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2016.07.24 Sun
『靴下バカ一代』
先日、渋谷のマークシティー2階にある『靴下屋』で靴下を買いました。 『靴下屋』を全国展開するタビオ株式会社(東証2部上場)の会長・越智直正さんが書かれた『靴下バカ一代』(日経BP社)を読みました。 「一生懸命に頑張っていれば、仕事があなたを守ってくれる」の項より抜粋し、番号を付けて紹介します。
『①「一生一事一貫」という言葉があります。 一生を通じて、一つのことを貫き通すという意味で、僕は靴下でこれを実践してきました。 経営者は自分の商品にほれすぎたらいかんのですが、僕は取りつかれてしまいました。 ええ靴下を作りたいという一心でね。 銭儲けではなく、趣味に行き着いてしまったんです。
②なぜ靴下だったのか。 ほかに能があったら、靴下なんかやっていないよ。 たぶん高等学校を出ていたら僕は靴下屋になっていない。 僕が男前だったら映画スターになっとるし、声が良かったら歌手になっとる。 靴下に出会い、結果として靴下と40年、50年と付き合っている。 それ以外に才能がないだけのことよ。
③自分で職業を選ぶのではない。 僕の場合、靴下が僕を指名したと思う。 僕は靴下業界に入るなんて全然思ってもいなかったし、靴下問屋に丁稚奉公に行くと知ったのは大阪に出てくる1週間前です。 学もないし靴下のことしか知らん。 僕には選択肢はなかったわけです。
④職業というのはみんなそうだと思う。 僕がそれに気づいたのは40歳くらいのとき。 ベートーベンやモーツァルトだって、ほかに能力がないからその分野に打ち込んだんちゃうやろか。 歴史上の人物はたいがい一つのことをやっているのと違うかな。
⑤一流の製品で世界一になる。 それが丁稚の頃からのたった一つの夢です。 あとは何にもありません。 僕は植木みたいな人生です。 そこに植えられたからにはそこで育たないとしょうがない。
⑥これだけ長い間やっていても、まだまだ課題があるもんやから、頭が靴下でいっぱいになりまんねん。 70歳を超えても好きなことをしよるというのは幸せなことです。
⑦靴下の導きのままに、僕の人生を生きてきました。 才能がなくても一生懸命に頑張っていれば、仕事があなたを守ってくれる。 安心して仕事に自分のすべてを任せればええんです。』
7月2日のブログで紹介した『叙々苑』の創業者の新井泰道さんも、中学卒業後、東京に出て最初に働いたのが焼肉屋でした。 職業の選択というのは、そういうものかも知れませんね。
でも、『靴下バカ一代』って『空手バカ一代』のパクリ?(笑)
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2016.07.19 Tue
第24回全関東大会
昨日は第24回全関東大会でした。 城西支部の入賞者について感想を書いてみます。
①諸岡幸乃(小学1年生女子の部・優勝)・・・気迫が感じられる安定した試合内容でした。 上段蹴りの精度(どんな技から上殿蹴りへつなげるか、どんなタイミングで蹴るか、右の蹴りばかりでなく左の蹴りが蹴れるか、上段の前蹴りをどう蹴るか)が上がれば、もっと強くなると思います。
②中水流 梨央(小学4年生女子の部・優勝)・・・相撲で言えば横綱相撲(まったく危なげない勝ち方)です。 上段蹴りの後や、前蹴りで転倒させた後の残心も決め、新ルールにも巧く対応していました。 先週の竹岡先生のブログを見たら、日曜午前中の稽古にもお父さんと一緒に参加していました。 そのような稽古熱心さは、試合における実績とともに、城西少年部のお手本になると思います。
③亘桜子(小学6年生女子+40kg級・第3位)・・・急速に力を付けてきたな、という印象を持ちました。 体の柔らかさを活かした上段蹴りも有効でした。 難を言えば、攻撃や防御の際に若干バランスが崩れがちな所です。 そこが修正できれば、優勝も十分狙えると思います。
④ 岡部慎太郎 (中学2・3年生+55kg級・第3位)・・・準決勝で、今年の国際親善大会の優勝者で、今大会でも優勝した一学年上の選手に負けました。 試合を遠くから見たのですが、内容的にはさほど差がないように感じました。 突きの威力で言えば、慎太郎の方がまさっていたようにも見えました。 ただ、優勝した選手は、攻撃のアグレッシブさやラッシュの掛け方など、審判にアピールするのが上手でした。 そのような点は、今後見習っていくべきだと思います。
⑤中水流 嘉臣(壮年35歳以上39歳以下男子-80kg級・優勝)・・・今回も親子優勝です。 中水流さんの持ち味であるパワーとスタミナが活かされていました。 特に最後の、膝蹴りを交えたラッシュが効果的でした。 今後、前蹴りや廻し蹴りの捌きからの「足掛け下段突き」など、新ルールへの対応ができれば、もっと楽に勝ち上がれると思います。
⑥森根亮(一般新人戦の部・準優勝)・・・突きと下段廻し蹴りを中心とした組手で、粘り強く勝ち上がりました。 決勝戦はパワー負けした印象です。 フィジカルの三要素、つまり技とパワーとスタミナのすべてを向上させ、もっと上の試合を目指すようトレーニングに励んでもらいたいと思います。 先日の支部内部試合でも大学同好会の選手が活躍しましたが、同好会のメンバーの中から、是非、全日本大会に出場する選手が出てくるよう希望します。
⑦青柳海花(一般女子-55kg級・優勝)・・・上段蹴りや膝蹴りを中心とした技術レベルには見るべきものがありました。 今後はウェイトトレーニングによるパワーアップと突きの強化が望まれます。 青柳が大学入学前に在籍した淑徳巣鴨高校はフルコンタクト空手道部のレベルが高いことで有名です。 顧問の大崎芳樹先生は、今から30年以上も前の大学生時代に、城西支部・代田橋道場の生徒でした。 ありがたいご縁を感じます。
⑧ ルモワンヌ・ファビアン(一般選手権・準優勝)・・・長い間稽古に励んできた成果が徐々に出始めました。 準決勝も再延長まであきらめず、粘り勝ちしました。 特にリーチを生かした、突きと膝蹴りが効果的です。 また柔道経験者のファブには新ルールの「足掛け下段突き」が追い風となりました。 序盤戦で、蹴りを捌いてからの「足掛け下段突き」で技有りを取ったので、見ていた次戦以降の対戦者が廻し蹴りや前蹴りを出せなくなっているように感じました。 今後は、下段廻し蹴りを含めた廻し蹴りの軸足を、カウンターで刈ることを研究したらいいのではないかと思います。
ここ数年、少年部の強化に取り組んできました。 以前の関東大会では初戦を勝ち上がれない選手がほとんどでしたが、1回戦・2回戦と複数回勝ち上がる選手も増えてきました。
しかし、他支部の多くの選手達も、一生懸命、日々の稽古に励みながら、優勝・入賞目指して参加してきています。 ですから、優勝・入賞することはそんなに簡単なことではないと思います。
大事なことは、試合結果ではなく、今回の試合内容が前回より、少しでも上回っているかどうかです。 その長期間にわたる積み上げの上に、入賞・優勝があるわけです。
そして、最も大切なことは、絶対あきらめずに「勝つまで稽古し続けること」だと思います。 その点を、今大会のファブ先生の試合ぶりと結果を見て、再認識しました。
チーム城西の次のチャレンジは、8月・京都の「極真祭」です。
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2016.07.10 Sun
戦略は歴史から学べ
『戦略は歴史から学べ』(鈴木博毅著 ダイヤモンド社)を読みました。 抜粋し、番号を付けて紹介します。
1.「10倍のペルシャ軍と戦う、ギリシャ世界最大の危機」の項より
『①軍隊における数的有利は直接戦力の増大につながります。 しかし実際には、兵力で劣っていたギリシャ連合が、マラトンの戦い(紀元前490年)とサラミスの海戦(紀元前480年)で勝利しています。 これは、強みがあるだけでは勝てないことを歴史が証明しているともいえます。
②ギリシャ連合がペルシャ軍に正面から攻撃を仕掛けたり、アテネで籠城すれば、圧倒的な大軍のペルシャ軍に悲惨な敗北を喫したでしょう。 逆に、数で優位なペルシャ軍が敗北したのは、大軍の強みを活かした戦い方ができなかったからです。
③勝利は単なる強みではなく、「強みを活かせる状況づくり」にかかっているのです。』
極真の試合でも、自分よりパワーのある相手と戦うとき、②にあるように、正面から攻撃を仕掛けたり、籠城(フットワークを使わずにその場にいつく)すれば、悲惨な敗北を喫するはずです。
2.「敵の防衛力が高い場所を、一貫して避けながら速攻で勝つ」の項より
『①第一次世界大戦で三年間の膠着と膨大な犠牲を払った西部戦線は、ヒトラーと(参謀の)マンシュタイン、ドイツ戦車部隊と爆撃機の電撃作戦で、六週間で完全勝利(1940年6月22日のパリ占領)を迎えたのです。
②ドイツ軍のフランス攻勢は、一貫して三つのことを目指し完勝を成し遂げました。
⑴敵の抵抗がない所から突入する
⑵防御の固い要塞は側面か後背、上空から攻略する
⑶速攻により敵が対応できない間に勝負を決する』
②の⑴~⑶は、極真の試合で勝つために重要な戦略そのものです。 言い換えると、
⑴相手がカウンターや受け返しをしにくい所から攻撃する
⑵防御の固い相手には側面や後背、上空(跳び技や捨て身技)から攻撃する
⑶速攻により相手が対応できない間に勝負を決する
なぜか、今年のウェイト制大会での加賀の試合を思い出しました。 「加賀、やっぱり、“蝶のように舞い、蜂のように刺す”だろ~(笑)」
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2016.07.02 Sat
焼肉革命
叙々苑の創業者・新井泰道さんが書かれた『焼肉革命』(角川新書)を読みました。 新井さんは1942年神奈川県横須賀市生まれです。 抜粋し、番号を付けて紹介します。
『①貧しい少年時代を過ごしていた私は、早く家を飛び出して自由になりたいと思っていました。 それを見かねた叔母が「東京で働かないか」と勧めてくれたのは、私が中学を卒業する、少し前のことです。 (1958年)当時、進学組と就職組では、就職組の方が多かったのです。
②私は、二つ返事で行くことに決めました。 父親に一応相談すると、「板前はいいぞ、包丁をトントンやっていれば金がもらえるのだから。 楽だぞ」と言われました。 それほど子どもの教育には無関心だったのです。
③私が向かったのは、新宿にあった焼肉屋「明月館(戦後すぐの1946年に、東京で最初の大型の焼き肉店として開業)」です。 当時は、焼肉屋自体が珍しい時期でした。
④住み込みで1カ月3000円の給料をもらいましたから、いま考えれば恵まれていたのかもしれません。 すし屋で1500円、そば屋で500円というのが給料の相場でした。
⑤その代わり、よく働きましたね。 朝は8時前に起こされて、顔を洗って、歯を磨いて、8時には厨房に立っていました。 私の仕事は、器を全部、洗って湯通しすることから始まりました。
⑥仕込みが一段落するころにはランチタイムになり、それから夜の11時までほとんど休憩なしに働くのです。 1日の労働時間は15時間、いまなら、問題になるでしょうが、当時はそれが当たり前でした。
⑦休みは月に2日です。 といっても、ゆっくりはしていられません。 住み込みで自分の部屋があるわけではありません。 いつも、2階の客間に布団を敷いて寝ていました。 休日といえども、いつも通りに起きて、店が終わるまで外で過ごさなければならないのです。』
昨日は朝練を早めに切り上げて、いつもの出席メンバー(鎌田・竹岡・加賀・石崎)と桜上水の「叙々苑」に行きました。 お土産の叙々苑弁当はカミさんに大好評でした。
また、新宿駅から近い「明月館」にも大会の後など、よく行きます。 昨年の世界大会後も選手・セコンドのみんなと行って、一杯やりました。 新井さんは「2階の客間で寝ていた」とのことですから、60年近く前、去年入った2階の個室あたりで寝られていたのかもしれません(笑)
明日は内部試合です。 選手の皆さんが、日頃の稽古の成果を充分に発揮されることを、祈っています。
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