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2021.05.30 Sun
感謝
「感謝」は私の座右の銘のひとつです。
5月26日に配信されてきた、弁護士の鳥飼重和先生のメルマガのタイトルは、『幸運の源は感謝の習慣』でした。 全文に番号を付けて紹介します。
『1.①素敵な夫婦関係の決め手とは何か? 「『ありがとう』のたった一言」 精神科医の故斎藤茂太氏の言葉ですが、確かにそのとおりだな、と思います。 そこに心がこもっていれば、最高です。
②「ありがとう」の威力はとても大きいそうです。 コミュニケーションを良くするには、「よくできたね」と誉めることも大切ですが、「助かるよ、ありがとう」と感謝する方が効果的です。
③「ありがとう」という感謝の威力は魔法の杖。 コミュニケーションのキーワードだといえます。
2.①寺院の掲示板には、素晴らしい言葉がたくさんあります。 「幸せだから感謝するのではない。 感謝するから幸せなのだ」 ある寺院の掲示板の言葉ですが、確かにそのとおりです。
②(パナソニックの創業者)松下幸之助翁の次の言葉は、ご本人の実感でしょう。 「感謝の心が高まれば高まるほど、それに正比例して幸福感が高まっていく」
③感謝は他人とのコミュニケーションに奇跡をもたらし、同時に、自分自身に対しても奇跡をもたらすものです。 仏前で感謝する毎日の習慣は、奇跡をもたらす気がします。
④「どうして自分は、こんなにも幸運に恵まれるのだろう」 そう思える人の多くには、感謝の習慣があるような気がします。』
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2021.05.23 Sun
藤平先生VSカレンバッチ先生
1.今回も藤平昭雄先生です。
50年前、私が極真会館総本部に入門したころ、大山総裁が次のようなことをよく言われていました。
「多くの弟子はいらない。 藤平みたいに稽古するやつが一人いたらいい。」 「オランダからカレンバッチが来たとき、他の人間は怖がって道場に来なかったけど、藤平だけが倒した。 カレンバッチは藤平のことを『リトルタイガーだ』と言っていたよ。」
155cm・53㎏の藤平先生が、187cm・110㎏のカレンバッチ先生をどのようにして倒したのか、本当に興味があります。 身長差32cm、体重差57㎏ですから。 というか、体重で見ると約半分ですね。
2.その模様を、前回紹介した『勇気ある挑戦 小さな巨人・・・大沢昇伝』(松永倫直著 スポーツライフ社)から抜粋し、番号を付けて紹介します。
『①当時のカレンバッチは、半身の構えから強烈な顔面へのワン・ツーを出すというのが得意であった。 そのウェートの乗ったパンチをはずされると、今度はそのまま相手の後襟首をつかみ、自分の方へと引き込み足払いを掛けるといういう法であった。 (中略)
②カレンバッチが思い切って放つパンチの下をくぐり、その懐へと飛び込んだ藤平は、巴投げで巨体を宙に浮かし投げ飛ばしたのである。 大きく一回転したカレンバッチの上に乗った藤平と、焦って巻き返すカレンバッチとがもつれ合ったところで「ヤメー!」の声がかかり、分けられた。 (中略)
③素早く動く藤平をなんとか捕まえようとするカレンバッチと、もろに当たったら一発でひっくり返るような強烈なパンチを必死にかいくぐる藤平との紙一重の攻防は、何度となく繰り返され、約30分もの間、戦いは続いたのである。』
3.第1回全日本チャンピオンの山崎照朝先輩が、東京中日スポーツのコラム『撃戦記』を書かれています。 2020年4月21日付けコラムのタイトルは「小よく大を制した伝説の空手家・藤平昭雄 私が見た壮絶組手」でした。 抜粋し、番号を付けて紹介します。
『①1階の畳道場で行われ、“見届け人”は私と小倉正一郎先輩(現・芦原会館相談役)が務めた。 小柄な藤平が巨漢にどう立ち向かうか。 道場のドアは閉められ“鉄のカーテン”が敷かれた。
②カレンバッチのパワーに、藤平先輩のスピード。 組手は見応えがあった。 踏み込みの素早さと左右のフットワークで果敢に出てプレッシャーを掛ける藤平に、体格で勝るカレンバッチの蹴り。 体格差を見れば誰が見たって一撃必殺の威力が勝る。
③ところが藤平は接近すれば蹴散らそうとするカレンバッチにガードを堅め体をぶつけるように飛び込んでブロック。 その蹴り足をつかんで倒し、のし掛かって顔面へのパンチを繰り出す。 それを延々と20分。
④距離をつぶされたカレンバッチは最後まで強打を封じられた。 というより小柄な藤平に意識を蹴りに集中させられ、パンチを出す機会をそがれ、逆に藤平は徹底した距離つぶしでまともな組手をさせなかった。
⑤藤平にとって組手の相手はいつも自分より長身で、慣れがあった。 思い切りのいい飛び込みも自信に満ちていたが、それも強靱(きょうじん)な肉体があってこそ。 現役時代はベンチプレス140キロを上げ、ボクシングの練習で身に着けたロードワークも毎日欠かさない稽古の虫だった。』
4.過去のブログで書きましたが、2014年7月に藤平先生に、翌2015年7月にはカレンバッチ先生にお目に掛かる機会がありました。 極真の長い歴史の中で伝説として残る、大先輩お二人のお話が伺え、こんなに幸せなことはありませんでした。
※追伸 山崎先輩の4月20日付け『撃戦記』によると、カレンバッチ先生が4月13日にご逝去されたそうです。 79歳でした。 ご冥福をお祈り申し上げます。
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2021.05.16 Sun
攻撃に変化を
昨年11月15日のブログで、極真の大先輩である藤平昭雄先生について書きました。 藤平先生は極真を離れてから、キックボクシングの「大沢昇」として、初代全日本バンタム級チャンピオンになっています。
今回は『勇気ある挑戦 小さな巨人・・・大沢昇伝』(松永倫直著 スポーツライフ社)から抜粋し、番号を付けて紹介します。 著者の松永先輩も極真の大先輩です。
『①「どんなに早く行っても、道場一番乗りを果たそうと思っても、必ず藤平先輩が一人で黙々と稽古に励んでいた。 三十人から学べる道場の中で、所狭しと暴れ回っていた」と、当時を振り返ってともに学んだ者が語ってくれた。
②「一発一発、精魂を込めて、突き、そして蹴っていた。 その稽古方法は日常の稽古の繰り返しよりも、シャドーを中心にして汗を流していた。
③一番目を引いたのが、独特なステップの運び方だった。 前進するとき、ステップを小さく早いリズムでダダッと送るのである。 たぶん相手の中にもぐり込むためのステップだと思う。 時には二歩早送りをし、時には小さくサイドステップをし、相手の中に入る方法を稽古していた。 そのステップの速いことには目を見張った」 (中略)
④大きな者には大きな者の戦い方があるのと同じように、小さな者には小さな者の戦い方がある。 そして、それと同時に稽古方法もおのずから違ってくるのである。
⑤藤平は人一倍稽古に励んだが、皆と同じことをやっていたのではない。 組手において叩かれたこと、蹴られたことを念頭に入れ、常にその攻撃への対処のしかたを考えながら稽古に励んでいたのである。 (中略)
⑥小さな者は大きな者との力の差、リーチの差を攻撃、防御に変化を加えることによって埋めなければならない。 変化させるということも、一言で言ってしまえば簡単なことだが、稽古で会得するにはそれなりの努力が必要となってくる。 いかに変化させるか、いかに稽古するかが問題となってくるのである。
⑦藤平は実戦の組手(当時は顔面へも正拳で攻撃していた)の中で叩かれながら、その攻撃をかいくぐって内に入ることを考えた。 相手の内に入れなければリーチの短い手足を自由にヒットすることなど不可能である。 (中略)
⑧そこで藤平は、一人稽古のとき、常に相手を想定し、シャドーに力を入れていたのである。 これまで数多く自分が叩かれた攻撃を想定し、上半身を練り、細かいステップを使って相手の内に入る訓練を何度も何度も繰り返したのである。 正面、サイド、そしてサイドから相手の正面に入る。 (中略)
⑨シャドーで稽古し、合同稽古になると組手で試す。 (中略) 人間その気になれば、何でもできないものはない。 それを藤平は、身をもって体験してきているのである。 かいくぐって前に出るか、空手をやめるのかの二つに一つである。 元来中途半端なことの嫌いな藤平の性格、そして負けず嫌いな性格は、叩かれても前に出ることを選んでいったにすぎない。
⑩何度かまともにパンチをもらい、失神しながらも、翌日にはその入り方を反省し、自分のふがいなさにじだんだを踏み、その精神のやり場を稽古へと向けた。 毎日毎日がその繰り返しの中で、少しずつだが、そのパンチをまともに受けず、はずしながら内に入ることができるようになった。 (中略)
⑪今でも、当時の後輩たちは、そのハードで実戦的な稽古を次のように回顧する。 「藤平先輩との組手は本当に怖かった。 攻撃に行くと、目の前の先輩がフッといなくなる。 アッと思ったときには私の両腕の内に入ってきて顔面をものの見事に打たれてしまう。 そのスピード感に眩惑され、まったく目で追えなかった。 私の目の前に、いきなり先輩の顔が現れ、攻撃しようにも何もできなかった。 本当に一瞬の出来事で終わってしまう。
⑫後に、先輩と他の人との組手のとき、注意して動きを見ていると、相手の攻撃に合わせて同時に中に入るのだということがわかった。 相手の攻撃を縫って内に入る様は、芸術とも呼べるような、それは見事なものだった。 スピードといい、小さな変化を伴った上半身、足のステップといい、それは見ている者に感動を与えるような動きであった。 自分が内へ飛び込めるようなチャンスが来るまで待ち、チャンスと見れば確実に入り込み、確実に相手を捕えていた」』
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2021.05.09 Sun
すべては東伏見にあり
『早稲田ラグビー 最強のプロセス』(相良南海夫著 講談社)を読みました。 以下は著者紹介からの抜粋です。
『2018年、早大の監督に就任。 翌年度、第56回大学選手権で優勝。 11年間、学生日本一から遠ざかっていたチームをわずか2年で復活させる。』
本書から抜粋し、番号を付けて紹介します。
『1.すべては上井草にあり
①現役の時、宿澤広朗さんにOB懇親会の席で「すべては(早大ラグビー部のグラウンドがあった)東伏見にあり」と教えてもらった。 私はいまでもその言葉を大切にしている。 (中略) 当時、日本代表の監督だった宿澤さんは壇上であいさつされた。
②「すべては東伏見にあり」の真意はこうだ。 「日々、突き詰めて練習をしているのか。 詰めは甘くないか。 東伏見で練習した以上のものは試合で出せない。 すべてはここで創り出される」
③その数時間前の早明戦は12-16で敗れた。 負けた悔しさもあって、私は素直に宿澤さんの言葉を受け入れられなかった。 しかし、、続く大学選手権の準決勝で大東文化に12-22と敗れ、自分の大学生としてのラグビーが終わってから、その言葉を認めざるを得なくなった。 「突き詰めてやったのか」と問われると、「はい」と素直に言えない。 いまも後悔が残っている。 (中略)
④宿澤さんが言うように、東伏見で練習した以上のものは出せない。 すべてはここで創り出される。 いまは「すべては(グラウンドがある)上井草にあり」。 承継と創造が溶け合った日々を学生たちと過ごせるならば、それは幸せなことに違いない。
2.「緊張」
①(2020年1月1日)早明決戦。 初の新国立。 舞台は整った。 (中略)
②(上井草)グラウンドの入り口には「緊張」、ウェイトルームなどが入るプレハブ前には「明治」と墨痕鮮やかな2枚の大書が掲げられた。 「選手権優勝」ではなく、「明治」と書かれたのが、私たちのライバルに対する気持ちを物語っていた。
③私の現役時代も「緊張」は早慶戦や早明戦前になると寮の玄関などに貼り出された。 大一番に向け、みなピリピリしだす。 特定の試合にかける、張り詰めた糸に部内がくるまれる。
④「緊張」は早稲田にとって特別な言葉ではない。 「試合を想定して集中しろ」という意味だと私は理解している。 練習は試合のための準備であるから、そのために日ごろから集中しておく。 まさに、宿澤さんたちが私たちの現役時代に教えてくれた「すべては東伏見にあり」である。
⑤ただ、やはり視界に入る効果は大きい。 普段にも増して身が引き締まる。
⑥いまの学生は尋ねてくる。 「『緊張』を貼りますか、どうしますか」 私は答える。 「貼りたければ貼る。 形式的ならやめる」
⑦そういう気持ちになっていないのに貼っても無意味だ。 伝統は守らないといけないが、わからないままやっても意味がない。 今回は学生たちが自分たちで用意をした。』
「すべては東伏見にあり」、いい言葉です。 チーム城西だと、「すべては道場にあり」ですね。
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2021.05.02 Sun
貸し方へまわった生き方をする
1.前回は、将棋の米長邦雄先生の評伝を取り上げました。 今回は米長先生のお母さんである米長花子さんが書かれた『おふくろ塾天才教師』(プレイブックス)です。 「一つ譲って十を得る米長流のやり方」の項から抜粋し、番号を付けて紹介します。
『①邦雄はよく「貸し方へまわった生き方をする」ということを言っていますが、おふくろとしてもそれに賛成です。 私はいつも人との付き合いで、相手にばかり負担をかけない、ということを私なりに考えてきていたので、邦雄が自分の本の中で、「貸し方へまわった生き方をしたい」と言っているのを見つけた時は、似たような考え方をするものだなと感心して読んだものです。
②「貸し借り」といっても、お金やものの貸し借りではありません。 人生の生き方の姿勢といったらいいでしょうか。 人に気持ちの上で負担をかける側になるか、かけない側になるかとか、相手の立場を先に考えるか、自分の立場を先にするか、といったようにも考えられるでしょう。
③もちろん、相手の立場を先に考え、自分を後にするのが「貸し方」の生き方というわけです。 一見、損をしたように見えますが、決してそうではありません。
④いつもいつも、自分の立場ばかり押し通して得したと思っていても、それによって相手にイヤな思いをさせたり、損をさせていることになるのです。 これは人生の大きな「借り」です。 いつか、イザという時に、人の応援が得られない立場になってしまうにちがいないのです。 (中略)
⑤邦雄はこんなふうに言っています。 「貸し方にまわるのは、なにもお金の問題に限ったことではないのです。 たとえば、本当は怒鳴りたいという時もあります。 そのまま怒りを爆発させるか、我慢して人に不快な思いをさせないようにニコニコしているか。 こういう時に、自分の感情を殺してニコニコ笑っていられれば、これも貸し方にまわった生き方でしょうし、これが人に対する思いやりというものでしょう」』
2.「はじめに」の中で次のように書かれています。
『米長の家は、戦争を境に没落した旧地主で、その上、頼みの夫は当時病気で寝付いていましたから、家族7人(夫婦と4男1女)が生きていくには小学生の子供の手も借りなければならなかったんです。 畑仕事、掃除、炊事、子守り、店番・・・・・・どの子にも目いっぱい仕事がありました。 そのどれ一つをとっても、それこそ、〝ハンパ〟な仕事じゃないんです。』
米長先生は4男ですが、お兄さんたちは3人とも東大へ進学されています。
米長先生は「兄貴たちは頭が悪かったから東大へ行った。 僕は頭がいいから棋士になった」と言われていたそうです。
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