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軍事を知れば日本史がわかる

前回のブログで、『日本史の内幕』(磯田道史著 中公新書)の中から次のような記述を紹介しました。

『日本がアメリカに戦争を仕掛けたときの、日米のGDP差は1対4.5。  工業力ではもっと差が大きかったから、これは無謀である。  (中略)  この島国(日本)の世界シェアに占める人口ピークは1700年、軍事ピークは日露~満州事変、経済ピークは購買力平価で中国よりGDPが大きかった1970~2000年頃でもう過ぎた。  そして、この国はもはや大国と軍事対決できる経済的実力はない。』

今回は『日本史のツボ』(本郷和人著 文春新書)の「第四回 軍事を知れば日本史がわかる」から抜粋し、番号を付けて紹介します。

『1.①まず軍事を大きく戦術、戦略、兵站の三つに分けることにしましょう。  個々の合戦や城郭のあり方、陣形の敷き方などに当たるのが戦術ですが、これはその時代の技術力と深く結びついています。  (中略)

②戦略はまさに政治、外交に近接しています。  たとえば戦争をするにしても、何のために戦うのか、誰とは戦い、誰とは同盟を結ぶなどして戦わずに済ませるのか、、どうやって終わらせるのか、といった問題に直面する。  これらはすべて政治問題であり、外交問題でもある。

③さらに兵站=ロジスティックスとなると、今度は経済と密接に関係します。  兵站とは一言でいえば「いかに兵隊さんを食わせるか」。  人を抱え、彼らに必要な装備を与え、十分に食べさせて養わなければならない。


2.①(戦争に)勝つために必要なものは何か。  これは古今東西を問いません。  第一は、敵を上回る兵力。  第二は優れた装備。  第三が大義名分です。  (中略)

②第二の優れた装備を整える上でも重要なのは経済力+情報力です。  これは戦国時代の鉄砲隊を考えればすぐわかります。  まず大量の鉄砲、弾薬を買い集める経済力と、そもそも鉄砲という新兵器の情報、その運用に関する知識などが揃って、はじめて大きな効果を発揮するわけです。  (中略)

③太平洋戦争の失敗は、第一の兵力、第二の装備を支える国力で、圧倒的にアメリカにかなわないことが分かっているのに、第二の装備を零戦や戦艦大和などの一点豪華主義で突破し、あとは奇襲などの戦術と、日本国民へのプロパガンダ=思想戦で乗り切ってしまおうと考えたことにあると思います。  (中略)

④その点では、「富国強兵」をモットーにした明治政府の方が、国を豊かにしなければ兵は強くならないという軍事の本質をきちんと踏まえていたといえる。  


3.軍事政権というと、いまの北朝鮮のように、あるいは戦争末期の日本軍のように、国民生活を犠牲にして、とにかく軍事力だけを増強するというイメージがあるのですが、本当に国を強くするためには、それでは駄目なんですね。  民を豊かにして、内政、外交に力を入れ、さらに軍事力を政治的にコントロールできなくては本当に強くはならない。  これが歴史の教訓なのだと思います。』


明日は午前中から審査会です。

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市村直樹支部長を偲ぶ会

1.①昨年5月19日に市村直樹が亡くなってから丸一年が経ち、昨日は「市村直樹支部長を偲ぶ会」が開催されました。  札幌在住の市村のお兄さん、城西OBの支部長、市村道場の黒帯など、全国から大勢の方々が出席して下さいました。

②お兄さんから「極真ファミリーは素晴らしい」との言葉をいただきましたが、私は「市村がみんなに慕われていたからこそ、これだけの人たちが集まったのだと思います」とお答えしました。  私は市村について、マイナスの評価を聞いたことがありません。  参加者全員が、生前の市村の生きざまに感銘を受けていたのではないでしょうか。

③かって代田橋道場生だった、福井・杉山・後藤にも三十数年ぶりに合うことができました。  これも、市村が作ってくれた縁です。

④会の最後に、市村が大好きだった矢沢永吉さんの曲とともにスライドが紹介されました。  そこに書かれていた市村からのメッセージが素晴らしかったので、動画を撮っていた田村悦宏からメールを送ってもらいました。  別途、森善十朗からもメールで入手しました。

⑤それを今朝のブログの目玉にしようと思っていたら、なんと菊澤院長に先を越されていました(笑)  フェイスブックの投稿時間は1時間前となっています。  さすが菊澤院長、まさに「機に発し、感に敏」ですね。


2.ということで、当初の目算が狂ったため、今日は『日本史の内幕』(磯田道史著 中公新書)の中の「全人類のなかで」の項から抜粋し、番号を付けて紹介します。

『①日本人口の世界シェアが最高になったのは、犬公方と呼ばれた徳川綱吉や赤穂浪士の元禄時代であって、この時、世界の20人に1人(5%)が日本人であった。  卑弥呼の時代は330人に1人(0.3%)しか日本人ではなかったのだから、よく増えたものである。  (中略)  現在は2%だが、西暦2100年には1%を切って、古墳時代の日本ほどにそのシェアを低下させると、予測されている。  (中略)

②アンガス・マディソンは、世界中の過去の国内総生産(GDP)推計で知られるが、江戸時代後期(1820年)の先進主要国のGDPを推計している。  それによれば、当時のアメリカのGDPを1とすると、日本のGDPはアメリカより経済大国で1.75倍、オランダは0.3倍、イギリスは2.8倍である。

③さすがに1850年になると、アメリカのGDPは日本の2倍近くに達するが、幕末日本は経済的にアメリカに対抗する力が十分にあり、武器はいくらでも買えたから、じつは、黒船ペリー艦隊は恐れるに足りなかった。

④ちなみに、昭和になって、日本がアメリカに戦争を仕掛けたときの、日米のGDP差は1対4.5。  工業力ではもっと差が大きかったから、これは無謀である。

⑤世界銀行は、2050年、中国・米国のGDPは日本の約8倍、インド・EUは約5倍になると予測している。  さてこの島国の世界シェアに占める人口ピークは1700年、軍事ピークは日露~満州事変、経済ピークは購買力平価で中国よりGDPが大きかった1970~2000年頃でもう過ぎた。

⑥そして、この国はもはや大国と軍事対決できる経済的実力はない。  経済の世界シェア=量が低下するならば、質を高めるしかなかろう。  小国化しても良質の「価値」を保つ国のあり方を研究しなくてはなるまい。』


3.同書の「安政地震下、江戸商人の日記」からも抜粋し、番号を付けて紹介します。

『①安政江戸地震が起きたのはペリーが再来航した翌年の安政2(1855)年である。  (中略)

②安政江戸地震は旧暦10月2日に起きた。  当日の記述はこうだ。  「二日。  晴天。  夜亥の刻、大地震。  同刻、出火」。  (中略)

③三日は「少し地震」、四日も「少し地震」、五日は「中地震」、六日は「少し地震」、七日は「酉の刻随分大地震、同刻過ぎまで地震少々ずつ二度震う」とある。

④首都直下型の大地震になれば、われわれも最低五日間は余震の連続に見舞われる。  その覚悟が必要ということであろう。』


危うく菊澤院長とネタが被るところでしたが、何とか切り抜けました(笑)


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パラダイム・シフトと世代交代

『ミライの授業』(瀧本哲史著 講談社)を読みました。  コペルニクスについて書かれた部分から抜粋し、番号を付けて紹介します。

『①コペルニクス(1473~1543)は、1000年以上にわたって信じられてきた「天動説(地球を宇宙の中心だとする説)」に対して、地球は宇宙の中心ではなく、太陽のまわりを回っているのだとする「地動説」を唱えた天文学者です。(中略)

②20世紀を代表するアメリカの科学史家、トーマス・クーンはコペルニクスの時代を丹念に研究した結果、驚くべき結論にたどり着きました。

③コペルニクスの地動説は、彼の死後1世紀あまり、ほとんど賛同者を得られなかった。  ニュートンの仕事(「万有引力の法則」など)も、主著『プリンキピア』が出てから半世紀以上、一般の支持を得られなかった。  ダーウィンの進化論だって、すぐに受け入れられたわけではない。

④それでは、こうした世界をひっくり返すような新説は、いつ、どのタイミングで、どのようにして受け入れられていくのか?  彼の結論は「世代交代」です。

⑤つまり、天動説を信じる古い世代の大人たちは、どれだけたしかな新事実を突きつけても、一生変わらない。  なにがあっても自説を曲げようとしない。

⑥地動説が世のなかの「常識」になるのは、古い世代の大人たちが年老いてこの世を去り、あたらしい世代が時代の中心に立ったときなのだ。  「世代交代」だけが、世のなかを変えるのだ。・・・・・・と、そんなふうに言うわけです。(中略)

⑦トーマス・クーンは、これを「パラダイム」という言葉で説明しました。  パラダイムとは、簡単にいうと「ある時代に共有された常識」といった意味の言葉です。(中略)

⑧そして古いパラダイムが、あたらしいパラダイムに移り変わる(パラダイム・シフト)ためには「世代交代」が必要である。  古い世代の人たちに世界を変える力はない。  世界を変えるのは、いつも「新人」なのだ。・・・・・・トーマス・クーンは『科学革命の構造』という著書のなかで、次のように結論づけています。

⑨「このようなあたらしいパラダイムの基本的発明を遂げた人は、ほとんど、非常に若いか、パラダイムの変更を促す分野にあたらしく入ってきた新人かのどちらかである」  「明らかに彼らは、通常科学の伝統的ルールに縛られることがなく、これらのルールはもはや役に立たないから外のものを考えよう、ということになりやすい」』

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運・鈍・根 その2 

1月28日のブログのタイトルは『運・鈍・根』で、渡部昇一先生の著書からの抜粋でした。  4月26日の朝日新聞夕刊の連載『一語一会』ではジャーナリスト・田原総一朗さんが、祖母の志げさんの教えである『運・鈍・根』を挙げていました。  番号を付けて紹介します。

『①東京12チャンネル(現テレビ東京)を辞め、フリーになった40代の頃、パナソニック創業者松下幸之助さんに尋ねた。  「役員に抜擢するとき社員のどこを見るのか」。  「経営の神様」は答えた。  「運だ」。  難題にぶつかるほど面白がる人間はどんどんやる、すると運が開ける、と。

②田原家は近江商人の末裔である。  幼い頃に聞いた祖母志げさんの教えを思い出した。  「運・鈍・根」。  要領よく立ち回るな、バカになって根気よくやれば運は呼び寄せられる。

③東京12チャンネル時代は危険なディレクターだった。  大学紛争最中の1969年に制作した「バリケードの中のジャズ」は「ピアノを弾きながら死ねたら本望」という山下洋輔さんの思いを知って企画した。  内ゲバに巻き込まれかねない早大構内で演奏会を開こうと持ちかけ、決行までの一部始終を追ったドキュメンタリーだ。  後発局だったから視聴者に振り向いてもらうにはNHKや他のキー局が放送しない危ない番組を作るほかない。  「スポンサーも自分で見つけ、やりたいことしかやらなかった」

④仕事を干された時期に原発について月刊誌に書いた連載で、反対派に対抗するための住民向け広報活動を電通が仕切っていると暴露した。  相手はテレビ局の生命線の広告を握る業界最大手だ。  そのころは触れること自体タブーだったという。  上司2人が処分され、幹部から「連載をやめるか、会社を辞めるか」と迫られて退職した。  77年のことだ。

⑤改めて電通への興味が募り、雑誌連載を思い立つ。  何誌かに断られ、週刊朝日で連載「電通」を始めたら案の定、抗議が来た。  先方の当時の専務と激論を重ねるうち相手が次第に軟化し、やがて理解してくれた。  「難題に取り組むのは好きですね」

⑥テレビ朝日系列の「朝まで生テレビ!」が始まって2年目の88年、昭和天皇が病に倒れて列島を自粛ムードが覆う。  編成局長に目をつぶってもらい、放送開始から40~50分後、新聞のテレビ欄のタイトルにはない「昭和天皇の戦争責任」にテーマを移して左右両翼の論客と討論した。

⑦「好きなことしかしないからストレスがない。  だから今も現役でやれるんです」。  まさに「運・鈍・根」である。(田中啓介)』

4月30日、内部試合の後にも同じような話をしました。  極真空手の修行も、空手道ですから、長い道のりを歩んで行くわけです。  上記②の志げさんの教えと同様に、終わった試合の結果に一喜一憂しないで(鈍)、あきらめずに稽古を続ければ(根)、きっと勝利の女神が微笑んでくれる(運)と思います。

「運・鈍・根」も私の信条の一つです。

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