2021.06.05 Sat
荒川道場
私が子どものころのヒーローと言えば、大相撲の若乃花(初代)、プロレスの力道山、巨人の王・長島です。
6月1日のYahooニュースで王選手に関する記事を見つけました。 タイトルは『王貞治の一本足打法を生んだ伝説の「荒川道場」』です。 全文に番号を付けて紹介します。
『①黄金期の巨人ではコーチと選手の間に強固な“師弟関係”があり、その関係性のもとで培われた力がチームを下支えした。 その代表例が1965年からのV9時代の礎となった荒川博・一軍打撃コーチの「荒川道場」だった。
②V9時代の巨人で、小柄ながらも闘志溢れるプレーで「豆タンク」の愛称で親しまれた黒江透修氏はこう振り返る。
「僕は3年目(1966年)に遊撃手のレギュラーになれましたが、すべて荒川コーチのおかげです。 前年の時点で、マスコミの前で“来年は黒江を2番に定着させる”と言ってくれた話を耳にして、その年の12月1日から荒川道場に通うようになりました。 当時は(毎日オリオンズ時代から荒川氏の後輩だった)榎本喜八さんが一番弟子で、二番弟子がワンちゃん(王貞治)。 オフに荒川コーチの前で練習をしていると、途中で榎本さんがやってきてバットを振るのですが、これがとてつもなく速かった。 見るだけでも勉強になりました。 ワンちゃんのスイングも正座しながら見ましたが、レギュラーは違うと思いましたね。
それでも1か月、荒川コーチのもとに通い詰めて、少しは成果があったと思ったところで正月になった。 鹿児島の実家に帰ろうとしたら、榎本さんから“九州に帰る? レギュラーを取りたくないのか”と言われて、帰省をやめて正月も練習した。 荒川さんの船に乗った以上は、最後まで乗ってやろうと必死でしたね」
③当時の川上哲治・監督から指示を受けた荒川氏が、王氏と二人三脚で「一本足打法」の習得に励み、“世界の王”を育て上げたことはあまりに有名なエピソードだ。 黒江氏が続ける。
「荒川コーチのところに行けば、必ずうまくなるという思いがあった。 榎本さんやワンちゃんが厳しい練習をするのを見て、自分はもっとやらないといけないと思いましたよ。 2人の実績があるから、荒川コーチのもとで頑張ればうまくなるという確信が持てました」
④V9が始まった1965年に入団し、後に“史上最高の五番打者”と呼ばれた末次利光(当時・民夫)氏は、ルーキーイヤーの終盤にわざわざ荒川氏の自宅の近所に引っ越し、荒川道場に“志願入門”した。 末次氏が言う。
「最初はON(王貞治、長嶋茂雄)の後ろを打ちたいなんて大それたことを考えていたわけではなく、川上さんがONの後の5番を打たせるために他球団からどんどん大物選手を補強してくるので、“まともにやっていてはレギュラーになれない”と思って、荒川さんの家の近くに住むことにしました。 とにかく、なんでも吸収したいという思いでしたね。 近所なので、とにかく朝に晩にとスイング指導を受けました。 王さんや榎本さんというお手本がいたのも大きかった」
⑤現在の球界を見渡しても、そこまで強固に結ばれたコーチと選手の師弟関係は見当たらない。 末次氏はこう言う。
「今の時代に荒川道場がないのは仕方のないことでしょう。 打撃理論について、様々な情報に触れられる時代ですからね。 昔と同じような厳しい指導をしたらパワハラと言われかねないし、なかなか指導が難しくなっていると思います。 ただ、これだけ様々な新しい打撃理論の情報を目にする時代になっても、僕は“荒川道場を卒業できた”と思ったことは一度もありません。 それくらい、荒川さんが追い求めた野球理論は奥深いものでした」
私が指導する朝練も、「荒川道場」が理想形です。
6月1日のYahooニュースで王選手に関する記事を見つけました。 タイトルは『王貞治の一本足打法を生んだ伝説の「荒川道場」』です。 全文に番号を付けて紹介します。
『①黄金期の巨人ではコーチと選手の間に強固な“師弟関係”があり、その関係性のもとで培われた力がチームを下支えした。 その代表例が1965年からのV9時代の礎となった荒川博・一軍打撃コーチの「荒川道場」だった。
②V9時代の巨人で、小柄ながらも闘志溢れるプレーで「豆タンク」の愛称で親しまれた黒江透修氏はこう振り返る。
「僕は3年目(1966年)に遊撃手のレギュラーになれましたが、すべて荒川コーチのおかげです。 前年の時点で、マスコミの前で“来年は黒江を2番に定着させる”と言ってくれた話を耳にして、その年の12月1日から荒川道場に通うようになりました。 当時は(毎日オリオンズ時代から荒川氏の後輩だった)榎本喜八さんが一番弟子で、二番弟子がワンちゃん(王貞治)。 オフに荒川コーチの前で練習をしていると、途中で榎本さんがやってきてバットを振るのですが、これがとてつもなく速かった。 見るだけでも勉強になりました。 ワンちゃんのスイングも正座しながら見ましたが、レギュラーは違うと思いましたね。
それでも1か月、荒川コーチのもとに通い詰めて、少しは成果があったと思ったところで正月になった。 鹿児島の実家に帰ろうとしたら、榎本さんから“九州に帰る? レギュラーを取りたくないのか”と言われて、帰省をやめて正月も練習した。 荒川さんの船に乗った以上は、最後まで乗ってやろうと必死でしたね」
③当時の川上哲治・監督から指示を受けた荒川氏が、王氏と二人三脚で「一本足打法」の習得に励み、“世界の王”を育て上げたことはあまりに有名なエピソードだ。 黒江氏が続ける。
「荒川コーチのところに行けば、必ずうまくなるという思いがあった。 榎本さんやワンちゃんが厳しい練習をするのを見て、自分はもっとやらないといけないと思いましたよ。 2人の実績があるから、荒川コーチのもとで頑張ればうまくなるという確信が持てました」
④V9が始まった1965年に入団し、後に“史上最高の五番打者”と呼ばれた末次利光(当時・民夫)氏は、ルーキーイヤーの終盤にわざわざ荒川氏の自宅の近所に引っ越し、荒川道場に“志願入門”した。 末次氏が言う。
「最初はON(王貞治、長嶋茂雄)の後ろを打ちたいなんて大それたことを考えていたわけではなく、川上さんがONの後の5番を打たせるために他球団からどんどん大物選手を補強してくるので、“まともにやっていてはレギュラーになれない”と思って、荒川さんの家の近くに住むことにしました。 とにかく、なんでも吸収したいという思いでしたね。 近所なので、とにかく朝に晩にとスイング指導を受けました。 王さんや榎本さんというお手本がいたのも大きかった」
⑤現在の球界を見渡しても、そこまで強固に結ばれたコーチと選手の師弟関係は見当たらない。 末次氏はこう言う。
「今の時代に荒川道場がないのは仕方のないことでしょう。 打撃理論について、様々な情報に触れられる時代ですからね。 昔と同じような厳しい指導をしたらパワハラと言われかねないし、なかなか指導が難しくなっていると思います。 ただ、これだけ様々な新しい打撃理論の情報を目にする時代になっても、僕は“荒川道場を卒業できた”と思ったことは一度もありません。 それくらい、荒川さんが追い求めた野球理論は奥深いものでした」
私が指導する朝練も、「荒川道場」が理想形です。