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家康 その一言

精神科医の南條幸弘さんが書かれた『家康 その一言 ~精神科医がその心の軌跡を辿る~』(静岡県文化財団)を読みました。  抜粋し、番号を付けて紹介します。

『1.桶狭間の戦い(徳川家康は今川義元軍の先鋒であったが織田信長に敗れる)

①家康が死を覚悟したのはこの時(桶狭間の戦い)だけではなく、後述するように、その後も何度かあった。  神経質人間は悲観しやすい。

②しかし、本質は生の欲望が強く、死を恐れる。  だから、一旦もうダメだ死ぬしかないと思ってどん底の心理状態に陥っても、ダメでもともとやってみよう、と底を蹴って這い上がることができるのである。  

③そして、そのときには最大の能力を発揮することができるのだ。


2.三河一向一揆

①家康の家臣の一部が一向宗の寺から兵糧米を取ろうとしたり寺に逃げ込んだ人物を捕えたりする件があって、それが一揆の引き金になった。  家康の家臣たちの中にも一揆側につくものがいて、家康はその収拾に苦心する。  (中略)

②一揆側は首謀者を含めての免罪と寺々を以前のままにするように要求してきた。  家康としては首謀者だけでも成敗しようと考えていたが、一揆側に参加したとは言え、主君への忠誠と信仰の板挟みに悩んだ家臣が多いことに配慮して、家康は帰参した者たちに浄土宗に改宗するよう命じた上で寛大な処置を取った。  (中略)

③「殿は寛大すぎる」と反対する者もいた。  「私は少しも恨みはしない。  お前たちも本心に立ち返って忠勤に励むように」との家康の一言に、帰参した者たちは感涙したという。

④彼らはますます家康への忠誠を深めていく。  この我慢が信長や秀吉と大きく異なる点である。  命を救われ家臣たちの働きにより、やがてピンチがチャンスになるのである。


3.小田原攻め(関白・豊臣秀吉とともに北条氏を攻める)

①沼津では秀吉が少数の家臣とともにいる時期があり、井伊直政が家康に「今こそ秀吉を討つべき時です」と耳打ちしたが、「秀吉は私を信頼してきたのに、籠の中の鳥を殺すようなことはしないものだ。  天下を治めるのは運命によってであり、人間の英知の及ぶところではない」と諭したという。  (中略)

②谷川に細い橋が架かっていたが、(家康軍は)みな馬を下りて歩いて越えた。  家康も橋のところで馬を下り、供人に背負われて橋を渡った。  それを見ていた(秀吉方の先陣である)丹羽長重、長谷川秀一、堀秀政の部下たちは嘲笑ったが、三人は「これほどだとは思わなかった。  まさに海道一の馬乗りだ。  巧者は危ないことはしないものだ」と感心したという。  (中略)

③家康は家臣に対して「道の悪いところで馬から下りて歩くのは、馬術大坪流の極意の一伝である。  総じて少しでも危ういと思う所では馬は乗らないものだ」と語ったそうである。  無理をして馬の足を傷つけてしまったら戦で役に立たなくなる。  恰好を付けるよりも安全第一が家康のモットーだった。』

家康の神経質気質が、結果として260年続く徳川幕府を作り上げたのだと思います。

今年は強力な台風が多いですね。  くれぐれもお気を付けください。  徳川家康にならって神経質なくらいがちょうどいいかもしれません。

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セミコンタクトルールと実戦性

昨日は所沢市民体育館でセミコンタクトルール首都圏交流試合です。  閉会式で『セミコンタクトルールと実戦性』について話をしました。  補足して書いてみます。

1.セミコンタクトルールは実戦性が低いのか

最近、「セミコンタクトルールは今までのフルコンタクトルールに比べて実戦性が低いのではないか」という記述を目にしました。  私は「セミコンタクトルールは極めて実戦性の高いルールである」と考えています。


2.フルコンタクトルールの導入

①格闘技には空手のような打撃系格闘技と、柔道のような組技系格闘技があります。  実戦を考えた場合、打撃系格闘技の技術で最も有効なのは手による顔面攻撃と足による金的攻撃です。

②攻防の技術を高めることにおいて、試合形式の導入は欠かせません。  その場合、足による金的攻撃は安全性の観点から排除されることは当然です。

③極真空手の創始者である大山倍達総裁が、それまでの攻撃を当てない試合ルール(ノンコンタクトルール)を否定し、実際に当て合う直接打撃制ルール(フルコンタクトルール)を提唱しました。  ただし、素手で戦った場合の顔面攻撃はあまりにも危険であるため、手による顔面への突きは反則としたのです。

④今年で全日本大会は50回となりますが、それ以前の大山道場時代は手にタオルを巻いたりして、顔面を実際に当てる組手が行なわれていました。  私は47年前の第3回大会の年に入門しましたが、道場の組手では顔面への牽制や頭突きなどの技術が残っていました。


3.フルコンタクトルールの弊害

その後試合ルールが浸透する中で、手による顔面攻撃がないことを前提とした以下のような弊害が見られるようになってきました。

①手による顔面攻撃がないため、本来あるべき(相手との)間合いがまったく無視され、胸をつけ合うような間合いまで不用意に入って攻防が行なわれる。

②手による顔面への的確な攻撃やその防御に関する対応力が極めて低い。


4.セミコンタクトルールの導入

①顔面の攻防の試合形式については、素手で直前に留める「寸止め」と、グローブや面をつけて実際に叩き合う「直接打撃」が考えられます。  極真会館のように組織的に老若男女が試合に多数参加することを前提とすると、脳障害の予防などの安全面からは「寸止め」にすることが最良だと思います。

②6月に大阪で行われた、「セミコンタクトルール全国交流大会」に続き、2回目の試合でしたが参加選手の技術レベルが順調にアップしているように見えました。

③選手がフルコンタクトルールとセミコンタクトルールの両方の技術を磨くことによって、バランスのとれた打撃系格闘技の技術を身に付けることができると、昨日の試合を見ながら私は確信を持ちました。


5.私の抱く将来像

①将来的にはフルコンタクトルールとセミコンタクトルールと型の三部門で優勝するグランドチャンピオンが出てくることを期待しています。

②そしていずれ、WKFルール(ノンコンタクトルール)で行われるオリンピックの空手競技の金メダリストが、極真会館から出れば最高ですね。

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アリババ創業者の引退

ソフトブレーン創業者・宋文洲さんのメルマガ『論長論短』は、このブログで何度も紹介しています。  一昨日配信分のタイトルは『アリババの創業者が引退するが』でした。  抜粋し、番号を付けて紹介します。

『①9月10日は中国の「教師の日」です。  偶然にもこの日はアリババ創業者馬雲氏の誕生日です。  先日、54歳の誕生日に、馬雲氏はアリババ広報を通じて引退宣言を発表しました。  「満55歳の来年の今日に会社を引退する」と。

②しかし、当の馬雲氏は9月10日にロシアで54歳の誕生日を迎えました。  ロシアで開催される東方経済フォーラムに出席するためです。  このフォーラムに日本の安倍総理も出席しプーチン大統領と会談を行いました。

③翌日の11日、プーチン大統領がロシア菓子を食べていた馬雲氏を見つけて聞きました。  「馬雲さん、あなたはまだ若いのになぜ引退するのですか?」

④馬雲氏は答えました。  「大統領、私はもう若くないのです。  昨日ロシアで54歳の誕生日を過ごしました。  創業から19年間は確かにある程度仕事をしましたが、私には他にも大好きな仕事がたくさんあります。  例えば教育事業と公益事業などです。」

⑤「あなたは私より若い。  私はもう66歳ですよ。」  プーチン大統領は笑いながら拍手しました。

⑥馬雲氏が来年の誕生日にCEOを引退する時、アリババはちょうど20周年を迎えます。  たった19年間で杭州師範大学を卒業した英語教師の馬雲氏は時価総額4560億ドル(46兆円)の中国一位、世界七位の会社を作り上げました。

⑦馬雲氏の引退声明では「この決定は10年前から慎重に考えそして準備してきた。  私は受けた教育のお陰で教師になった。  今日に至って私は本当に幸運だった・・・  私にはまだ多くの夢がある。  教育に戻って好きなことをすることによって私は興奮と幸福に満ちるだろう。  私はまだ若い、他にも試したいことがある。」

⑧この引退声明に合わせてプーチン大統領との会話を吟味すれば馬雲氏は経営がそれほど好きではないことが分かります。  時代が彼をカリスマ経営者の座に押し上げたが、彼の内心は幸福ではなかったはずです。  天職の教育事業や好きな公益事業など、好きなことをやりたい気持ちは本物でしょう。

⑨スケールはまったく比較になりませんが、私も経営が好きではありませんでした。  偶然に始めたビジネスが時代の流れに乗って拡大していきましたが、「いつまでもこんなことをやりたくない」と自分の心が定期的に言っていました。  我慢していればそのうち好きになると思っていましたが、時間が経つに連れて好きになるどころか、引退したい気持ちがどんどん強くなっていきました。  (中略)

⑩私は42歳の時に経営から引退しました。  その時には既に最新の技術についていくのが苦しかったです。  頑張ればそれなりにできたのでしょうが、好きでもないことに執着するよりも、若い世代にバトンを渡したほうが自分のためにも日本の社会にもよいことです。

⑪若い世代の後ろに立ち、教育事業と公益事業に転換した馬雲氏は、中国の企業家達に良い手本を見せたのみならず、今まで以上に中国と世界に貢献してくれるでしょう。』

⑦の「教育に戻って好きなことをすることによって私は興奮と幸福に満ちるだろう。」という馬雲さんの言葉には感銘を受けました。

私自身の経験から言っても、「好きではないこと」を「努力する」より、「好きなこと」に「夢中になる」方が幸せですし、パワーと成果が出ます。

明日は審査会、今週末はセミコンタクトルール首都圏交流試合と続きます。  でも、涼しくなってきたので、だいぶ楽ですね。

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ストレッチとラジオ体操、特異性の原理

1.登山家・スキーヤーの三浦豪太さんが毎週土曜日の日経新聞夕刊に「探検学校」というエッセイを書かれており、私のブログでも何度か紹介したことがあります。  8月25日のタイトルは『体操とビル登り』です。  抜粋し、番号を付けて紹介します。

『①夏山シーズンになって、注目している体操がある。  登山の運動生理学の権威である鹿屋体育大学の山本正嘉教授が考えた、登山のための「山登りずむ」体操だ。  

②軽快なリズムに乗りながら登山をデフォルメした動きをこなす体操で、3分くらい続けると軽く汗ばむ。  最初はラジオ体操のつもりで面白半分にやっていたが、しっかりやると意外に難しい。

③片足でバランスをとりながら上半身を動かす。  リズムの変化や大きな動きがある。  ストレッチをしながら、体のバランスを保つポジションが求められる。  1つの動きに必ず複数の要素が絡むのだ。

④2カ月前に体力測定のため父の三浦雄一郎と僕が鹿屋体育大を訪れた際、「山登りずむ」について山本先生にいろいろと尋ねてみた。  先生がこの体操を考案するにあたって着目したのが、デュアルタスクと呼ばれる複数の動きを組み合わせた複雑な運動。  これによって、実践的な運動神経系を活性化することができるという。

⑤一般に、準備運動と称してひろく行われている筋肉を伸ばすことだけを目的としたストレッチは、けがの防止にほとんど役に立たないことがいくつかの研究から明らかになっている。  それよりも筋肉を動かし、血流の流れをよくし、筋肉をつかさどる神経を活性化するほうがよほど効果があるという。  

⑥「山登りずむ」はもちろん、従来の朝のラジオ体操も、単なるストレッチと比べてよほど実践的な準備運動だといえる。』

④の「デュアルタスクと呼ばれる複数の動きを組み合わせた複雑な運動。  これによって、実践的な運動神経系を活性化することができるという。」は私も意拳などの稽古を通して実感しています。

また、⑥の「従来の朝のラジオ体操も、単なるストレッチと比べてよほど実践的な準備運動だといえる。」には驚きました。  

トレーニング理論も日進月歩なので勉強しつづけなければなりませんね。

ちなみに、「山登りずむ」体操は「登山体操 山登りずむ」で検索すると動画を見ることができます。  参考にして下さい。


2.同じく9月8日のタイトルは『特異性の原理』です。  抜粋し、番号を付けて紹介します。
 
『(1)①(前略)僕はこの3カ月間、トライアスロンレース「HAYAMAN」に出場する息子のトレーニングにもつき合った。  9日に葉山で開催されるこのレースは、逗子の大人も子供も参加する地域の一大イベントだ。  

②水泳、パドルボード(サーフボードを両手でこぐ)、ランで構成されている。  走るだけなら伴走したり教えたりできても、泳ぎやパドルは僕の専門外。  

③その不足は、息子の通っている「トビウオクラブ」のコーチがほかの子供たちとの合同練習のなかで補ってくれた。  一緒に練習してみると、水泳と慣れないパドルで息が上がったあとに走るのは思ったより辛い。


(2)①トレーニングには過負荷、特異性、可逆性の3原理というものがある。  

②普段の身体活動よりもきつい負荷を加えなければ効果を得られない。  これが過負荷の原理である。

③トレーニングはその種類によって効果が異なり、鍛えた部位や動作にのみ効果があらわれる。  これが特異性の原理。

④トレーニングで得た効果はトレーニングをやめると失われる。  これが可逆性の原理。  


(3)①今回、僕は2つ目の「特異性」を強く実感した。

②水泳、パドル、長距離走はすべて登山と同じ持久系の運動だが、いずれも体力があればこなせるというものではなく、それぞれに特異性がある。  使う筋肉、技術、何よりも考え方に違いがあり、一筋縄ではいかない。  

③マラソンが速くても、高所登山ではゆっくり登るお年寄りに追い越される。  山では機敏に動ける僕が、泳ぎでは小学生に抜かれてしまう。  

④登山のために他のスポーツで鍛えるのもいいが、山に強くなるには小さな山でも登り続けることだ。  それが無理なら、荷物を持ってビルの階段を上り下りすることをお勧めする。』

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神風

1.8月7日のブログで日本史学者・呉座勇一さんのインタビューを紹介しました。  以下は、その中の一部です。  

『(太平洋戦争で)日本軍が奇襲を多用した背景の一つに、源義経が一ノ谷の戦いで見せた(断崖絶壁を馬で駆け下り、敵陣の背後を急襲した)『鵯越の逆落とし』があったと言われます。  『義経は奇襲で平家の大軍に勝った。  だからわれわれも、奇襲でアメリカに勝てる!』と思ったわけです。

しかし奇襲が上手くいったのは真珠湾攻撃など最初だけで、あとは連戦連敗でした。  実は最近の研究では、鵯越の逆落としは『平家物語』の創作で、事実ではない、と考えられている。』

歴史上の事実を誤解することの怖さを強調されていました。


2.今回取り上げるのは『奇襲』ではなく『神風』です。  『蒙古襲来と神風』(服部英雄著 中公新書)の『はじめに』から抜粋し、番号を付けて紹介します。

『①太平洋戦争が終わるまでは、大人も子供も「神風(かみかぜ)」を信じていた。  嵐による蒙古襲来(元寇)での勝利である。  無謀な戦争を、無批判に国民が支持しつづけた背景の一つに、この不敗神話があった。  戦争最優先の全体主義国家はあらゆる批判を許さなかったとはいえ、国民も戦争を終わらせようとは考えず、努力も行動もしなかった。

②国家の歴史認識の原点に「神風」があった。  領土の蒙古襲来、すなわち文永の役、弘安の役での敵国退散・防戦勝利に、「神風」なる摩訶不思議な言葉が付与され、その後、日本の宗教家・思想家・歴史家が、日本は神の国であるという大前提のもと、神風史観を順次形成していった。  (中略)

③神風史観によって、蒙古襲来は以下のように解釈された。  

『神風によって、蒙古が退散した。  つまり、二度とも神風が吹いて、元寇は決着がつく。  文永の役では敵は一日で引き返し、弘安の役では嵐によって、肥前鷹島に集結していた敵船が沈み、全滅した。』  (中略)

④神風史観によれば、必ず嵐(神風)がやってくる。  そして決着がつく。  ところが事実はさまざまに違う。

⑤文永の役についていえば、一日で敵が帰国した原因とされる嵐はその日、つまり赤坂鳥飼合戦があった文永11年(1274)10月20日には吹いていない。  (中略)

⑥つづく弘安の役では、確かに台風が来たし、じっさいに鷹島沖に船は沈んでいる。  (中略)  ただし鷹島に停泊していたのは全軍ではなく、旧南宋軍であった。  朝鮮半島の高麗を中心とする先遣部隊は博多湾にいた。  

⑦台風通過は弘安4年(1281)閏(うるう)7月1日。  その4日後の7月5日に博多湾・志賀島沖海戦、さらに2日後の7月7日に鷹島沖海戦があり、ともに日本が勝利した。  嵐・台風が決着をつけたわけではなく、その後にも合戦は継続されていた。  (中略)

⑧のちになって「神風」とされた大型台風は、日本の船も沈めている。  九州・本州を横断していったから、田畠にも人家・山林・港にも、甚大な被害を与えた。  怨嗟(えんさ)の嵐であって、それを当時の日本人が神風と呼ぶことはぜったいになかった。

⑨元や高麗に戻った将兵は、戦略ミスではなく嵐のために帰国したとして、敗戦の責任を逃れようとした。  大風雨被害は確かにあったが、より強調・誇張されていった。』


3.『終章』からも抜粋して紹介します。

『冒頭で、非科学的な神風思想が日本不敗神話を形成し、敗戦が決定的になってもなお戦争をやめることができず、犠牲者・損失が飛躍的に増え続ける大きな要因になったことを述べた。  (中略)  自殺攻撃をする神風特攻隊こそが、神風思想がもたらした悲劇の最たる象徴のように思われてならない。』

私も本書を読むまで、二度の元寇は嵐によって元の船が沈み、勝利したものだと思っていました。  

13世紀の事実についての誤解が20世紀の「神風特攻隊」を生んだわけです。

8月7日のブログで紹介した呉座さんの「歴史を物語として学んでしまうと、こういう大やけどをすることもあるのです」という一文がここでも胸に響きます。

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