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『大地』

1.お世話になっている麦島善光会長がある会食の席で「中国のことはパールバックの『大地』、ロシアのことははドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』を読むとよくわかる。」とおっしゃっていました。  

『カラマーゾフの兄弟』は過去に読んでおり、このブログでも2007年10月18日に紹介しています。  ところが、これだけ中国出張が多いにも関わらず『大地』は読んでいません。  というわけで、今週の大連出張中に『大地』(パールバック著 新居格訳 新潮文庫)を読みました。


(1)Wikipediaで検索したパールバックの経歴を抜粋し、番号を付けて紹介します。

『①パール・S・バック(1892年6月26日~1973年3月6日)はアメリカの女性小説家。  南長老ミッション派宣教師の両親と中国(中華民国)に渡り、そこで育つ。  1931年に代表作『大地』を発表して1932年にピュリッツァー賞を受賞。  1938年にノーベル文学賞を受賞した。

②生後3ヶ月で中国江蘇省の鎮江に渡った。  英語と中国語の両言語を話すバイリンガルとして育った。  1917年、帰国してランドルフ・マコン女子大学に入学、1924年に卒業し母校で心理学の講師をしていたが、母の病気の知らせを受けて中国に戻った。

③1917年、農業経済学者のジョン・ロッシング・バックと結婚し一時南京大学、南東大学で英文学を講義する。  1926年、一時帰国してコーネル大学で修士号を取得した。  

④1932年、ニューヨークの講演が原因で長老派伝道委員から非難され宣教師の地位を辞した。  1934年、中国を離れ、二度と戻ることはなかった。  1935年、ジョン・ロッシング・バックと離婚。』


(2)巻末の「解説」から時代背景を抜粋し、番号を付けて紹介します。

『①中国の歴史の上では、日清戦争、義和団の乱、孫文らによる辛亥革命、清朝の滅亡、中国国民党の成立、陳独秀らによる中国共産党の創立、蒋介石の北伐と南京事件、共産党と国民党の提携分裂など、古い王朝の滅亡と新しい中国への胎動、混乱した国内政情と外国勢力の侵略介入など、あわただしくもあり、苦悩に満ちた年代である。

②パールは、それらの時代に生き、その中でうごめく民衆を、移り行く時の流れの中で捕える。』


(3)第一巻の裏表紙に「19世紀後半から20世紀初頭にかけて古い中国が新しい国家へ生まれ変わろうとする激動の時代に、大地に生きた王家三代の年代記。」とありました。  人間の努力では克服できない時代や運命のうねり、個性的な各登場人物のそれぞれの人生模様に引きつけられ、全四巻を面白く読むことができました。


2.『大地』を読んだ後、9月23日の朝日新聞で宇宙飛行士の山崎直子さんが話されていた記事を思い出したので抜粋し、番号を付けて紹介します。  タイトルは「予測できないことも、人生の一部」です。

『①自分の望みで走り続けるのも努力がいるけれど、周囲の状況変化によって立ち止まらなければならない時はさらに苦しい。  人は何度もそういう壁を乗り越えて進むのだと思います。

②私の場合は、責任のある立場になればなるほどアメリカの神学者ラインホールド・ニーバーの言葉に深く感じ入り、背中を押されます。

③「神よ、変えることのできない事柄については冷静に受け入れる恵みを、変えるべき事柄については変える勇気を、そして、それら二つを見分ける知恵を我らに与えたまえ。」

④自分にできることはそこに集中し、自分でしょうがないことは受け入れる。  その両者を区別する知恵を磨けと。

⑤でも実際には、どうしようと悩んでしまって判断は本当に難しいものです。  そういう時は逆に考えを絞って、私は、勉強でも仕事の基礎でも足元から自分にできることを始めました。』

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愛国

今朝の朝日新聞・オピニオン面のテーマは『愛国』でした。  三人の方の話が載っています。  抜粋し、番号を付けて紹介します。


1.鈴木邦男さん(新右翼団体・一水会顧問)

『①よその国の人も自分の国を愛しているということです。  日本人だけが愛国心を持っているわけではないのです。

②三島由紀夫は愛国という言葉は嫌いだ、愛は無制限であり、国境で区切られた愛など愛ではない、と言っています。

③外国人が母国に抱く愛国心を理解し、その上で日本を愛する。  自分の国がすべて、日本だけが素晴らしいという考えは、思い上がった自国愛にすぎません。  ただの排外主義です。  愛国とは最も遠いものです。』


2.亀井静香さん(衆議院議員)

『①浪花節って、実にいいもんですよ。  

②だけど隣近所に浪花節を聞いたらじんましんが出るという人ばかりが住んでいたら、その家のおやじは窓を開けて大声でうなるのは控えた方がいい。  本人は気分がよくても、家族は近所付き合いせにゃいかんのだから。

③首相の靖国公式参拝の問題も同じ。  首相が参拝するのは当然のことだけれども、隣国のことを考えて控えた方がいいというのが持論です。』


3.岩井志麻子さん(作家)

『①そもそも、よその国をおとしめて自国を愛するという愛国心は、ようないと思いますよ。

②あなたの国は良い国ですね、うちの国もよい国ですよ、と言った方が、母国の良さが相手に届くでしょう。  それこそ真の愛国じゃないですか。

③よその国を尊重する気持ちがない人は、愛国者を名乗っちゃいけんのじゃないですかね。』

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フェイシング・アリ

先週の日曜日、渋谷で『フェイシング・アリ』という映画を観ました。  モハメド・アリとかって対戦した10人のボクサーたちによるインタビューと当時の映像が中心になっています。  

1.以下はウィキペディアで検索したアリの紹介です。

『モハメド・アリ(1942年1月17日 ~ )は、アメリカ合衆国の元プロボクサー。  デビュー当初はカシアス・クレイと呼ばれていたが、1964年にネーション・オブ・イスラムへの参加を機に、リングネームのみならず本名自体をモハメド・アリに改名し、その名で呼ばれるようになった。  アマチュアボクサーとしてボクシングを始め、1960年のローマオリンピック・ライトヘビー級金メダリスト。  プロに転向するや無敗で世界ヘビー級王座を獲得。  その後は3度王座奪取に成功し通算19度の防衛を果たした。  人種差別と戦い、ベトナム戦争の徴兵拒否など社会的にも多くの注目を集めた人物である。』


2.公式サイトから、映画に登場する対戦者の言葉を抜粋して紹介します。

①ジョージ・フォアマン(元世界ヘビー級チャンピオン。  アリとは1戦1敗。  近年の最も有名なボクシング試合の一つである1974 年ザイールのキンシャサでの世界タイトルマッチ、8ラウンドでモハメド・アリに敗れた。)

「彼に嫉妬したよ、長身でハンサムだ。  皆が嫉妬した。  私が対戦した中で最高のボクサーだ。  人種の枠を超え、彼は世界のヒーローだ。」


②ジョー・フレージャー(元世界ヘビー級チャンピオン。  アリとは3戦1勝2敗。  1971 年の世界ヘビー級タイトルをかけてモハメド・アリと戦った試合は、“世紀の三戦”のうちの最初の試合で、この対戦は観客動員、収益で当時の最高記録を打ち立てた。)
  
「当時、俺はこう思っていた “いつか黙らせてやる”」


③ラリー・ホームズ(元世界ヘビー級チャンピオン。  アリとは1戦1勝。  20戦の防衛記録をつくり、これはジョー・ルイスの25回に続く2番目の記録である。) 

「この国に来たあらゆる人種がリングで血を流した。 試合後、アリに「愛してる」と言ったら、「愛してるのに殴るのか?」と…(笑)」


④レオン・スピンクス(元世界ヘビー級チャンピオン。  アリとは2戦1勝1敗。  スピンクスは36歳のモハメド・アリを破り、これはボクシング史上最大の番狂わせとされた。)
    

「アリは俺のアイドルだった。  当時の若者にとってもね。  なぜならアリは唯一無二の存在だからだ。  彼のマネはできても、決して彼にはなれない。  認めるべきだ。」


⑤ジョージ・シュバロ(アリとは2戦2敗。  1966年の世界タイトルマッチの試合後、アリはシュバロを「今までやってきた奴の中で一番タフな奴さ」と称した。)

「モハメド・アリ以上に崇拝されている人物がボクシング界にいたか?  彼は偉大な王者として、人々の記憶に残るだろう。  悲しい終わりではあったが、誰もが知っていた。  偉大な王者だと。」


⑥ケン・ノートン(元世界ヘビー級チャンピオン。  アリとは3戦1勝2敗。  1973年にアリの顎を砕いた12ラウンドの勝利でよく知られている。)  

「まさに人生を賭けた大勝負だった。  アリと同じリングに立てたことは私にとって名誉なことだし、人生と経歴の救済になった。  機会を与えてくれた彼に感謝したい。」


⑦ヘンリー・クーパー(アリとは2戦2敗。  左フックが武器で、若きモハメド・アリをノックダウンしたこともある。)

「190センチの長身だが、動きはミドル級だ。  それが彼の武器だ。  彼の功績を認めざるを得ないだろう。」


⑧ロン・ライル(アリとは1戦1敗。  1975年、王座に返り咲いたアリの2度目の防衛戦で対戦する。)

「試合でのアリは、別のレベルにいた。  皆の一歩上にね。  彼には天賦の才があった。  彼には愛があり、その愛を与えてくれた。  我々がその愛を語り継ぐんだ。」


⑨アーニー・シェーバース(アリとは1戦1敗。  1977年にマディソン・スクエア・ガーデンでモハメド・アリと対戦した。)  

「アリはボクシングを変えた唯一無二の存在だ。  ボクサーにとってもね。  彼は最強のチャンプで、私の人生を変えた男だ。」


⑩アーニー・テレル(元世界ヘビー級チャンピオン。  アリとは1戦1敗。  1965年、WBAがアリからはく奪した世界タイトルをエディ・マッチェンと争い15回判定勝ち。)  

「どうしてもアリを倒してタイトルを取りたかった。」


私が初めて出場した第6回全日本大会は1974年11月9・10日開催です。  直前の10月30日、旧総本部裏・若獅子寮のテレビで佐藤勝昭先輩等と数人でアリ・フォアマン戦を観たことを思い出します。

試合前に佐藤先輩が「若い選手(フォアマン)が勝つよ」と言っていました。  結果は31歳のアリが25歳のフォアマンにノックアウト勝ちで、二度目の王者に返り咲きです。

直後の第6回全日本大会では当時28歳と入賞者中最も年上の佐藤先輩が第3回大会以来、二度目の王者になりました。

できすぎ(笑)





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