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絶対の正解

『応仁の乱』(中公新書)や『陰謀の日本中世史』(角川新書)の著者、歴史学者の呉座勇一さんのインタビュー記事が5月23日の日経新聞・朝刊に載っていました。  タイトルは『絶対の正解 求める危うさ』です。  番号を付けて紹介します。


『1.(序)

①日本人は歴史好きといわれるが、大人になってから学び直す機会は少ない。  歴史に材を取った小説やドラマも古い学説にのっとっていることが多く、最新の研究成果が一般の人まで届いていないのだ。

②大学で教えていると学生から「習ったことと違う」「なぜ高校で新しい知見を教えてくれないのか」という声が上がる。  だが問題の根本はそこではない。  「正解を知りたい」という気持ちこそが危険だと感じる。


2.情報の更新に目を向けず、「絶対の正解」を求める姿勢を問題視する

①歴史に限らず「唯一絶対の正解があり、そこに必ずたどり着ける」と考える人は多いが、現在の複雑な社会で、簡単に結論の出る問題はない。  性急に答えを欲しがり、飛びつくのはポピュリズムだ。

②新しい時代を生きる上で重要なのは「これが真実」「こうすればうまくいく」という答えらしきものに乗せられることなく、情報を評価するスキルではないか。  ネットを通じ、情報の入手自体は簡単になった。  それをいかに分析し、価値あるものを選び出していくか。  歴史学の根幹はこの「史料批判」にある。  リテラシーを身につけるひとつの手段として、歴史学の研究成果に親しんでもらえたらと思う。

③歴史を学ぶ意義は大きく2つある。  1つは現代の相対化だ。  かつて、いま我々がいる社会とは全く違う仕組みの社会が存在した。  異なる常識で動いていた社会を知ることが、我々の価値観を疑ったり「絶対に変えてはいけないものなのか」と問いかけたりするきっかけになる。  女性・女系天皇を巡る議論も、歴史を知ることなしにはできない。

④もう1つは、社会の仕組みが異なっても変わらない部分を知ること。  親子や兄弟の絆、宗教的観念などは、時代を超えて今につながるものがある。  この両面を通して、我々はこれからどう生きるべきか、ヒントを引き出せるのではないか。


3.一方で、歴史から手っ取り早く教訓を得ようという姿勢は危惧している

①目的意識が先に立つと、歴史を見る目がゆがむ。  自らの見たいものを過去に投影し、事実でないものを教訓にしてしまう。  自説の補強や正当化のために歴史をゆがめられては困る。

②歴史を叙述すれば、どうしても物語に接近していく。  だからといって、書きたいように書けばいいわけではない。  正解がわからなくても「これはあり得ない」ということはある。  間違った事実に基づく主張に対して、歴史的事実が誤っていると指摘するカウンターの役割を、歴史学者は担うと考えている。

③私が専門としている日本の中世は、権力の軸が見えづらい、多極的な社会だ。  現代に通じるものがある。  見通しが立たない時代こそ、リアルタイムの動きばかり追っていると、変化の波に翻弄されてしまう。  歴史を振り返り、長期的な視野に立つことが大切だ。』


最初、1.②の『「正解を知りたい」という気持ちこそが危険だと感じる。』という文章を読んだとき、誤植の可能性を疑いました。  しかし全文を読むと、あまりに単純に歴史的事実を解釈する危険性に対して、注意を促しています。

人生で起きる出来事も、多面的な要素があり、そんなに単純に解釈できるものばかりではありませんものね(笑)

「歴史を物語として学ぶ危険性」に関する呉座さんのインタビューは、昨年8月7日のブログでも紹介しました。

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『身体の聲』(光岡英稔著 PHP研究所)を読みました。  第四章「気と健康と死を身体論から考える」から抜粋し、番号を付けて紹介します。

『1.昔、人々は、「人間は『気』で生きている」と考えていた。

人間は「気」で生きている。  そのことで生命が成り立っているという考え方が「生気論」「生気説」です。  その古の時代の感性によって導き出された生気論を理解するには困難な時代に、私たちは生きています。


2.古の「気」は日常の生活の中にあった

①なぜなら近代文明の発達以降「気」を物質的に理解しようとする「気の科学化」と、神秘的に気を扱う「気の特殊化」の二極化が生じてしまい、今やどちらか一方か二つの組み合わせでしか「気」を理解できなくなっているからです。

②「気の科学化」と言うのは、あくまで気を物理的に捉え、物質として解明できる対象として扱おうとする手法です。  日本では1980年代に気ブームが起きて、科学で解明しようとし、欧米に至っても科学的なエネルギー理論や量子力学を使って気の説明を試みました。

③もう一つの流れは「気とはオカルトチックな神秘現象だ」という捉え方で、いわば「気の特殊化」です。  こちらは、気とは科学でも解明できないほど神秘的で特殊な現象だというわけです。  多少の武術的な要素と暗示を通じた気のパワーで人が飛ばされるとか物事に変化が起きるといったことが話題になりました。

④しかし、生気論のいう気は科学的説明の範囲にあるものでもなく、また、そのように分かりやすいオカルトチックで超常的な神秘現象のことでもありません。

⑤もっと暮らしの中で揉まれてきた、本来は身近な存在が「気」「生気」なのです。  (中略)  

⑥例をあげると、大正時代に出版された天神真楊流柔術の解説書には、「下腹に気満ちること」や「気と力と志の区別と一致」といったように、取り立てて気について説明されることもなく語彙が使われていました。  (中略)  生活の中に普通にあるものなので、それ以上説明する必要がなかったのかもしれません。


3.頭脳労働が多い現代人は普段から気血が頭に上がり逆行している

①おそらく今の現代人のほとんどが、昔の人から見ると「気逆」状態で生活を送っています。  頭をよく使い、頭に気を上げて、意識して何かを行うことを常の習慣とするあまり、現代社会では気が頭に上がりっぱなしで生活を送る人も少なくありません。  (中略)

②中(国)医学では「気が血を導き、血は気に従う」としており、病気の元になる条件として「気滞・気虚・気逆」などをあげています。

③その観点からすると、現代人の多くが特に腰から下の足の方まで気が回らず気虚になっています。

④また、気滞が頭、首、肩に生じやすくその箇所が存在しすぎ、臂(ひじ)や腰、膝などは気虚となり存在が虚ろになる反動から、その箇所が存在意義を訴えてきて、痛みや違和感などを提示してきます。』

私は基本的に、「病院に行かない」「薬やサプリメントは飲まない」という主義です。  健康管理については、ただ「気・血の流れを整えること」のみ心掛けています。

今日も、朝は日課の立禅で「気の養成・鍛錬」を行い、午後は掌道の菊澤院長に鍼で「気・血流の調整」を行ってもらいます。

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参照点バイアス

『THE TEAM 5つの法則』(麻野耕司著 幻冬舎)を読みました。  『「あの人よりやっているから」という落とし穴(参照点バイアス)』の項から抜粋し、番号を付けて紹介します。

『1.①行動経済学では「参照点バイアス」というバイアス(先入観、偏見)も提唱されています(アンカリング効果とも呼ばれています)。  最初に提示された数字や印象が参照点(アンカー:船のいかり)となって強く残り、その後の印象や行動に影響を及ぼすことを指しています。  (中略)

②このような心理作用がチームにおいてマイナスに働くことがあります。  本来は100のパフォーマンスを出せる人が、隣のチームメンバーが60しかパフォーマンスを出していないので、自分も60くらいでいいか、と意識的・無意識的に考えてしまうのです。

③とくにリーダーはメンバーの参照点になりやすいです。  「リーダーが遅刻しているから自分も遅刻して良い」 「リーダーがきちんと人の話を聞いていないから自分も人の話を聞かなくて良い」などと都合の良い参照点としてメンバーがリーダーを使うことが多々あります。

④この落とし穴にはまらないためには、チームの中で「基準」を明確に示すことが重要です。  (中略)  それぞれのメンバーにどれくらいの「基準」を求めるのかを曖昧にせずに明確に提示することです。

⑤またそれだけでなく、チームの中で誰が基準を満たしているのか、満たしていないのかを共有することで、自分に都合の良いメンバーの成果や行動を参照点にさせるのではなく、チームとして「基準」にすべきメンバーの成果や行動を参照点にする必要があります。

2.①プロ野球チームの阪神タイガースは1985年の日本一以降、1987年から2001年まで15年間で10回も最下位になるという「暗黒時代」でした。  しかし、2003年に星野仙一監督のもと、阪神タイガースは18年ぶりのリーグ優勝を果たします。  その後は毎年優勝争いに加わる強豪チームとなり、2005年にも岡田彰布監督のもと、リーグ優勝しています。  (中略)

②阪神タイガースは弱くても関西では非常に人気のある球団で、選手はファンや支援者から、言葉を選ばずに言うと甘やかされていたようです。  そんな中で、選手も甘えた姿勢を持ってしまい、ちょっとしたことで弱音を吐いて練習を休んでしまうことも多かったと言います。  

③しかし、そんな状況が、ある選手の加入で変わります。  金本知憲選手です。  金本知憲選手は連続試合フルイニング出場の世界記録(1492試合)を持っている「鉄人」と呼ばれた選手です。  

④トリプルスリーと呼ばれる打率3割、本塁打30本、30盗塁を成し遂げた、打ってよし、走ってよし、守ってよしの三拍子揃った選手であることも勿論素晴らしいのですが、阪神タイガースの他の選手に大きく影響を与えたのは、どんな状況であったとしても、練習や試合を休まずにストイックに野球に取り組む姿勢でした。

⑤金本選手の加入によって、チーム全体の「基準」が変わり、選手たちの野球に取り組む姿勢が変わり、チーム全体の成績も変わっていきました。  「基準」が変わることにより、チームが変わった好例だと言えるでしょう。

3.チームが「〝あの人よりやっているから〟という落とし穴」に陥らないように、「基準」を明確に示す必要があります。』

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武道家の楽観性

前回紹介した哲学者・武道家の内田樹先生の別の対談集を読みました。  『善く死ぬための身体論』(集英社新書)という本で、対談相手はヨーガ指導者の成瀬雅春先生です。  内田先生の「まえがき」から抜粋し、番号を付けて紹介します。

『①僕の合気道の師匠である多田宏先生と成瀬先生との対談を聴きに行った時です。  帰途、五反田まで歩く道筋で、多田先生に「成瀬先生って、本当に空中に浮くんでしょうか?」と伺ってみたら、多田先生がにっこり笑って「本人が『浮く』と言っているんだから、そりゃ浮くんだろう」とお答えになったのが僕の腹にずしんと応えました。

②なるほど。  武道家は懐疑的であってはならない。  そんな命題が成立するのかどうかわかりませんけれど、何を見ても、何を聴いても、疑いのまなざしを向けて、「そんなこと、人間にできるはずがないじゃないか」というふうに人間の可能性を低めに査定する人間が武道に向いていないことはたしかです。

③でも、実際にそのような「合理的」な人は武道家の中にもいます。  そういう人は筋肉の力とか、動きの速度とか、関節の柔らかさというような、数値的に表示できる可算的な身体能力を選択的に開発しようとする。  でも、実際に稽古をしている時に僕たちが動員している身体能力のうち、数値的に表示できるものはたぶん1パーセントにも満たないんじゃないかと思います。

④していることのほとんどは、中枢的な統御を離れて、自律的に「そうなっている」。  いつ、どこに立つのか、どの動線を選択するのか、目付はどこに置くのか、手足をどう捌くのか、指をどう曲げるのか・・・・・・などなど。  ただひとつの動作を行うにしても、関わる変数が多すぎて、そのすべてを中枢的に統御することなんか不可能です。  (中略)  淡々と稽古を積んでゆくうちに、そういう「賢い身体」がだんだんでき上ってきます。

⑤武道の稽古においては、「こういう能力を選択的に開発しよう」ということができません。  だって、「どういう能力」が自分の中に潜在しているかなんて僕自身が知らないから。  あることができるようになった後に、「なんと、こんなことができるようになった」と本人もびっくりする。  そういうものです。  (中略)

⑥そのどこに向かうのかわからない稽古の時に手がかりになるのはただひとつ「昔、こういうことができる人がいたらしい」という超人たちについてのエピソードです。  そのような能力の「かけら」でも、もしかすると自分の中には潜在的にあるのかもしれない、修業を積んでいるうちに、思いがけなくそういう能力が部分的にではあれ発現するかもしれない、それだけが修業の手がかりになります。  

⑦そういうわりと楽観的でオープンマインデッドな修業者と「そんなこと、人間にできるはずがない。  そういうのは全部作り話だ」と切って捨てる「科学主義的」な修業者では、稽古を10年20年と重ねてきた後に到達できるレベルが有意に変わります。  

⑧どんな異能であっても、「そういうことができた人がいる」という話は受け入れる。  「そういうことって、あるかもしれない」と思う。  そして、どういう修業をすれば、どういう条件が整うと、「そういうこと」ができるようになるのか、その具体的なプロセスについて研究し、実践してみる。  

⑨だって、それによって失われるものなんて何もないんですから。  自分の中に潜む可能性を信じようと、信じまいと、日々の稽古そのものに割く時間と手間は変わらない。  だったら、「そういうことができる人間がいる」と信じたほうがワクワクするし、稽古が楽しい。  人間の潜在可能性についての楽観性と開放性は武道家にとってかなり大切な資質ではないかと僕は思います。』

人間の潜在可能性を信じて、今朝も立禅でした(笑)

  

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