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太らないカラダ

『トロント最高の医師が教える 世界最新の太らないカラダ』(ジェイソン・ファン著 サンマーク出版)を読みました。  全編から抜粋して紹介します。

『(1)第1部「肥満の真実」

肥満の根本原因は主に血中の「インスリン」というホルモンの濃度が高くなることによってホルモンの複雑なバランスが崩れることである。  (中略)  そもそも、遺伝的な要素で説明がつくのは、私たちが目にしている肥満傾向の70%でしかない。  逆にいえば、残りの30%は私たちが自分でコントロールできるということになる。


(2)第2部「カロリー制限」という幻想

①体脂肪の増加を調節するホルモンが、新たにいくつも確認されているのだ。  (中略)  つまり、「脂肪の増加がホルモンで調節されている」なら、肥満はカロリーの取り過ぎではなく、ホルモンの異常により引き起こされるものであると言い切れる。

②食事療法と運動は、どちらも同じくらい大切というわけではない。  (中略)  肥満の原因の95%を占めるのは食事なのだ。  (中略)  運動することによる利点もあるだろうが、体重を落とす効果は期待できない。

③ここで関係する基本的な生物学原理は、「恒常性の維持」である。  体重や肥満に関しては〝設定値〟というものがあると考えられている。  (中略)  体重が設定値よりも低くなると、代償作用が働いて体重が増える。  (中略)  だから、肥満の問題点は、「設定値が高くなっている」ということにある。

④体は、自動温度調節器(サーモスタット)のようなものだ。  体重の設定値は、体重が増えても減っても変わらない。


(3)第3部「世界最新の肥満理論」

①肥満の原因は、体内のホルモンのバランスが崩れることによって体重の設定値が高くなり過ぎることだ。  (中略)  では、どのホルモンが肥満の原因なのだろう?  (中略)  因果関係が見られたホルモンがふたつあった。  「インスリン」と「コルチゾール」である。

②もし、カロリーの過剰摂取が肥満の原因だと信じていたなら、カロリーを減らしさえすればいいということになるだろう。  だが、このやり方はこれまでうまくいった例(ため)しがない。  インスリンの分泌量が多いことが肥満の根本原因なのだとすれば、インスリンの分泌量を抑えればいいということは明らかだ。

③代謝を維持するのに最もいいダイエットは何だろう?  それは、「炭水化物を極端に減らしたダイエット法」だ。  このダイエットをすると食欲が減るように感じる。  (中略)  インスリン値も下がる。

④常に何かを食べる機会が増えたことで、常にインスリン値が高くなってしまっているのだ。  (中略)  主犯はここに隠れている・・・やめるにやめられない「間食」だ。


(4)第4部「社会的肥満」

「砂糖や(炭水化物に含まれる)でんぷん質は摂り過ぎないこと」 「間食はしないこと」といった方法は、昔おばあちゃんが言っていた体重の減らし方とほぼ同じだ。  (中略)  糖分と精製された炭水化物の摂取量を減らせば、インスリンが減る。


(5)第5部「トロント最高の医師がやらない『太る食事』」

砂糖を摂ると太ってしまうのは、単純に砂糖が高度に精製された炭水化物だからだ。  砂糖を摂るとインスリンの産生が促され、それが体重の増加を引き起こす。  ここでもう一度思い出してほしいのは、米やジャガイモといった精製された炭水化物のほとんどは、体重の増加を招くということだ。

(6)第6部「医師が教える『太らないカラダ』の作り方」

①インスリン値が低い状態を一時的につくりだすには、どうしたらいいのだろう?  適切な食べ物を食べていれば、高いインスリン値を招くことはないとわかっているが、それだけではインスリン値をもっと低くするには不十分だ。  ある食べ物はほかの食べ物よりもインスリン値を上げないのは確かだが、すべての食べ物はインスリンの分泌を促すことを忘れてはいけない。

②どんな食べ物もインスリン値を上げるのだとすれば、インスリン値を下げるには、「まったく何も食べない」という方法しかない。  つまり、一言でいえば「ファスティング(断食)」という方法だ。

③ここでいうファスティングは、24時間から36時間のファスティングを「間欠的」に行うものを指す。』

もし、選手の皆さんが太りたかったら、上記の内容の逆をやってインスリン値を上げるようにすればいいことになります。  つまり、

①食べ物の種類によってインスリン値を上げる・・・砂糖や精製された炭水化物(白いパンや米やジャガイモ)を積極的に摂取する。

②ファスティング(断食)の逆を行ってインスリン値を上げる・・・3度の食事のほかに、2~3回の間食をする。

私自身、17歳で極真会館に入門したときの体重が64キロ、28歳で現役を引退したときの体重が87キロ、と11年かけて23キロの増量をしました。  やせるのも大変ですが、太るのも大変です(笑)


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井上尚弥選手

3月18日の「イーファイト」で井上尚弥選手のイメージトレーニングが取り上げられていました。  抜粋し、番号を付けて紹介します。

『①5月18日に開催されるWBSS準決勝に挑むWBA世界バンタム級王者・井上尚弥(25=大橋)と5月25日に2度目の防衛戦に臨むWBO世界スーパーフェザー級王者・伊藤雅雪(28=伴流)が3月17日(日)、都内で対談を行った。  ボクシングを始めたきっかけや世界を獲ったエピソード、次戦への意気込みなど話は多岐に及んだ。

②無敗のモンスター井上、前回は70秒で相手を葬っている。  ようやく決まった準決勝まで2ヶ月、イメージトレーニングの話になると井上は意外にも「今は自分が分が悪いイメージをしている」と話す。  倒されるイメージまでしっかりすると言い「そう思わないと練習を追い込めない」とも。  初めからそうできると挑んでしまったらできない時に対処ができないとも語った。  (中略)

③リスクマネージメントでもある。  前回の元WBA世界バンタム級スーパー王者ファン・カルロス・パヤノ(ドミニカ共和国)では徹底的なサウスポー対策、フィリピンから3人の〝仮想〟パヤノを招聘し120ラウンドのスパーをこなしている。  そこで何度かダウンを奪い、慣れないサウスポーを克服、試合前には準備万端、穴を無くし絶対の自信に昇華させる。  「自分が戦わなければいけない距離で戦えれば問題なくクリアできると思う」と試合前に自信を覗かせた井上は70秒の衝撃KOに繋いだ。

④また、「自分は相手をめちゃくちゃ過大評価している、すると対戦したとき、あ、こんなもんか」と思えるのだという。

⑤伊藤はそれを聞き「僕も相手を過大評価してヤバイときのイメージをするんですが、相手に怖さがない場合は難しい。  そしてどういう風に自分がやられるのか考えないといけない、イメトレはやっぱり難しいなと思う」と相手によりイメトレは難しいとも語った。』

私の理想とするイメージトレーニングは、実際に試合で戦った時に「この間やったイメージトレーニングとまったく同じ状況・感覚・心理状態だ」と思えるような、実戦にきわめて近いイメージトレーニングです。  自分が追い込まれている(例えば相手に技有りを取られた)ようなネガティブなシチュエーションを想定したイメージトレーニングも欠かせません。

井上・伊藤両選手の対談は、WOWOWで4月27日20時20分より、『KO必至!井上尚弥&伊藤雅雪!!世界へ羽ばたく侍ボクサー』というタイトルで無料放送されるそうです。

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先崎学九段

プロ棋士の先崎学九段が書いた『うつ病九段』(文藝春秋)を読みました。  著者紹介には次のように書いてあります。  「2017年7月にうつ病を発症し、慶応大学病院に入院。  (中略)  そして一年間の闘病を経て2018年6月、順位戦で復帰を果たす。」  本書の最終部分から抜粋し、番号を付けて紹介します。

『①中学生の時、イジメにあった。  それまで小学校で3年間、内弟子という奇妙な体験をしてこまっしゃくれていた私は、中学校に入るとすぐにクラスで浮いた。  

②おりしも校内暴力の全盛期で、授業中に校庭でバイクが集団で走りまわり、トイレは喫煙防止のために仕切りがすべてなくされるような荒れた学校で、私はまたたく間に不良たちの「かわいがり」の対象となった。  私がどもりだったこともあるかもしれない。

③教師は、今では信じられないことだろうが、将棋のプロになるというのはヤクザになるのと同じくらいにしか思っておらず、まったく相手にしてくれなかった。

④はじめは無視されたり、将棋野郎といわれるくらいの軽いものだったが、当然の成り行きでエスカレートしていった。  半年もたつと教科書を盗まれたり、生徒手帳にバカと書かれて廊下の壁に貼られたりした。  椅子に大きくあざけりのことばが書かれていたこともある。

⑤いじめは学校の中だけでは済まなかった。  ある朝、家の壁に私を中傷する落書きがいくつも描かれていた。  学校へ行こうとすると、母親が黙ってそれを消していた。  いくら拭いても消えないのに、ただ黙ってモップでこすっていた。

⑥私はそれを見て、母親に学校へ行ってくるといったまま将棋連盟に行って、仲間と将棋を指した。  その日は連盟に泊まって、翌日帰ると落書きはさっぱり消えていた。  今に至るまで、このことを母親とはなしたことはない。

⑦私は猛然と記録係をするようになる。  記録係というのはプロ棋士の公式戦の記録をつける仕事で、朝10時からこれをすると学校へ行かなくて済む。  月に十日から十五日くらい記録係をして、できるだけその日は連盟に泊まるようにした。

⑧必然、週に一度も学校へ行かないようになる。  母親は何度も学校から呼び出しをくらい、私も同席させられた。  教師にイジメについて訴えても、そんなことはよくあることだとまったく取り合ってもらえず「学校に来ないとロクな人間になれんぞ」と声高にいわれた。  私はこいつのいうことを聞いたらロクな人間になれないと確信した。

⑨学校生活に比べると将棋界は楽園だった。  先輩たちは温かったし、ひとつの伝統ある世界の一員として扱ってくれた。  なにより仲間と将棋を指す時間は宝物だった。

⑩とはいえ毎日将棋だけにかかわるわけにもいかない。  私はむさぼるように本を読んだ。  学業をしていない分、圧倒的に知識がないのは明らかだった。  ひたすら本を読んで、だから今この原稿を書いている。  (中略)

⑪本を読んで知識を得、現場で勉強して常識を得、(アナウンサーの卵が通う学校に通って)どもりを直して中学時代のつらい経験を克服しようとしてきた。

⑫しかし、心の支えは何といっても将棋だった。  あの落書きをされた日、将棋を指す仲間がいなかったら自分はどうなっていただろう。  記録係をできずに学校へ行くよりなかったら・・・・・・。

⑬棋士になって様々な仕事をし、様々な人に会って臆せずはなせたのも、すべて自分は将棋が強いんだという自信があるからだった。  そう、私は腕一本で人生を切り拓いてきた。  そして今回もうつ病を、ひたすら将棋を指すことで切り抜けた。  

⑭だから大丈夫である。  もしうつ病に対する偏見があっても、将棋の力によって必ず切り抜けられるはずだ。  ベテランだから勝てないなんてことはどうでもよい。

⑮将棋の力であのイジメに勝ったのだ。 それが私の「誇り」である。  くだらない偏見なんてものに負けるわけがない。

⑯今、書いていて分かった。  こんなことを書いているくらいだから、うつはたしかによくなっている。』

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マングースと花粉症

1.3月5日の朝日新聞夕刊・連載「e潮流」のタイトルは『マングース、勘違いの末に・・・』で、元朝日新聞編集委員の竹内敬二さんが書かれていました。  番号を付けて紹介します。

『①奄美大島(鹿児島県)で行われてきた環境省によるマングース駆除事業で、昨年4月の1匹を最後に捕獲が途絶えた。  2016年度は28匹、17年度は10匹と捕獲頭数は減り続けてきた。  環境省は「根絶が近い」と意気込んでいる。

②イタチに似た姿をしているマングースは1910年に、インドから沖縄へ17匹が導入されたとされる。  「毒蛇ハブを食べる天敵」と期待された。  インドで「コブラ対マングース」の対決ショーがあり、「ハブ退治にちょうどいい」と考えたらしい。  79年には、沖縄の30匹が奄美大島に放たれた。

③導入は大失敗だった。  ハブは夜行性なのに対し、マングースは昼行性だ。  「野生の状態では、そもそも、ほとんど出会わなかったのではないか。  それに、出会っても闘う理由がない」というのが、今の一般的な考え方だ。  冗談のような勘違いである。

④しかし、見せ物では激しく闘う。  「それは対決前にマングースにエサをやらないからです。  マングースは空腹で必死になる」と奄美観光ハブセンターの本山栄隆さんが教えてくれた。

⑤対決では、マングースがハブの首にかみついて勝つことが多いが、時にはハブにやられることもある。  沖縄や奄美に放たれたマングースは、当然ながらハブよりも弱い昆虫やネズミ、鳥、果実を食べた。  希少種のヤンバルクイナやアマミノクロウサギ、アマミイシカワガエルなども犠牲になった。

⑥奄美大島のマングースは2000年に1万匹になったと推定される。  島中に広がった動物を捕まえるのは極めて難しい。  そもそも、導入前に、昼行性と夜行性の違いは分からなかったのだろうか。  マングースは19世紀後半から、ハワイや西インド諸島でネズミ駆除のために放たれたが、生態系への害の方が問題になっていた。  こうした情報は届かなかったのだろうか。

⑦生態系全体で考える時代ではなかったのかもしれないが、結局、微妙な生態系に人間が安易に手を出してもうまく制御できないということだ。

⑧ハブとマングースは闘う関係ではなかった。  もう映像以外で対決ショーを見ることもないだろう。  「あの二人はハブとマングースだ」といった言葉だけが残るのだろうか。』

今さら「ハブとマングースは闘う関係ではなかった。」って言われても・・・(笑)

「1910年・インドから沖縄へ17匹、79年・沖縄から奄美大島に30匹」ということは、沖縄への導入から69年経った1979年時点でも「ハブとマングースは闘う」と考えられていたことになります。


2.私のスギ花粉症も今年で21年目です。  スギ花粉症についてウィキペディアで検索・抜粋し、番号を付けて紹介します。

『①日本で1960年頃からスギ花粉症が急増した原因としては、農林水産省が推奨してきた大規模スギ植林が主に挙げられている。

②戦後復興や都市開発などで日本では第二次世界大戦以後木材の需要が急速に高まったが、一方で国内木材の供給量は不足気味で、林業の拡大と造林は 当時の日本において急務であった。

③このため農林水産省は戦後に拡大造林政策を行い、その一環として各地にスギやヒノキなどの成長率が高く建材としての価値が高い樹木の植林や代替植樹を大規模に行ったが、その一方でスギ花粉の飛散量も爆発的に増加することになり、大量のスギ花粉を曝露した日本人がスギの花粉症を発症することにもつながった。

④また高度経済成長を経て日本では林業が衰退し、木材も外国からの質が良くて安い輸入品に押されて国内スギの需要が低迷するようになったため、大量に植えたスギの伐採や間伐なども停滞傾向となり、花粉症原因物質であるスギの個体数が増加していることも花粉症患者の増加傾向の要因となっている。

⑤「花粉症の父」と称される齋藤洋三が1963年前後から目や鼻にアレルギー症状を示す患者が増加したことから、1964年に「栃木県日光地方におけるスギ花粉症 Japanese Cedar Pollinosis の発見」という論文を発表。  これが公式なスギ花粉症の発表とされている。』


3.スギ植林を時系列でみると、次のようになります。

①1950年に制定された「造林臨時措置法」を契機に、一気に植林が進められた。

②1961年に大規模な造林、俗にいう戦後の「拡大造林」を行った。

③1964年、「スギ花粉症」が発表された。

①~③まで14年ですから、1.のマングースのケースよりは短期間です。

それにしても、目がかゆいな~(笑)



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ヴァレリー『湖に浮かべたボートを漕ぐように』

1.『湖に浮かべたボートを漕ぐように、人は後ろ向きに未来へ入っていく。  

目に映るのは過去の風景ばかり、明日の景色は誰も知らない』

ネットで検索したポール・ヴァレリー(フランスの著作家・詩人 1871~1945)の詩です。つまり、「未来は誰にも分らないのだから、過去の事例から類推するしかない」ということだと思います。


2.『なぜ必敗の戦争を始めたのか 陸軍エリート将校反省会議』(半藤一利編・解説 文春新書)を読みました。  月刊誌『偕行』で1976年~1977年にかけて連載された、太平洋戦争開戦時の陸軍中堅参謀の座談会記録と半藤さんの解説です

半藤さんが書かれた「余話と雑話・・・あとがきに代えて」から抜粋し、番号を付けて紹介します。

『(1)①一つだけ、本書ではまったくふれられていないことを付け加えておきます。  こうして世界情勢が急展開しているとき、日本の国民はどうしていたのか、ということです。  これがまた情けなくなるほどメディアに煽られて勇み立っておりました。

②たとえば(1941年)10月26日の東京日日新聞(現・毎日新聞)の社説です。読めば読むほどいやはやとため息がでてくるばかりの大言壮語。

「戦わずして日本の国力を消耗せしめるというのが、ルーズヴェルト政権の対日政策、対東亜の根幹であると断じて差支えない時期に、今や到達していると、われらは見る。  (中略) われらは東條新内閣が毅然としてかかる情勢に善処し、事変完遂と大東亜共栄圏を建設すべき最短距離を邁進せんことを、国民と共に希求してやまないのである」

「最短距離」とは戦争をやれ、ということですね。  (中略)

③(臨時国会では)島田俊雄議員も大声をあげます。  「ここまでくれば、もうやる外ないというのが全国民の気分である」  東條首相もこう獅子吼(ししく)します。  「帝国は百年の計を決すべき重大なる局面に立つに至ったのであります」

④これをうけて新聞は、それぞれ勇ましい論陣を張りました。  「一億総進軍の発足」(東京日日新聞)、「国民の覚悟に加えて、諸般の国内体制の完備に総力を集中すべき時」(朝日新聞)。  どこもかしこも対米強硬の笛や太鼓ではやしつづけていたわけです。


(2)①もう一話。  戦争に踏み切れと鼓舞したような東京日日の社説が載った一月後の11月26日、千島列島の単冠湾から南雲忠一中将指揮の大機動部隊が、(ハワイの)真珠湾めざして出撃していきました。  

②そして同じ日、京都では高坂正顕、高山岩男、西谷啓治、鈴木成高の座談会が行なわれていました。  当代きっての有識者の彼らは説いています。  (中略)

③そしていちばん最後に高坂正顕がいいきりました。

「人間は憤る時、全身をもって憤るのだ。  戦争だってそうだ。  天地と共に憤るのだ。  そして人類の魂が清められるのだ。  世界歴史の重要な転換点を戦争が決定したのはそのためだ」

④さてさて、(真珠湾を攻撃した)1941年12月8日、日本人はみんなほんとうに憤っていたのでしょうか、当時11歳のわたくしにはそうは見えなかった記憶があるのですが。』

これを読むと、メディアも政治家も有識者も間違うことがあるようです。  1月13日のブログで紹介したように、自分自身の「教養という座標軸」が必要ですね。  


3.同じく「余話と雑話・・・あとがきに代えて」の末尾に次のような記述があり、感銘を受けました。

『読書にはどんな種類の愉しみがあるのでしょうか。  その人その人によって、もちろん違うでしょうが、もし共通の愉しみがあるとすれば、おそらくおのれの知的好奇心の満足ということになるのではないか。

老躯となった自分(※半藤さんは1930年生まれ)の体験でいえば、人生は忙しく短し、そして面白そうな本はいっぱいある、と。  であるから、本書を手に取った読者の好奇心を100パーセント満足させる、そうであるようにできるだけ頑張るのは、まさしく歴史探偵の仕事なのです。  老齢なんか関係ありません。  それで長い長い「あとがき」になりました。』

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