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教養と修養

若いころ、直木賞作家で経済評論家の邱永漢先生・日本将棋連盟会長で元名人の米長邦雄先生・上智大学教授の渡部昇一先生の本をよく読みました。  三人とも物事の本質を分かりやすく解説する名手です。

ところが、2012年の5月に邱先生が、12月には米長先生が相次いで亡くなられました。  一方、86歳になった渡部先生は『実践・快老生活』(PHP新書)を先月出版されました。  「修養」について書かれた項から抜粋し、番号を付けて紹介します。

『①退職金をもらってから20年を超えたが、その間、まったく退屈ではなかった。  本を読む時間が増え、考える時間も在職時代よりかえって増えた。  (中略)  高齢者に適しているのは「人間学」だと思う。  「修養」といってもいいかもしれない。  人間学の中心になるのは古典や歴史だ。

②古典というものは何百年間も読み継がれてきたものだから、歳をとってからでも大いに参考になる。  (中略)  人生経験を積んだ高齢者こそ、古典を読めば、いろいろ考えさせられることが出てくる。

③何系統の古典でなければならないという決まりはない。  日本には儒教的な言葉も残っているし、仏教の言葉も残っている。  キリスト教の言葉もある。  神道の場合は言葉では語られていないけれども、神道的な考え方も残っている。  いずれも自分を磨くために役立つ。

④また、歴史に学ぶこともそうである。  組織の興亡を記録した歴史は、いうまでもなく人間学に直結する扉である。  歴史の中で繰り広げられる人間模様を知ることは、人間とはいかなるものかを理解するための、かけがえのないよすがとなる。

⑤ここで「教養」と「修養」の違いについて考えたい。  私には「教養」という言葉はどちらかというと青年向きの響きであるように感じられてならない。  (中略)  若い人に対しては「教養を高めよう」でいいかもしれないが、高齢者に「教養を高めよう」というのは、どうもしっくりこない。  年齢に関係なく自分を磨き、自分を高めることは大事だから、やはり「修養」や「人間学」という言葉を使うべきではないか。

⑥実際に、政治家やジャーナリストなど社会の先頭に立って活躍すべき人々の中でも、残念ながら「人間としてなっていない」と表現せざるをえない例を散見する。  変な言い訳や、取り繕い、責任回避などばかり重ねる人は、みっともないことこのうえない。

⑦学者やジャーナリストが政治家に転身した場合、さすがに「教養がない」とはいいがたい。  しかし、まったく人間を磨いた跡が見られないのだから「修養がなっていない」とはいいうるであろう。  そして、そちらのほうが致命的なのだとも。

⑧様々な読書や勉強を通じて、教養を高めることが大切なことはいうまでもない。  だが、それ以上に大事なのは、人としていかに生きるかという心構え、覚悟を知ることではなかろうか。

⑨そのために必要なのが「修養」であり、「人間学」なのである。  そしてそれは、歳を重ねてからもますます大切になってくる。  「修養」は不滅である。  人間学を学んで修養を積んでいる人は、いつまでも衰えない。』

20代の頃、渡部先生が書かれた『知的生活の方法』を読んで感銘を受けたことを思い出します。

渡部先生に直接お目にかかったことはありません。  著書を通してしか知りえませんが、二十数年人生の先を行かれる渡部先生のような存在は、私にとってはとても貴重です。

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「運」を育てる

1.麻雀のプロである土田浩翔さんが書かれた『「運」を育てる』(KADOKAWA)を読みました。   「まえがき」から抜粋し、番号を付けて紹介します。

『①「運」とは何か?  「運」を知る前の私は、データ収集と分析に熱中していました。  〝数字〟を突き詰めていけば、麻雀を解き明かすことができると信じていたのです。  とても愚かでした。

②運命の出会いがあり、「運」の動きに気づきました。  その日から見えない「運」を感じたいと思いました。  感じるためには〝気づきの量〟を増やしていく必要があり、日常生活から自分を見つめ直しました。

③「運」の動きに気づいてからは、自分を変えたいと思いました。  そのためには〝認めたくない自分〟を受け入れる必要がありました。  

④「運」を育てることは、「心」を育てることにつながっていきました。  「運」と向き合い、自分の目指すべき〝道〟が見えてきました。

⑤人との勝ち負けよりも、自分の内面との闘いに勝ちたいと思うようになりました。  そして「運」を磨いていくための精神を伝えていきたいと思いました。  

⑥「勝つこと」よりも「克つこと」が大切なんだと気づいたのです。』

上の⑥について、「真のコミュニケーションを築く」の項で解説されているので、併せて紹介します。

『①勝つ人がいれば、負ける人もいるわけで、4人で打っている以上、負けることなんていくらでもあるわけです。  そうなると何に対して負けたのかということになっていきます。

②目に見えている点棒や着順など勝ち負けの基準ではありません。  「自分自身に負けないようにしよう」  これが勝ち負けの基準です。

③自分に負けたときが負けで、相手に負けたことは負けではないのです。  麻雀の本質はそこにはありません。

④自分を育て、高めてくれるのが麻雀の本質です。  相手と競い合うゲームとして捉えてしまうと虚しいだけなのです。』 

極真の試合も同じだと思います。  トーナメントでは優勝者以外は必ず試合に負けます。  でも、負けたからといって全て価値がないかというと、そうではありません。  

「苦しくて途中であきらめた」「相手を過小評価し、油断して技ありを取られた」など自分自身に負けた場合は「負けた」と言ってもいいでしょう。  

しかし、「判定では負けたけど、強い相手に対してひるまずに立ち向かった」「本戦の終盤で苦しくなったけど、我慢して延長戦に持ち込んだ」「下段蹴りを効かされたけど、最後まで倒れなかった」などといった場合には「克った」と言えると思います。


2.「打ち砕かれたデータ分析」の項からも抜粋し、番号を付けて紹介します。

『①少しばかり天狗になっていたある晩。  あるお客さんから「麻雀は勝負だよ、おまえの麻雀はよくできているけどひ弱だ。  一晩、俺の後ろで見てろ」と言われたのです。  日々勝っているのに、何をいまさらと思ったのですが、目からウロコが落ちました。

②その人の麻雀は〝心理を突く麻雀〟でした。  アガリ牌の待ち方も、理屈で考えられない待ち方をするのです。  両面待ちになるところをあえてカンチャン待ちにしてリーチ。  すると河が、自然に待ち牌が出やすくなるように変化し「これはないだろう」なんて言いながら誰かが切った牌に「ロン」の声。

③相手は予測不可能なことに遭遇し、心が揺らぎはじめていくのです。  一旦揺らぎはじめたらもう自由自在。  普通に手牌を進めていても、相手は勝手に疑心暗鬼になっていき、しまいには恐怖心を抱くようになっていくのです。  (中略)

④データを突き詰めていけば麻雀を解き明かすことができる、と信じていた自分が恥ずかしくなりました。』

麻雀用語を知らない方には分かりにくいかもしれませんが、空手でも十分に通じる内容だと思います。  極真の試合も、その本質は肉体・頭脳・心理の総力戦ですから。

余談ですが、うちのカミさんは今日も昨日に続き麻雀に出かけました(笑)  でも、年を取ってから、大好きで打ち込めるものがあるのは素晴らしいことだと思います。  今回紹介した本も、カミさんが観ていたテレビの麻雀番組で紹介されていたので購入しました。  


  

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無私の日本人

1.歴史学者の磯田道史さんが書かれた『無私の日本人』(文春文庫)を読みました。  磯田さんは映画化された『武士の家計簿』の著者です。  本書も『殿、利息でござる!』という題名で今年映画化されました。  「あとがき」から抜粋し、番号を付けて紹介します。

『①いま東アジアを席巻しているのは、自他を峻別し、他人と競争する社会経済のあり方である。  競争の厳しさとひきかえに「経済成長」をやりたい人々の生き方を否定するつもりはない。  彼らにもその権利はある。

②しかし、わたしには、どこかしら、それには入っていけない思いがある。  「そこに、ほんとうに、人の幸せがあるのですか」という、立ち止まりが心のなかにあって、どうしても入っていけない。

③この国には、それとはもっとちがった深い哲学がある。  しかも、無名のふつうの江戸人に、その哲学が宿っていた。  それがこの国に数々の軌跡をおこした。  私はこのことを誇りに思っている。

④この国にとってこわいのは、隣より貧しくなることではない。  ほんとうにこわいのは、本来、日本人がもっているこのきちんとした確信が失われることである。

⑤地球上のどこよりも、落とした財布がきちんと戻ってくるこの国。  ほんの小さなことのように思えるが、こういうことはGDPの競争よりも、なによりも大切なことではないかと思う。  (中略)

⑥時折、したり顔に、「あの人は清濁あわせ飲むところがあって、人物が大きかった」などという人がいる。  それは、はっきりまちがっていると、私は思う。  少なくとも子どもには、ちがうと教えたい。

⑦ほんとうに大きな人間というのは、世間的に偉くならずとも金を儲けずとも、ほんの少しでもいい、濁ったものを清らかなほうにかえる浄化の力を宿らせた人である。

⑧この国の歴史の中で、わたしは、そういう大きな人間をたしかに目撃した。  その確信をもって、わたしは、この本を書いた。』


2.10月9日のブログで、2冊の本を紹介して、「今の日本に暮らしていることがいかに幸せか分かります。」と書きました。

私がいつも読ませていただいている『伊勢-白山 道』というブログの11月14日にも次のような記述がありました。

『今の日本に生まれた恩恵とは、この命の流れを冷静に大きな視点で理解し、今の自分の人生に生かせることが可能な環境だということです。  これが紛争の最中の国では、こんな大きな視点を持てないのが人間でもあります。  それどころでは無いからです。』

今の日本に暮らしていることは、本当にありがたいことだと思います。


3.11月10日付けの本郷孔洋先生のメルマガから抜粋して紹介します。

『シリコンバレーから、ハイテク企業の営業マンがやって来た。

営業マン「これが当社の開発した、仕事促進装置です。」

社長「どういう仕組みなんだ?」

営業マン「外見はただの箱ですが、中には2枚のチップが入っています。  1枚はICチップです。  箱を開けると特殊な電磁波が出て、人間を仕事に向かう気にさせるのです。」

社長「そりゃいい。  仕事をしない社員のデスクに置こう。」

営業マン「それはうってつけですね。」

社長「しかし、この箱を開けてくれるかどうかだな。」

営業マン「ご心配なく。  そこでもう1枚のチップが必要なんです。」

社長「ICチップか?」

営業マン「いいえ、普通のポテトチップです。」
                                (週刊新潮より)』









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第48回全日本大会

11月5・6日は第48回全日本大会でした。  城西支部から6人の選手が出場しました。  気付いたことを書いてみます。

①加賀健弘(ゼッケン24番)・・・4回戦でアショット・ザリヤン選手(第5位入賞・ロシア)に本戦判定負けし、初のベスト8入りはなりませんでした。  今年のウェイト制大会では相手選手の正面に立ち続け、結果として下段廻し蹴りで足を効かされてしまいました。  今回は間合いを外したり、横にずれたりして、工夫の跡が見られました。  3回戦ではニキータ・ガラス選手(カザフスタン)から下段廻し蹴りで一本勝ちするなど技の威力も増してきています。  4回戦では、171センチ・78㎏の加賀に対して、アショット選手は170センチ・75㎏とほぼ同体格ですが、パワー負けしたように感じました。  私が指導する週2回の朝練で見る限り、ケガと病気が多く、稽古量を多く積めないのが気にかかります。  体のケアに気を使い、まずはアショット選手を凌駕するような実力(技・パワー・スタミナ)を付けてもらいたいと思います。

②竹岡拓哉(ゼッケン33番)・・・3回戦で石塚悠太郎選手に上段前蹴りで技ありを取られ、判定負けしました。  今年のウェイト制大会でも対戦しましたが、そのときは竹岡が足掛け下段突きで技ありを取って勝っています。  今回は逆に石塚選手にリベンジを許す形になりました。  ウェイト制大会・軽重量級で2年連続準優勝しており、実力は安定してきていますが、全日本大会では中々ベスト8に手が届きません。  何が足りないのか、自分自身でよく考え、答えを出す必要があります。

③桑瀬隼也(ゼッケン57番)・・・3回戦で荒田昇毅選手(第4位入賞)に三日月蹴りで一本負けしました。  しかし、6月のウェイト制大会(軽重量級ベスト8)、9月の横浜カップ(準優勝)と急速に力を付けてきたように感じます。  構えが若干立ち腰気味なのがちょっと気になりますが、筋力・柔軟性などに素晴らしい素質を持っています。  先輩である森善十朗や鎌田翔平のように、観客を魅了するような選手を目指して稽古に励んでもらいたいと思います。

④石崎恋之助(ゼッケン96番)・・・3回戦で大澤佳心選手に試割り判定負けしました(19枚対20枚)。  正拳・足刀・猿臀まで同数でしたが、最後の手刀で大澤選手6枚に対して恋之介の申告枚数が5枚です。  一昨年のウェイト制大会・軽重量級決勝の竹岡のケースと同じです。  優勝した中村昌永選手が7枚申告し、竹岡の申告枚数は6枚でした。  そのときのブログで、「相手の失敗を待つようなあり方に勝利の女神が微笑んでくれなかったような気がしないでもありません」と書きました。  今回も、相手の枚数が分かるのですから、少なくとも同数の6枚を申告すべきでした。  そこで失敗したのなら、それはそれであきらめがつきます。  過去にも書きましたが、第二の黒澤浩樹(第16回大会チャンピオン)になれる可能性を秘めています。  そのためには脚力がまだまだ足りません。  もし私が恋之介なら、かって大西靖人(第15回大会チャンピオン)や黒澤がやったように、徹底的にスクワットをやり込むのですが。  いずれにしても、今年のウェイト制大会・軽重量級優勝の勢いのまま、ベスト8の壁を突破するのではと予想していただけに残念です。

⑤ルモワンヌ・ファビアン(ゼッケン102番)・・・1回戦でブセボロド・ブセボロドフ選手(ウクライナ)に本戦判定負け。  今年7月の全関東大会で準優勝した際に、相手の蹴りを捌いてからの足掛け下段突きが効果的でした。  ただ、今回はそれにこだわり過ぎたような感じがします。  そのため、捌ききれずに抱え込みの注意を2回取られ、本来の戦い方ができなかったと思います。  もう1回注意を取られると減点1ですから、注意2の後は捌きにいきづらくなるわけです。  意識して捌きにいくのではなく、体に染みついた捌きの技術が無意識に出るように、日ごろから訓練しておかないと、大きな試合で、なおかつ強い相手に対しては使えません。  

⑥鎌田翔平(ゼッケン128番)・・・6月のウェイト制大会・重量級決勝と同じく、高橋佑汰選手との対戦で、今回は左上段廻し蹴りの技ありを取り、ウェイト制大会に続く優勝となりました。  ウェイト制大会後のブログでも書きましたが、今年からの新ルールが翔平の身体能力にぴったり合っていることが、また実証された結果となりました。  決勝までの7試合のうち、減点2で失格となった谷川聖哉選手との準々決勝以外は全試合で技ありか一本を取りました。  内容的にも素晴らしかったと思います。  富山支部から移籍してきて10年の成果が出ました。  翔平は体が強く、ケガや病気で休むということが、ほとんどありません。  東京城西支部を開設してから38年が経ちますが、今までで一番稽古量を積んできた選手だと思います。  逆に、あれだけの素質があって、あれだけ稽古して、今まで勝てなかったのが不思議なくらいです。  私の指導力が足りないからではないかと、悩んだこともありました。  しかし、今年は従来からの山田・阿曽・山辺の他に森善十朗が指導陣に加わり、菊澤院長には体のケアをしてもらい、池田支部長には週1回マンツーマンで稽古をつけてもらっていました。  もちろん、常に声援を送り続けてくれているお父様や浜井師範・山口師範代を始めとする富山支部の方々の存在も大きかったと思います。  お世話になった皆さんには心から感謝します。  

第15回大会・大西靖人、第16回大会・黒澤浩樹、第22回大会・増田章、第24回大会・田村悦宏、に続く第48回大会・鎌田翔平です。  24回大会のダブルスコアの48回大会で、城西から実に24年ぶり5人目の全日本チャンピオンの誕生です。

でも、今年のアメリカ大リーグのワールドシリーズに勝ったシカゴ・カブスは、なんと108年ぶり3回目のワールドチャンピオンです。  上には上(もしかしたら下には下?)がいるな~(笑) 

ショ~ヘイ、本当におめでと~!  感動をありがと~!

   

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