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戦略とひらめき

極真空手の試合において、「対戦相手に対してどう戦うか」という戦略を立てることは大切です。  戦略について医師の帯津良一先生が『太極拳養生法』(春秋社)の中で書かれています。  「五 太極拳のひらめき」から抜粋し、番号を付けて紹介します。

『1.①もう30年以上も前のことだが、指揮者の小沢征爾さんが、アメリカの大きな音楽関係の賞を得たことがある。  そのことを伝える新聞記事のなかに小沢さんの受賞の弁ともいうべき談話が載っていた。  「私には的中の予感があった」と述べているのだ。

② 「的中の予感」!   この一言がわが胸にぐさりと突き刺さったのである。  記憶に間違いがなければ、この賞も、芥川賞やアカデミー賞のように、まず数人の候補者がノミネートされる。  そのノミネートされた段階で、小沢さんには、この賞はかならず俺のところに来るという予感(ひらめき)があったというのである。

③的中の予感!   いい言葉だ。  別にしらべたわけではないが、ノーベル賞の受賞者もいずれかの時点で、この的中の予感に襲われるのではないだろうか。  ノーベル賞なんて、私にとっては縁無きもの。  誰が受賞しようと羨ましいこともないが、この的中の予感だけは羨しいことしきりといったところである。

④しかし、この的中の予感も、ある日、突然虚空からやって来るものではないだろう。  まずはノミネートされなければならない。  自らの仕事ぶりが認められなければ始まらないのである。  その上に、日々攻めの養生を果たしている者の心のなかにこそ、的中の予感は芽生えるのである。  

⑤つまり、ある種の覚悟をもって生きることによって、その予感を生み出す土壌が限りなく豊饒になっていくのではないだろうか。  (中略)

2.①ひらめきが予感を生み、 予感がさらなるひらめきを生むのではないだろうか。  ひらめき (閃き)といえば、なんといってもクラウゼヴィッツだ。  カルル・フォン・クラウゼヴィッツ(1780~1831)。   ナポレオンと戦ったプロイセンの軍略家。  その著『戦争論』は軍事理論の古典として、いまでも 「岩波文庫」の一角を占めている。

②そのクラウゼヴィッツが、多くの戦術を統合して“戦略”に止揚することの重要性を説きながら、戦略とは〝ひらめき" であるという。  じつに重みのある言葉ではないか。  そしてそのひらめきも、私たちが思っているような、ある種の感覚としてのひらめきではなく、むしろステップを踏んで起こる思考に近いものだという。

③そのステップは五段階から成る。
一、歴史上の先例にならう。
二、平常心に立ち返る。
三、戦場ないしは戦局を一瞥する。
四、ひらめく。
五、不屈の意志で遂行する。

④つまり、どういうことかというと、
一、まずは似たような局面で勝利をおさめた先例を洗い出し、整理をして、いつでも範として採り上げられるように心のなかの引出しに納める。  
二、納めたら、先例についてのとつおいつの思案をすみやかに捨て、平常心に立ち返る。   この切替えはそう簡単ではないが、まずは場数を踏むことである。  
三、そして、戦局を一瞥する。  この一瞥こそ戦略の最重要案件、キーポイントである。   一瞥によって大局をつかむのである。  大局観と言い換えてもよいだろう。   細部を熟視したり、全体を観るにしても分析的思考が伴っていては大局を観ることはできない。  大局を観ることができなければひらめきは生まれては来ない。  ひらめきがなければ戦略にならないのであるから、一瞥がいかに大事か、身に沁みて分かるというものである。』

上記2.③の五段階を極真空手の試合についてアレンジすると以下のようになると思います。

一、事前に対戦相手の過去の映像を見て研究する。
二、試合当日は平常心に立ち返る。
三、試合当日の対戦相手の勝ち上がり方や自分自身のコンディションなどを一瞥する。
四、ひらめく。
五、不屈の意志で遂行する。

四、のひらめきについては、試合の前のひらめきと、試合中のひらめきのの二通りが考えられます。  試合中にひらめいた場合には、速やかに戦略・戦術の変更が必要になります。



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神は細部に宿る

1.「神は細部に宿る」という格言があります。  ピクシブ百科事典から検索・抜粋し、番号を付けて紹介します。

『(1)概説

①英文では【God is in the details.】である。

②発祥については不明確で、一説にはフランスの作家ギュスターヴ・フローベールの言とされる。

③これを有名にしたのが、ドイツの建築家ミース・ファン・デル・ローエと、ドイツ美術史家アビー・ヴァールブルク、オーストリア系ユダヤ人であるイギリスの美術史家エルンスト・ゴンブリッチだとされている。

(2)意味

①本当に素晴らしい技術やこだわりとは、一見して分かりにくい……という意味。

②美術品や特に建築物などは、見た目の印象に目を奪われがちだが、一流の作者の最もこだわったものとは一見しても分かりづらく、そしてとても細やかな仕事がなされてるという、素人目には判断しえない要素を称えたものといえよう。』

2.①「神は細部に宿る」という格言は1.でみたように、本来は美術・建築などの作品をつくるうえで「細かいディティール部分こそ大事にすべきだ」という意味だと思います。

②私は、この言葉は武道やスポーツの技術習得においても大切だと思っています。  極真空手においても、一つ一つの攻防の技術を大雑把に考えるのではなく、攻撃にしろ防御にしろ緻密に技を作り上げるべきです。  

③私が理想とする組手技術は、細かいディティールを大事にする攻防の技術です。  トップ選手になると、どの選手も技術的にはそれほどの差はありません。  その中で勝ち上がるには、細部の技術完成度が重要になってきます。

④そういう感性がないと、全日本クラスの大会でチャンピオンになるのは難しいと思います。

3.①よく松井館長が「道着の着方が汚い選手は組手も汚い」と言われます。  私もまったく同感です。

②道着をキレイに着る感性は、2.③の組手技術の緻密度と無関係ではありません。  細かいところに気が付かないと道着をキレイに着ることができないように、細かいところに気が付かないと技術の緻密さに鈍感になってしまいます。

③大山総裁が書かれた道場訓のなかの「気に発し、感に敏なること」とは、まさにそのことを言っていると思います。

※先日の大会で、帯の左右の長さが不ぞろいな選手がいて気になったので、本ブログを書いてみました。


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復活への底力

前回のブログのタイトルは『運命に従う』で、芸術家・横尾忠則さんの生き方を紹介しました。

今回は、立命館アジア太平洋大学学長、ライフネット生命(株)創業者の出口治明さんが書かれた『復活への底力』(講談社現代新書)からです。  著者紹介には「2021年1月に脳卒中を発症し、約1年の求職ののち、校務に復帰を果たす。」と書いてあります。

1.『流れ着いた場所で一所懸命頑張るだけ』の項から抜粋し、番号を付けて紹介します。

『①僕が楽観的でいられたのは、これまで学んで得た知識の力もあると思います。

②ダーウィンの自然淘汰説は、生物に関する最高の理論だと僕は考えています。  要するに、何が起こるかは誰にもわからないし、賢い者や強い者だけが生き残るわけではない。  ただその場所に適応した者が生き残る。

③そこでは運と適応が大切で、運とは適当なときに適当な場所にいることです。  それは、人間にはどうすることもできない運命といえますが、その場所に居合わせたとき、どんな適応ができるか。  すなわち、どんな意欲を持ってどんな世界にしたいと思って動くかは、自分の意志次第です。

④言い方を変えれば、生物の一生は偶然の持つ要素が非常に大きいといえますが、人間は頭でっかちな動物なので、偶然をなかなか認めたくありません。  人間の意志のほうが偶然の要素を上回ると思ってしまいたいのです。  しかし、そんなはずはありません。  (中略)

⑤たまに偶然を引き寄せるのも能力のうちである、あるいは運をコントロールしないといけないなどという人がいますが、そんなのはウソに決まっています。

⑥将来何が起こるかは誰にもわからないのなら、川の流れに身を任せるのが一番素晴らしい。  人間にできるのは、川に流されてたどり着いたその場所で、自分のベストを尽くすことぐらいです。

⑦だから川の流れに流されて学長にたどり着いた以上は、教育のことを一所懸命勉強して頑張るし、病気で倒れたら、復帰に向けて一所懸命リハビリに取り組むだけのことです。

⑧なにより明確なゴールに向かってただ真っすぐに進んでいく人生より、川に流され、時には岩にぶつかったり濁流にのまれたりしながら、思いもよらない展開のなかで一所懸命生きていくほうが面白いに決まっています。

⑨何度も繰り返しますが、人生は楽しまなければ損です。』


2.『大病しても人生観が変わらない理由』の項からも抜粋し、番号を付けて紹介します。

『①もともと僕は古希の70歳を超えたときから、後は神様次第だと心底思っていました。  その考えはいまも変わりません。

②人間は常に病気や老化、死と向き合って生きています。  不幸と呼ぶべきか、宿命と呼ぶべきか、これらの避けられぬものと、いかに向き合って生きていくか。 このことが人間の数千年の歴史において、常に人間の眼前にありました。

③哲学や宗教は、人間が生きていくための知恵を探し出すことから出発したといえなくもありません。  生きていくための知恵は、不幸といかに向き合っていくかの知恵ともいえます。

④近年、「神は死んだ」と断言したニーチェの哲学に関する本が、世界的に人気を集めているといわれています。  (中略)

⑤時間も歴史も進歩しない。  そのような運命を正面から受け止めてがんばっていく人間。  この強い人間をニーチェは「超人」と呼びました。

⑥ニーチェは人間が強く生きていこうとしたとき、何を一番大切な理念としているのかといえば、それは力への意志であると考えました。  強くありたい、立派でありたい、そのように生きたいと目指すことです。  

⑦ニーチェの「超人の思想」は、あくまでも、人間はこの大地で現実の生そのものに忠実となり、運命を受け入れて、強い意志を持ち生きていくことが重要だと説いているのです。』

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運命に従う

2月25日の『AEAR dot.』の芸術家・横尾忠則さんの連載「シン・老人のナイショ話」のタイトルは、『横尾忠則の受け身的な生き方・・・放っとけば「なるようになる」』でした。  全文を番号を付けて紹介します。

『Q:横尾さんはよく「流れのままに生きたらこうなった」ということをおっしゃいますが、その流れはどうやって見つけ、乗るものなのでしょうか

A:①そうですね、「流れ」というのは見つけるものではなく、他動的に向こうからやってくる状況のようなもんじゃないかと思います。  自分の意図したことではなく、そのような状況に置かれてしまう。  

②その状況は自分で求めたものではなく、そうなっちゃった、そうさせられちゃった、これに対して有無と言って、反抗したり、抵抗したりしてもいいんだけれど、大阪的というかラテン的に、「しゃーないやんけ」と諦念した態度で、受け入れるしかない。

③抵抗するのもメンドークサイ、じゃ、ひとつこの状況の流れに乗るか、もしかしたら思わぬサプライズが用意されているかも知れない、他にこれという目的があるわけでもない。  こう決心するのが、流れに乗ることではないのでしょうか。  他動的な状況を受け入れることですから、最初から目的もなく結果を期待などしていません。

④それがかえっていいんじゃないかな。  そして上手く流れに乗ることができたら、次はその流れを自分の方に引き寄せればいいんじゃないでしょうか。  それとも、全身、この流れにまかせてしまうのも手じゃないでしょうか。  僕の経験から言うと、しばらくはこの他動的な流れに身をまかせておいた方が、便利がいいように思います。

⑤そのうち、流れの賞味期限みたいなものがあって、思いもよらない、次の流れに遭遇するかも知れません。  チャンス到来のサプライズが起こるはずです。  その時はまたその時で、次の流れが待機しているのかも知れません。  こうして流れに乗り始めると、次から次へと、いいタイミングに色々の変化に遭遇するような気がします。

⑥この流れを僕は「運命に従う」と解釈しています。  従った方が自分のキャラ(性格)に合うようなことが次から次に起こってくるのです。  まるで自分のために、世界が動いているんじゃないかと思える瞬間が連続して起こる。  運命に上手く乗った瞬間です。

⑦その時運命の方が自分のために思うように操縦してくれます。  何か特別の計画を立てたり、策略をねったりする必要はないのです。  もしそれが必要なら、向こうが勝手にこちらの思う通りに動いてくれます。

⑧完璧に上手く流れに乗った瞬間です。  こういう状況が設定されてしまえば、変な欲望や野心、野望など持つ必要はありません。  むしろ何も求めないことが重要です。  運命という乗り物が完璧に流れに乗った瞬間です。  ほっとけばいいんです。  あれこれ妙な小細工などしない方がいいです。

⑨いつの間にか運命の僕(しもべ)が、運命の主導権を握ってしまったのです。  もう何も言うこともすることもないです。  大船に乗った気分で、全てをこの流れに乗った船にまかせておけばいいのです。  このような生き方を僕は肯定してきました。  無理にあれこれ計画を立てたり、戦略など意図したりせず、「運命に逆らわない生き方」です。

⑩それでも、もっともっと大きい野望を持ちたい人は、現在の状況に満足しないで、できたら天下を取りたいと思うかも知れません。  取れそうな気になってくるんです。  だけど、ここは非常に危険です。  

⑪底抜けの欲望に振り回されて、せっかくいい感じで来ていたのに、ここで余計な欲望を持ったために、この人は運命路線からはずれて、気がつけば取りかえしのつかない窮地に立たされてしまった、ということなどよくあることだと思います。  頂点に昇りつめたにもかかわらず、さらにその上の頂点を目指したために、歯車が狂って、どん底に失墜なんてよく新聞のニュースになる人のことです。

⑫常に成功の背後にはこのような落とし穴が大きい口を開けて待っているというじゃないですか。  人間は常にこういう問題に試されているような気がします。  だから、ほどほどに生きるのが一番幸せなのかも知れません。

⑬だから僕の考えは多少「運命論的な」ところがあるかも知れないけれど、なるべく受け身的な生き方に憧れます。  だから、意欲も好奇心もほどほどです。  意欲に振り回されると下手すると運命路線からはずれて、変なところに迷い込んでしまいます。

⑭放っとけば「なるようになる」という自然体が、あっちこっちをいじくり回して「なるようにさせた」ために、運命路線から逸脱してしまった結果です。  僕はメンドークサガリ屋だから、自分で何か大きい計画を立てるというのがニガ手です。

⑮だけど相手が立ててくれる分には、メンドークサクないです。  自分では思わぬ計画は立てられないが、相手が立ててくれれば、自分では考えられないことを相手が自分に代わってやってくれます。  これでいいんです。』

内容は、普段意識している私の生き方・考え方と同じです。  

そして、上記⑤にあるチャンスは自分以外の人が持ってきてくれることが多いので、人との縁を大切にするようにしています。

※「流れのままに生きたらこうなった」、「運命に従う」、「運命に逆らわない生き方」、「運命論的な」の「」は私が付けました。

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