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ダム経営

1.「ダム経営」という言葉があります。  パナソニック創業者の松下幸之助さんが提唱した経営哲学です。

『松下幸之助用語』というサイトから抜粋し、番号を付けて紹介します。

『①事業経営は、いついかなるときでも健全に発展していかなければならないが、現実にはさまざまな経済要因に左右されてなかなか難しい。

②しかし、松下幸之助は「それはやり方次第で可能なこと」という。  その一つの方法が「ダム経営」である。

③ダムは河川の水をせき止め、蓄えることによって、季節や天候などに影響されることなく、つねに一定量の水の供給を可能にする。  そのダムのごとく経営にも設備、資金、人員、在庫、技術、企画や製品開発など、あらゆる分野に的確な見通しに基づいた適正な余裕をもてばよいというのである。

④この余裕は一見ムダのようにみえる。  しかし、このムダは、経営の安定的な発展を保証する保険料なのだ。』


2.京セラ創業者の稲盛和夫さんが若い頃、講演会で松下さんの「ダム経営」の話を聴き大変感銘を受けたという、有名なエピソードがあります。  松下さんの側近だった江口克彦さんが、2017年9月28日の『東洋経済オンライン』に書かれていたので、抜粋し、番号を付けて紹介します。

『①かつてこのようなエピソードを稲盛氏自身から直接聞いたことがあります。  松下幸之助さんが、関西財界セミナーで「ダム経営」の必要性の内容の講演をしました。  もういまから50年近く以前の話です。  (中略)

②それを聞いて参加していた何百人という中小の経営者たちは、小声で不満をささやき合っていた。  それが後方の席にいた稲盛氏にはよくわかったと言います。

③講演が終わって質疑応答の時間になったとき一人の参加者が、「ダム式経営ができれば確かに理想です。  しかし、現実にはできない。  どうしたらそれができるのか、その方法を教えていただきたい」と質問しました。

④これに対して松下さんは苦笑を浮かべ一瞬の間をおいてから、ポツリと「ダムをつくろうと強く思わんといかんですなあ。  願い念じることが大事ですわ」。  会場全体に失笑が広がりますが、その松下さんの言葉に稲盛氏は、体に電流が走るような衝撃を受けて、なかば茫然として我を失ったそうです。

⑤稲盛氏がなぜに茫然としたのか、我を失ったのか。  それは経営というものへの思いを反省したからです。  言われてみれば、いまの自分は経営を上手に進めたいとは思っているけれど、強く願い念ずる、それほどの思いはなかった。  強烈な祈りを込めるほどの熱意はなかった。  

⑥そうか、そうなのか。  祈り念ずるほどの強烈な思い、強い熱意が出発点なのか。  よし、今日からその思いで経営に取り組んでいこう。  まあ、今日の京セラがあるのは松下さんのおかげです、といかにも稲盛氏らしく謙虚な話をしてくれました。

⑦なにごとでもそうですが、念じ祈るほどの思いや魂を込めるほどの思いがなければ、そして、そのような出発点でなければ、事は成就しない、経営は成功しないということは、経営者たる者、しっかりと心に留めておくことが大事ではないかと思います。』

私が経営者になってもうすぐ42年が経ちます。  今回の新型コロナ騒ぎのときほど、「ダム経営」の重要性を感じたことはありません。  


3.明日、6月1日(月)から待ちに待った道場再開です。  本当に嬉しいです(^^)/

普通に道場稽古が行われていることの有難みを、今回感じることができました。

オンライン稽古に参加していただいた多くの会員の皆さん、稽古を担当した指導員に心から感謝します。    

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学習棄却

『失敗の本質』(野中郁次郎他著 中公文庫)を読みました。  『三章 失敗の教訓』の中の「組織学習」の項から抜粋し、番号を付けて紹介します。

『①組織は学習しながら進化していく。  つまり、組織はその成果を通じて既存の知識の強化、修正あるいは新知識の獲得を行っていく。  組織学習とは、組織の行為とその結果との間の因果関係についての知識を、強化あるいは変化させる組織内部のプロセスである、と定義される。

②しかしながら、組織は、個人の頭脳に匹敵する頭脳を持たないし、またそれ自体で学習行動を起こすこともできない。  学習するのは、あくまで一人一人の組織の成員である。  したがって組織学習は、組織の成員一人一人によって行われる学習が互いに共有され、評価され、統合されるプロセスを経て初めて起こるのである。  (中略)

③さて、日本軍は既存の知識を強化させるという面ではまことによく学習したといえる。  

④(陸軍)・・・実際、帝国陸軍の白兵銃剣主義の成果はけっして悪いものではなかった。  満州事変、日中戦争などで対決した近代的陸軍とはいえない中国軍に対しては、個々の戦闘では十分に機能したのである。  (中略)  満州・中国から香港、シンガポールへと続いた白兵銃剣主義の成功は、火力に頼らずにやれたという自信とあいまって、ますます強化されたのは、当然のことであった。  (中略)

⑤(海軍)・・・成果という点からいえば、帝国海軍は自らの手による航空攻撃(真珠湾攻撃)で米戦艦を倒し、大艦巨砲主義から転換できるはずであった。  (中略)  真珠湾攻撃後の連合艦隊では、航空優先の策は具体化されなかったし、その後も戦艦部隊中心の志向がいぜんとして根強かった。

⑥いずれにせよ、帝国陸海軍は戦略、資源、組織特性、成果の一貫性を通じて、それぞれの戦略原型を強化したという点では、徹底した組織学習を行ったといえるだろう。

⑦しかしながら、組織学習には、組織の行為と成果との間にギャップがあった場合には、既存の知識を疑い、新たな知識を獲得する側面があることを忘れてはならない。  その場合の基本は、組織として既存の知識を捨てる学習棄却、つまり自己否定的学習ができるかどうかということなのである。

⑧(陸軍)・・・そういう点では、帝国陸海軍は、ガダルカナル戦以降火力重視の必要性を認めながらも銃剣突撃主義による白兵戦術から脱却できなかった。

⑨(海軍)・・・また、帝国海軍もミッドウェーの敗戦以降空母の増強を図ったが、大艦巨砲主義を具現化した戦艦「大和」・「武蔵」の46センチ砲の威力が必ず発揮されるときが来ると、最後まで信じていたのである。』

極真空手の全日本大会は、今年で52回目を迎えます。  その間、技術は常に進歩し続けてきました。  特に、4年前の第48回大会以降、ルール改定が行われたこともあって、試合技術が猛スピードで進化しています。

その中で重要なのは、⑦にある「学習棄却」だと思います。  今までの技術のうち欠点が見え始めたものは、改良・修正・破棄・交換しなければなりません。  そこで最も大切なことは、チーム城西のモットーである「創意工夫」です。

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ツバメのひみつ

1.自宅マンションの1階中庭に、今年もツバメが帰ってきました。  『ツバメのひみつ』(緑書房 長谷川克著)から抜粋し、番号を付けて紹介します。

『①ツバメが長生きだと思われている方も多いのですが、実際にはとても短命な鳥で、親(成鳥)になってからの平均寿命は1年半ほどしかありません。  年平均生存率は50%未満なので、ある年にペアで繁殖しても翌年には片方が死んでいる可能性が高く、毎年メンバーが入れ替わり立ち替わり巣場所を使っていることになります。

②ツバメの仲間は、その飛翔能力を生かして空中で昆虫を捕食します。  1日2000匹の虫を食べています。

③ツバメのさえずりは、ヒトが聞いても活力ある元気な声に聞こえるもので、よく「土食って、虫食って、渋ーい」と聞きなし(人間の言葉に当てはめること)されます。

④求愛中、オスは複雑なさえずりとは対照的に、シンプルな声の繰り返し・・・ヒトには「じーじーじー」と聞こえる声を発します。

⑤卵を産んだら、今度はそれを温める(抱卵する)必要があります。  抱卵は卵の上に座っているだけなので、楽ちんに見えるかも知れませんが、実際には卵に当たる部分の皮膚が裸出し、卵を肌でじかに温めているために、とても体力を使う大変な仕事なのです。  卵に触れる部分(「抱卵斑」と言います)の皮膚は血管が凝縮し、熱を効率よく放出して卵を温められるようになっています。

⑥ツバメが家に来るようにするにはどうしたらよいかですが、そのヒントは、「ツバメが来る家は商売繁盛する」ということわざにあるように思います。  商売をしている方はよくご存じで、ツバメが来ると実際によいことがあるのだと教えていただくこともあります。  「迷信だ」と決めつける人もいるかもしれませんが、私はそうは思いません。  普通のツバメは人通りの多い場所を好むので、商店など、人がよく出入りする家屋にはツバメがよく繁殖します。

⑦「古巣についてはどうしたらよいのか」という質問もよく受けます。  なわばり内の古巣はオスがメスを惹きつけるための重要な要素であり、その場所の質を表す指標になっているので、触らないのが一番だと思います。  明らかに使っていない古巣も、たくさんあれば、捕食者への目くらましとして機能しているかもしれません。』

マンション住まいの私にとっては、唯一の季節の風物詩で、卵からかえったヒナを見ると本当に癒されます。


2.私が日常使っている手帳は『中村天風 成功手帳』(日本経営合理化協会)です。  1週間ごとの見開きになっていて、上部に思想家・中村天風先生の言葉が書かれています。

明日18日(月)からの週には、『どうせ言うなら、不平不満を言っているその同じ口で、「ああ、ありがたい」 「ああ、楽しい」 「ああ、嬉しい」って言ってごらん。』と書かれています。

新型コロナで大変ですが、不平不満を言わず、「ああ、ありがたい」 「ああ、楽しい」 「ああ、嬉しい」と口に出すことは、免疫力アップにもつながるはずです。

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宿無し弘文

前回はマイク・タイソンの師、カス・ダマトを取り上げましたが、今回はアップル創業者のスティーブ・ジョブズが師事した禅僧のはなしです。  『宿無し弘文 スティーブ・ジョブズの禅僧』(柳田由紀子著 集英社インターナショナル)から抜粋し、番号を付けて紹介します。  内容は、1993年にオーストリアにある山奥の禅堂での乙川弘文(おとがわこうぶん)禅師の法話からです。

『①私は、危篤状態だったポールという人物を病院に訪ねた足で、ここ、オーストリアに来ました。  こちらに着いてから、彼が亡くなった知らせを受けたのですが、ポールがもう苦しまないですむと思うと、安らかな気持ちにさえなっています。

②ポールは、いささか風変わりな子を養子に迎えていましてね。

③20年ほど前でしたか、あれは私が、カリフォルニア州のロスアルトスに住んでいた頃のことですが、真夜中にその子が、私たち夫婦の自宅を訪ねて来たんです。  裸足で長髪、髭ぼうぼう、ジーパンは穴だらけ。  (中略)

④私には真剣さが伝わったので、夜中に2人して街まで出かけました。  1軒だけ開いていたバーに入りカウンターに腰かけると、誰もが我々をじろじろ見てね。  だって、とにかく彼の服装はひどかったんですよ、ふふ。

⑤「悟りを得た」と彼が言ったので、私は、「証拠を見せてくれ」  すると彼は困ったように口ごもって、「まだ見せられない」

⑥そんなことで、その夜はお開きになったのですが、1週間後、彼がまた裸足でやって来て、「これが悟りの証拠だ」と、そうですね、横幅40センチ、縦幅20センチくらいの金属板を出したのです。

⑦私は、そこにチョコが並んでいるのかと思ったのですが、パーソナルコンピュータのチップと呼ぶんですか、あれは。  今思えば、あの金属板の板が、アップルコンピュータの始まりだったんですね。  でも、あれが悟りの証拠と言えるのかなぁ?  ふふ。

⑧彼は、しばしば私に「僧侶にしてくれ」と頼むのですが、ダメだと答えています。  なぜって、彼自身も認めているように、とても悪い修行者ですから。  摂心(禅宗で、一定期間ひたすら座禅に専念すること。  接心とも書く)をしないんですよ。  聡明すぎるのでしょうか、1時間以上の座禅ができないんです。

⑨しかし、何よりうれしいのは、彼の娘、リサが、私のことをゴッドファーザーだと思ってくれていることです。  リサは、私が訪ねるといつも駆け寄って来て日本語で話しかけてくれるのですよ。』

本文中に「弘文が公にスティーブの話をするのはとっても珍しい、というか、これ1度じゃないかな。」とあるように、弘文禅師は生前、自分からスティーブ・ジョブスの話はしなかったようです。

「師弟は三世(さんぜ)」という言葉があります。  師弟の間は、前世・現世・来世の三世にわたる深い因縁でつながっているという意味です。

カス・ダマトとマイク・タイソン、乙川弘文禅師とスティーブ・ジョブズ、どちらの出会いも偶然ではなく、必然だったんでしょうね。

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カス・ダマトとマイク・タイソン

元・ライトヘビー級世界チャンピオンのホセ・トーレスが、カス・ダマト(1908~85)門下の弟弟子であるマイク・タイソンについて書いた『ビッグファイト、ビッグマネー』(山際淳司訳 竹書房)を読みました。  「第四章 出会い」から、抜粋し、番号を付けて紹介します。

『①ひと昔も、ふた昔も前のことだ。  ボクシングの指導者、コンスタンチン・ダマトはまだ若くて、短気なマネージャー兼トレーナーだった。 かれはニューヨークの南ブロンクスで育った。

②カス・ダマトは22歳のときにはすでに白髪となり、片目しか見えず、そのうえ色盲という状態だった。  32歳になったころから、その原因についてついにかれは語らなかったが、臭覚、味覚、視覚、聴覚が衰え始めた。

③ダマトはほんの子供のころにボクシングにほれこみ、かれの言葉を借りれば「ストリート・ファイター」となっていた。  12歳の時に、自分の倍の年の大人と喧嘩をし、顔を何かで殴られた。  そのために彼は片方の目の視力を失った。

④22歳の時に、カスはジャック・バロウと共にエンパイア・スポーティング・クラブを創立し、若いボクサーを育てはじめた。  3人の世界チャンピオン、フロイド・パターソン(元・ヘビー級世界チャンピオン)、ロッキー・グラシアーノ(元・ミドル級世界チャンピオン)、そして私、ホセ・トーレスをはじめとするボクサーたちがそこから出た。  フロイドや私がダマトにゼロから育てあげられたのも、まさしくそこだった。

⑤カスは1930年年代の中頃にアメリカ軍に入隊し、ボクシング・コーチとなった。  第二次世界大戦直前に除隊された時は、軍曹だった。  カスはあまり背が高いほうでもなく、強健でもなかった。  たくましい首にのった頭にはわずかに白髪が残っているだけだった。

⑥カス・ダマトは独立独歩の孤高の人だった。  自分の考えを執念ともいえる頑固さで守り通した。  その根本的なボクシング哲学は、高い次元においては、リング上の勝敗を決するのは肉体のメカニズムではなく精神力であるというものだった。

⑦カスは何度もくりかえしていった。  「ボクシングでは人間性と創意が問われる。  勝者となるのは、常に、より多くの意志力と決断力、野望、知力を持ったボクサーなのだ」

⑧そんなころ、1979年、マイク・ジェラルド・タイソンは初めてカス・ダマトと会った。  それはまた、私がタイソンと会った年でもある。

⑨カスは私がプロボクサーであった11年間(1958~69)を通じてマネージャーをし、私を世界ライトヘビー級チャンピオンに育て上げてくれた。  その後もかれは、二人の若いチャンピオン、ウィルフレッド・ベニテス(元・スーパーライト級、ウェルター級、スーパーウェルター級の3階級世界チャンピオン)とエドウィン・ロザリオ(元・ライト級、ジュニアウェルター級の2階級世界チャンピオン)を含めて、数百名の若いボクサーのトレーニングを手伝ってきた。

⑩しかし、子供のころからずっと育てたボクサーはまだいなかった。  1979年2月のある寒い朝、カスは一人の若いボクサーのことで夢中になっている様子だった。  (中略)  やってきたのは力強い顔をした少年だった。  カスはその少年の頭にそっと手を置くと、私にいった。  「この子がマイク・タイソンだ。  ボクシングに対する興味と希望を捨てさえしなければ、いつかヘビー級の世界チャンピオンになる子だよ」

⑪ヘビー級にしては背が低く(5フィート6インチ)、ボクサーにしては筋骨たくましく(186ポンドで、ほとんど脂肪はなく筋肉の塊だった)、荒々しいルックスのわりに内気なようだった。  マイクはその時13歳にもなっていなかったが、すでにかなりの件数の犯罪を犯していた。』

それから7年9か月後の1986年11月22日、タイソンは史上最年少(20歳5か月)で世界ヘビー級チャンピオンとなります。 ところが、カス・ダマトは前年の11月4日に亡くなっているため、 残念ながら見届けることができませんでした。

外出自粛が続いていますが、本を読むには最適の環境です。  

「与えられた環境条件の中でできるだけのことをする」というのは、私の生活信条の一つでもあります。

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