが起こっていたとは最後まで気がついていなかったと思います。

②私が混乱を乗り越えることができたのは、子供の頃、講談社の『少年倶楽部』か何かに連載されていた佐藤紅緑(佐藤愛子さんの父上)の「来れ語らむ」という文章を読んだからだと思います。

③その文章の中にあった「豊臣秀吉の偉いところは、その一生に恐怖感がなかったことだ」という一節を読み、子供ながら、事に当たって恐怖感を持たないということは重要だなと感心し、以来、「事に当たって恐るるなかれ」という言葉を繰り返し自分に言い聞かせてきました。  ただし、私は家内の車の運転に非常な恐怖感を感じます。  同じ恐怖感でもこの種のことは別物です。

④もう少し小さい事例を言うと、半世紀前の日本には英会話ができる人はあまりいませんでした。   われわれは英文科でしたから多少できたのですが、それが突然、「ドイツへ留学しろ」と言われたのです。  当時、英語学研究の水準はドイツが世界最高でした。   イギリスよりもはるかに高かったのです。

⑤その留学話が出た時、私を推してくださった先生は「君は英文科出身だから、学位を取るところまで無理するな」と言われました。  当時は留学生が挫折感やノイローゼでよく自殺したので、心配してくださったのだと思いますが、私は留学することに一瞬の躊躇も覚えませんでした。  ドイツ語会話をどうしようかなどとは少しも考えませんでした。

⑥ドイツ語会話は一時間もやったことがなかったのですが、 「恐るるなかれ」で向こうに行ってしまいました。  結局、ドイツの大学が規定した最短の時間で、 「マグナ・クム・ラウデ(大いなる称賛をもって)」という言葉がつく優等の博士の学位を取り、 日本の英語学者として最初に300ページの本をヨーロッパで出版しました。

⑦織田信長が本能寺で殺されたという情報が豊臣秀吉のもとにもたらされた時、彼の眼前には毛利の大軍がいました。  その時の秀吉と比べたら、自分の心配など爪の垢にもならない。  万事この伝で自分に果たしてできるかという不安を払拭し、 「汝、恐るるなかれ」で今日までやろうと努めてきました。  (中略)

⑧また、学生時代から夏休み中は露店商の商売をやった経験がありましたから、いざとなったら、テキヤの親分のところに行って「仕事をやらせてください」と言えばすむ話だと思い、トラブルが起こってもどんと構えていられたのです。』

⑦については、『中国大返し』として知られています。  ウィキペディアで検索すると以下のように出てきます。

「戦国時代末期の天正10年(西暦1582年)6月、備中高松城の戦いにあった羽柴秀吉が主君織田信長の本能寺の変での自害を知った後、速やかに毛利氏との講和を取りまとめ、主君の仇明智光秀を討つため、中国路を京に向けて全軍を取って返した約10日間にわたる軍団大移動のこと。」

史実を後から見ると、毛利氏との講和取りまとめが簡単に行われたようにも感じられます。  しかし実際は、相当困難で不安な状況にあったはずです。

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