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正常性バイアス

経済産業省の官僚で批評家の中野剛志さん、脳科学者の中野信子さん、評論家の適菜収さんの対談集『脳・戦争・ナショナリズム』を読みました。  『正常性バイアス・・・自分だけは生き残るという思い込み』の項から抜粋して紹介します。

『中野信子・・・しかし、なぜ人間は妙な意思決定をする人物をリーダーに選んでしまうのか?  太平洋戦争を考えても、辻政信や瀬島龍三(ともに陸軍作戦参謀)の部下たちが絶対的に「この人に従っていれば大丈夫だ」と思っていたわけではないでしょう。  
 参謀本部にいたエリートたちも優れた知能の持ち主でした。  「ここで突っ込むと絶対に負けるだろうな」と分かっていなかったはずはない。  気づいていながらも引き返せず、地位にしがみつき、そして大破局がやってきたわけです。  長期的な視野に立っての意思決定ができなかったのは、一体なぜなのか。

中野剛志・・・(前略)私は官僚なので、どのような心理が働いたのか、なんとなく分かります。  長期的には、この政策は失敗するかも知れない。  だけど断定はできない。  ましてや集団で行う政策であれば、失敗に帰したとしても、その責任を自分一人でかぶる確率は非常に低い。
 一方で、今、自分がそれに反対しても、ほかの皆が同調してくれる確率は低く、むしろ反発を買う可能性が高い。  そうであるならば、その政策を支持するか、あるいは黙っていますよ。  そして、失敗に帰するかもしれないという自分の予感が外れるほうに賭ける。  役人、というか組織人というのはそういうものなのです。

中野信子・・・(前略)そうした行動は「正常性バイアス」と呼ばれるものです。  いずれ誰もに降りかかる破局がやってくることは明らかなのだけど、「自分だけは助かるに違いない」と思う方向にバイアス(考え方などが他の影響を受けて偏ること)がかかってしまう。
 とくに大災害の時はえてして正常な判断力を失ってしまう。  避難警報が出ていても「大したことないだろう」 「ここで慌てて逃げるのはカッコ悪い」という方向に脳のメカニズムが働いて、その場かぎりのの対応をしてしまう。  (中略)
 ただ、この正常性バイアスが集団になったとき発動すると、誰もが「俺は大丈夫」と思ってしまうために、とんでもない帰結を生んでしまう。』

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名こそ惜しけれ

1.2月14日(日)の夜、NHKで『司馬遼太郎思索紀行「この国のかたち」第2集』を観ました。  テーマは「“武士”700年の遺産」でした。   番組ホームページから内容を抜粋し、番号を付けて紹介します。

『①日本、そして日本人とは何か?  作家・司馬遼太郎の作品『この国のかたち』を通して、現代の日本人へのメッセージを読み解くシリーズ。

② 第2回のテーマは、“武士”。  司馬が注目したのは、鎌倉時代の武士が育んだ、私利私欲を恥とする“名こそ惜しけれ”の精神だった。  それは、武家政権が拡大する中で全国に浸透、江戸時代には広く下級武士のモラルとして定着したという。

③そして幕末、司馬が「人間の芸術品」とまで語った志士たちが、この精神を最大限に発揮して維新を実現させた。  明治時代に武士が消滅しても、700年の遺産は「痛々しいほど清潔に」近代産業の育成に努めた明治国家を生みだす原動力となった。

④それが続く昭和の世に何をもたらし、どのように現代日本人へと受け継がれたのか-?  「名こそ惜しけれ、恥ずかしいことをするな」。  グローバリズム礼賛の中で忘れ去られようとしている日本人独自のメンタリティに光を当てる。』


2.関連した文章をネットで見つけました。  抜粋し、番号を付けて紹介します。

『①(前略)ヨーロッパ人からみると、日本人には倫理がないということになります。  もちろん全くそんなことはありません。  

②ひとことで言うと「名こそ惜しけれ」という言葉になります。  よく坂東武者が使う言葉ですが、これは自分という存在そのものにかけて恥ずかしいことはできないという意味であります。  

③おそらく今後の日本は世界に対していろいろなアクションを起こしたり、リアクションを受けたりすることになります。  そのとき、「名こそ惜しけれ」とさえ思えばいいですね。  ヨーロッパで成立したキリスト教的な倫理体系に、このひとことで対抗できます。』(司馬遼太郎全講演4 朝日文庫)


『名こそ惜しけれ』・・・久しぶりに気にかかる言葉でした。  早速、いつも携帯している手帳にメモしました。


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現象を見るか、意図を読むか

2016年の第33回全日本ウェイト制大会から一般成年男子のルールが若干変更になります。  正式には4月の国際親善大会で発表されることになっています。  

昨年の全空連との友好団体化を受けて、9月のアジア大会と12月の全日本大会を観戦させていただきました。  有効ポイント・反則ポイントともに観客に分かりやすい審判技術が見られました。  反則については、極真の大会で過去に議論されたことがある「故意かどうか」は考慮されません。  「実際に反則を犯しているか否か」だけでジャッジされます。  もちろん、「今回は口頭注意で次回から反則を取るぞ」もありません。  反則を犯せば、即「注意」です。

武道競技の判定基準について全日本柔道連盟強化委員長の山下泰裕先生が朝日新聞にコラムを書かれていたので2月10日の朝日新聞デジタル版から抜粋し、番号を付けて紹介します。

『①リオデジャネイロ五輪を前にした柔道の大きな国際大会である「グランドスラム・パリ」は、男子100キロ超級で原沢久喜(ひさよし)が優勝し、幕を閉じた。  日本勢は男子が60、66、90、100超の4階級を制覇。  一方、女子の優勝は78キロ超級の田知本愛(めぐみ)だけにとどまった。  五輪本番に向け、どんなサポートが必要か、強化委員長として女子スタッフの意見に耳を傾けていきたい。

②今大会は審判の判定基準がより明確になった印象を受けた。  1月末に日本の講道館で、各国・地域の監督やコーチ、五輪に立つ審判が参加したセミナーを開き、一本と技ありの違い、指導や反則の基準などについて共通認識を深めた。  意義深い試みで、それが生きたと思う。

③審判の判定では「現象を見るか、意図を読むか」で違いが出る場合がある。  例えば、グランドスラム・パリでの女子70キロ級準決勝。  フランスの選手が田知本遥(はるか)に、骨折などの恐れがある体を捨てながらのわき固めの形に入り、反則負けとなった。

④私は、フランスの選手は偶然、わき固めの姿勢になったように見た。  試合の流れや選手の意図を理解しようとする傾向が強い審判なら、故意ではないとして、彼女の一本勝ちとした可能性もある。  だが、現象を見れば反則負けと取られても仕方はない。  私はこの判定を支持したい。

⑤審判が試合の流れや選手の意図を瞬時に理解するのは難しい。  地域によって競技レベルの差もある。  そのなかで、現象を正確に切り取り、明解な共通の基準を適用することはとても大切なことだ。  世界の柔道界はこの流れで動いている。

⑥昨夏に国際柔道連盟の理事となり、海外の審判たちと身近に接して分かったが、彼らは非常によく勉強している。  「海外の審判は下手」というステレオタイプの批判はお門違いだ。  彼らの意識の根底には間違いなく、2000年シドニー五輪決勝の篠原信一―ドイエ戦の「誤審」を、二度と繰り返してはならないという強い思いがある。』

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