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李登輝さん「武士道」

前回に続き、李登輝さんを取り上げます。  李さんが書かれた『「武士道」解題』(小学館文庫)から抜粋し、番号を付けて紹介します。

『武士道』の解説本です。  『武士道』は1900年に新渡戸稲造が英語で書きました。  新渡戸は1901~2年に台湾総督府において、台湾における糖業発展の基礎を築くことに貢献しています。

『①かって、私は台北郊外の聖なる山・観音山に妻と孫の3人だけで登ったことがあります。  深い霧に包まれて一寸先も見えないような中で峻険な山道を、一歩また一歩と足元を踏みしめながら登っていって、ふと気が付くと、私はいつの間にか頂上に立っていました。

②突如、一陣の風が吹いてきて、一望千里の視野が開けてきました。  足元を見ると、1メートル四方の切り立った岩の上にいる自分に気がついたのです。  観音山の頂上にはたったそれだけの広さしかなく、一歩でも足を滑らせたら最後、奈落の底に転げ落ちてしまうのです。

③そのとき私は、1つの天啓のような不思議な気持ちに包まれました。  「1人なのだ。  たった1人なのだ。  誰も助けてはくれない。  生きるも死ぬも、自分1人で立っていかなければならないのだ」

④それ以来、私も、新渡戸稲造先生が喝破された人間社会の「横の関係」を全く気にしないようになりました。  すなわち、世間の誤解や非難など気にならないようになったのです。  総統時代も、あの観音山の頂上に立ったときの気持ちでやってきました。

⑤(1999年にドイツの放送局のインタビューで)「特殊な国と国との関係」(台湾と中国の「二国論」)という言葉が、突如私の口を衝いて迸り出たときもそうでした。  一国の指導者たるものがそんな言葉を使えば、いったいどんなことが起きるか、私にもそれははっきりとわかっていました。

⑥しかし、私を立たせているのは私だけしかいないのだ。  また、台湾を立たせているのも台湾だけなのだ。  究極的には、誰が助けてくれるわけでもないという思いのほうがはるかに強かったのです。

⑦新渡戸稲造先生の心の中に最後まで去来していたのも、そのような思いであったに違いない、と私は固く信じて疑いません。  なぜなら、それが「武士道」の発露だからです。

⑧だからこそ、改めて、日本の方々にも言いたいのです。  「もっと自信をもって、自らの意志で、決然と立ってもよいのではないですか?  なぜなら、あなたがたこそ、『日本の魂』の真の継承者なのだから」と。  (中略)

⑨「いま、そこにある危機」ではありませんが、目の前にあることを、1つずつ誠実に、自己の良心と信念だけに基づいてやり抜いていく。  結局、それ以外にはないのです。』

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李登輝さん「急がば回れ」

台湾の李登輝さんが7月30日にお亡くなりになりました。  本省人(台湾生まれの人)初の中華民国総統です。  戦中の京都帝国大学に入学され、親日家としても知られていました。

1.吉崎達彦さん(双日総合研究所 チーフエコノミスト)のブログから抜粋し、番号を付けて紹介します。
    
『①7月30日に李登輝さんがお亡くなりになった。  国葬の様子が放送されていたが、蔡英文さんの後に、馬英九さんも献花していた。  この二人は、いずれも李登輝さんに見いだされて政界入りした。  そして二大政党の総統になった。  李登輝さんこそが、台湾における「ザ・ファウンディング・ファーザー」である。 (中略)  

②立派な仕事を残した偉大な人が、晩節を汚さず、最後まで周囲に惜しまれつつ天寿を全うする、ということはめずらしいものだ。  習近平やプーチンは、さぞかしうらやましく感じることだろう。  当人たちはそれがわかっているからこそ、見苦しくジタバタするわけであるが。  (中略)

③2002年と2004年に日米台三極対話で台湾に行った。  そのときに李登輝さんの講演を聴く機会もあったし、事務所を訪問することもできた。  3か国の出席者がいるので、会話はいつも英語であった。

④あるとき、李登輝さんが英語で思い出話をしている最中に、突然、怒り出した。  そして、「あの人たちはケシカランですよ!」となぜかそこだけ日本語になった。  ああ、この人の母国語は日本語なんだ、と思い知らされた瞬間であった。  

⑤ちなみに李登輝さんの「思い出し怒り」は、自分が総統だった時代に国防部のサボタージュに手を焼いたことであった。  そこは昔の国民党(中国共産党との内戦に敗れ、1949年に中国大陸から台湾に移転した)で、「心は大陸にあり」という部下が多かったのであろう。

⑥いろんなことを聴いたけれども、いちばん「らしいなあ」と感じたのは李登輝さんのこのセリフである。

「大きな目標があるときに、私はまっすぐそこへ向かって進むことはない。  かならず遠回りをする」

⑦こういう大人の知恵は、21世紀には流行らないのかもしれない。 まあ、政治の世界から大人が少なくなっているので、仕方がないことなのだろう。  「その他大勢」の一人であったが、偉大な人の謦咳に接することができたことは、われながらまことにラッキーなことであった。  合掌。』


2.上の⑥の李登輝さんのセリフは年を取ってくると、よく分かります。  若いときは、どうしても性急に物事を進めようとしがちです。  

『李登輝秘録』(河崎眞澄著 産経新聞出版)から、関連する記述を抜粋し、番号を付けて紹介します。

『(1)①1996年8月14日の重要会議で「中国投資に過度の注意が向いて、間接的に台湾の国際競争力の衰退を招いている」と指摘した。

②李はさらに、翌9月14日に企業経営者に向け、その指摘を「戒急用忍(急がず忍耐強く)」と説いて、ブームに乗った対中進出の急拡大を戒めた。  その後、対中投資審査は厳格化され、1件あたりの投資額は上限が5千万ドルに制限された。

③ただ、李が訴えた「戒急用忍」は、台湾からの対中投資の禁止を意味するものではなかった。  このあとに「行穏致遠(慎重に進め)」と続く。  (中略)

④「台湾の経営者には急がば回れ、中国より台湾で投資しなさいと言いたかった」と李は当時を振り返った。


(2)①2000年の総統選で李は国民党候補に連戦を出馬させる。  結果的に連は落選したが、1992年7月の取材で、本省人の連を後継者に考えている、と打ち明けていた。

②(取材した産経新聞・台北支局長)吉田は「頑固一徹な設計主義者」と李を評した。

③後継者のみならず、90年代の早い段階で総統直接選の導入など、李は何年も先の青写真を描いていた。

④誰よりも忍耐強く、時期を待って実践躬行(理論や信条などを、自身の力で実際に踏み行うこと)するのが李のスタイルだった。』



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経営から野球を学ぶ

アメリカ大リーグ、アナハイム・エンジェルスの大谷翔平選手を取り上げた『道ひらく、海わたる』(佐々木亨著 扶桑社文庫)を読みました。  大谷選手の出身校・花巻東高校の佐々木洋監督に関する記述から抜粋し、番号を付けて紹介します。

『①国士舘大学を卒業後に神奈川県の強豪校でのコーチ経験を経て地元の岩手県に帰った佐々木監督が、私立高の花巻東高校に教員として赴任したのが1999年4月のことだ。  (中略)  晴れて野球部監督に就任したのが2001年のことである。  (中略)

②「監督になりたての頃は選手の個性を潰してしまっていたと思います。  それぞれの可能性に気付かずに」  佐々木監督は悔いるのだ。  

③そして、こう言葉をつなげる。

「同じような投げ方のピッチャーや、同じような打ち方のバッターを育てようとしていました。  要するに『型にはめた野球』をやっていた。  練習もそうです。  たとえば冬のオフシーズン。  みんながみんなシステマティックな練習メニューを流れ作業のようにこなしていた時期がありました。  それぞれの良さや個性を潰してしまっていることに気付かずに。  その失敗と反省から、「個」を生かさなければいけないんだと思いました。」

④それぞれの特徴を知り、その力を生かす指導の大切さ。  そのためにも、指導における「カスタマイズ」が必要だと感じるようになった。  (中略)

⑤きっかけは、監督就任4年目の2004年、秋季大会での1つの負けだった。  就任2年目、3年目と、県大会ベスト4までチームを導き「甲子園もすぐそこだ」と感じていた矢先のことだ。  花巻地区予選で、県立の進学校である花巻北高校に敗れた。  (中略) 地区予選で敗退したときは「クビを覚悟した」のだという。  (中略)

⑥「監督を続けさせてもらえるチャンスをいただきました。  そのときに思いましたね。  指導者として、何かを見直せ、何かが間違っているよと、神様が教えてくれているんだ、と」

⑦それまでの指導を振り返り、変化を求めた佐々木監督は、大学時代に出会い、考え方や生き方を教えてくれた恩師をグラウンドに招いて「変わる」きっかけを見つけようとした。

⑧「そのとき、恩師に言われたんです。  野球のことばかりを考えているからダメなんだ、と」

⑨当時はまだ、マネジメントにおけるドラッガーなどという言葉なども現代のように広まっていない頃だ。  そんな時代に「経営からいろいろ学んだ方がいい」と助言された。

⑩それ以前から、佐々木監督は独自の考えから野球に関わる講演会やメーカーのトレーニング講義に足繁く通っていた。  バッティングの技術本も読み漁っていた。  そのすべてを、恩師からの助言をきっかけに一切やめた。

⑪分厚い経営書を読み、一般の会社を訪ねるようになった。  そこから得た情報や思考は、野球に通ずるものばかりだった。  経営から野球を学ぶ。  その考えは今、指導者としての佐々木監督の根底にある。  (中略)

⑫もちろん、チーム全体で守備や打撃に特化した練習をすることはある。  守備力が落ちていると思えば、徹底的にその課題を1つ1つ潰していき、チームとしての守備の精度を上げることがある。  (中略)

⑬しかし、佐々木監督は選手を育て、チーム力を上げるためのアプローチとして、あくまでもそれぞれの「個」に光を照らし続けるのだ。  1人1人の特徴を生かし、力を底上げすることこそが、本当の意味でのチーム力になると信じている。』

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デンプシー・ロール

1.『地上最強の男 世界ヘビー級チャンピオン列伝』(百田尚樹著 新潮社)を読みました。  1919~27年の世界チャンピオン、ジャック・デンプシーを取り上げた第八章から抜粋し、番号を付けて紹介します。

『①彼は、身長は185センチあったが、体重は187ポンド(約84.8㎏)しかなかった。  この時代、急速に大型化するヘビー級ボクサーの中では明らかに体格的に見劣りした。

②そこでデンプシーが考えたのは、体全体を使ってパンチを打つということだった。  それまでのヘビー級のボクサーは上半身を立てて(アップライト・スタイルという)、どちらかといえば重心をやや後ろに掛けてファイトするというスタイルだったが、彼は反対に体を前傾させる姿勢を取った。

③これはクラウチング・スタイルと呼ばれるもので、デンプシーが初めてこれを取り入れたボクサーだと言われている。  そして彼はその姿勢のまま、上半身を「∞」の形を描くようにロールさせ、その反動を利用してパンチを振るった。

④これは「デンプシー・ロール」と呼ばれ、小柄なファイターの多くがこれを取り入れた。  後のヘビー級チャンピオン、ジョー・フレージャーやマイク・タイソンなどの動きも、このバリエーションと言える。  フレージャーもタイソンもヘビー級ボクサーの中では小柄だった。』

前々回7月26日のブログで、講道館・上村春樹館長の『「小さいことが私の武器になる」と気づかされたとき、自分の世界が開けたような気がした』という話を紹介しました。

「小さいから大きい人に勝てない」というのは、創意工夫しない言い訳にすぎません。  極真の長い歴史の中でも、大先輩である藤平昭雄先生を始めとして、「小さな巨人」と呼ばれた名選手が何人かいます。


2.前回のブログのタイトルは「信義」でした。

『訣別の街』(原題:City Hall)という1996年公開のアメリカ映画があります。   その中で、アル・パチーノが演じるニューヨーク市長ジョン・パパスが、次のような話をします。

『大切なのは信義だ。  男と男を結びつける、言うに言われぬ物だ。  1000回も電話をかけ合い、苦楽をともにしてきた。  握手をした時の感触だ。  それは一生つきまとう。』

私の大好きなセリフです。

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信義

1.『国家経営の本質』(野中郁次郎他編著 日本経済新聞出版社)を読みました。  イギリスのマーガレット・サッチャー元・首相(在任期間1979~90年)に関する記述から抜粋し、番号を付けて紹介します。

『サッチャーは、東欧共産体制の崩壊以後のミハイル・ゴルバチョフ(元・ソ連共産党書記長)との関係を改めて述懐している。

「①私の首相としての最後の年(1990年)には、改革を進めるゴルバチョフ氏を支持するのが賢明なことかという疑問がどんどん高まっていった。  しかし、私は支持を続けたし、いまもそれを後悔していない。  

②第一に、私は、好きになり、友人になった人々の運が変わったからといって、彼らを見捨てることが本能的にできない人間である。

③これは当座の不利益を招くかも知れないが、私の経験では、いっしょに仕事をしなくてはならない相手から、よりいっそうの尊敬が得られるのである。  尊敬を払われることは大きな財産である。

④しかし、第二に、そしてもっと重要なことは、私には当時、ゴルバチョフ氏ほど改革を進める能力をもつ人物は見当たらないように思えたことだ。」〔『サッチャー回想録(下)』〕

⑤サッチャーはどこまでも信義を重んじる政治家であった。』


2.一昨日、川島智太郎と会ったとき、ある政治家の人物評になりました。  以下はその時の会話です。  

私・・・「○○さんは2世3世でもないたたき上げで、先日の選挙でも直前の批判本をものともせずに大勝したのは、ある意味大したものだよね。」

川島・・・「でも、○○さんは出世する過程で、多くの人との縁を切りながら、生きてきました。  うまく世渡りしてきましたが、結果として、周りの人材がいつも離れていきます。」


3.以前お世話になったある会長が、次のようなことをよく言われていました。  「人物の評価は、その人の周りの人間関係を見るとよく分る。  会うたびに取り巻きが変わるような人物は、あまり信用できない。」


4.私もサッチャーさんの信義に対する考え方を支持しますし、そんな人間関係を作っていきたいと思って生きてきました。  

何十年もお付き合いいただいている皆さんには、いつも感謝しています。

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