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内田樹先生「『七人の侍』の組織論」

神戸女学院大学・文学部総合文化学科教授、内田樹(うちだ・たつる)先生のブログ『内田樹の研究室』の11月22日のタイトルは「『七人の侍』の組織論」でした。  抜粋し、番号を付けて紹介します。

『①『七人の侍』は考えられる限り最小の数で構成された「高機能集団」である。  その構成員はまず「リーダー勘兵衛」(志村喬)、「サブリーダー五郎兵衛」(稲葉義男)、「イエスマン七郎次」(加東大介)。  7名中の3名が「リーダーが実現しようとしているプロジェクトに100%の支持を寄せるもの」である。  この比率は必須。  「イエスマン」はリーダーのすべての指示に理非を問わずに従い、サブリーダーは「リーダーが見落としている必要なこと」を黙って片づける。

②その他に「斬り込み隊長久藏」(宮口精二)と「トリックスター菊千代」(三船敏郎)もなくてはならない存在である。  リーダーのプランをただちに実現できるだけの能力をもった「斬り込み隊長」の重要性はすぐにわかるが、「トリックスター」の組織的重要性はあまり理解されていない。

③トリックスターとは「二つの領域にまたがって生きるもの」のことである。  菊千代は「農民であり、かつ侍である」というその二重性によって、絶えず勘兵衛たちの「武士的秩序」を掻き乱す。  だが、それと同時に外見は微温的な農民たちの残忍なエゴイズムを自身のふるまいを通じて開示することによって、農民と侍のあいだの「リアルな連帯」を基礎づける。

④七人の侍のうち、もっとも重要な、そして、現代においてもっとも理解されていないのが、林田平八(千秋実)と岡本勝四郎(木村功)の役割である。  平八は五郎兵衛がリクルートしてくるのだが、こう紹介する。  「腕はまず、中の下。  しかし、正直な面白い男でな。  その男と話していると気が開ける。  苦しい時には重宝な男と思うが。」


⑤五郎兵衛の人事の妙諦は「苦しいとき」を想定して人事を起こしていることにある。  私たちは人を採用するとき、組織が「右肩上がり」に成長してゆく「晴天型モデル」を無意識のうちに前提にして、スキルや知識や資格の高いものを採用しようとする。  だが、企業の経営をしたことのある人間なら誰でも知っていることだが(「麻雀をしたことがある人間なら」と言い換えてもよい)、組織の運動はその生存期間の過半を「悪天候」のうちで過ごすものである。

⑥組織人の真価は後退戦においてしばしば発揮される。  勢いに乗って勝つことは難しいことではない。  勝機に恵まれれば、小才のある人間なら誰でも勝てる。  しかし、敗退局面で適切な判断を下して、破局的崩壊を食い止め、生き延びることのできるものを生き延びさせ、救うべきものを救い出すことはきわめてむずかしい。  「苦しいとき」においてその能力が際だつような人間を採用するという発想は「攻めの経営」というようなことをうれしげに語っているビジネスマンにはまず宿らないものである。

⑦けれども、実際に長く生きてきてわかったことは、敗退局面で「救えるものを救う」ということは、勝ちに乗じて「取れるものを取る」ことよりもはるかに困難であり、高い人間的能力を要求するということである。  そして、たいていの場合、さまざまの戦いのあとに私たちの手元に残るのはそのようにして「救われたもの」だけなのである。

⑧勝四郎の役割が何であるかは、もうここまで書いたからおわかりいただけたであろう。  彼は六人の侍が死んだあとに、彼らについての「伝説を語り継ぐ者」という機能を先取り的に賦与されているのである。  それゆえ、勝四郎が生き残り、末永く「侍たちのこと」を回想してもらうということは、六人にとって「こんなところで犬死にするリスク」を冒すために譲れない条件だったのである。

⑨勘兵衛はそれを洞察したからこそ、勝四郎を仲間に加えることを許した。  それはこの戦いで「たぶん我々はみな死ぬだろう」と勘兵衛が思っていたからである。  侍だから戦いで死ぬのは構わない。  だが、できるものなら最高のパフォーマンスを発揮した上で死にたい。  そのための条件を考えて、勘兵衛はこの七人を選んだのである。

⑩話をいきなり現代に戻すが、当今の企業の人事担当者の中には「平八」と「勝四郎」の重要性どころか、「菊千代」の重要性さえ理解していない人間が多い(というかほとんどそうか)。  リーダーとイエスマンと斬り込み隊長だけで「効率的な」組織を作ろうとしている経営者がマジョリティである。  もっとも集団のパフォーマンスを高めるのは「若く、非力な」成員を全員で「支援し、育て、未来に繋ぐ」という仕組みをビルトインさせたシステムであるという「当たり前」のことをビジネスマンたちは忘れている。』

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(74)第42回全日本大会

1.一昨日・昨日と第42回全日本大会でした。  結果は森善十朗・準優勝、小林大起・第6位、鎌田翔平・第8位です。  3人とも来年の第10回世界大会への出場が決まりました。  優勝はロシアの19歳、タリエル・ニコラシビリ選手です。


2.過去、東京城西支部から3人以上の入賞者が出たことが6回あります。

①第16回大会(1984年)・・・黒澤浩樹・優勝、小笠原和彦・第5位、五来克仁・第6位

②第17回大会(1985年)・・・黒澤浩樹・準優勝、増田章・第3位、大賀雅裕・第6位

③第21回大会(1989年)・・・田村悦宏・準優勝、増田章・第4位、川本英児・第5位、滝田厳・第7位

④第24回大会(1992年)・・・田村悦宏・優勝、岡本徹・第3位、小川俊一・第8位

⑤第25回大会(1993年)・・・田村悦宏・準優勝、岡本徹・第3位、青木英憲・第5位、黒澤浩樹・第6位

⑥第26回大会(1994年)・・・市村直樹・第3位、岡本徹・第4位、我孫子功二・第5位


3.今回の3人入賞は実に16年ぶりのことです。  昨日の大会後『ワールド空手』の舟橋記者(大西靖人が作った法政大学同好会の出身です)から次のようなインタビューを受けました。

舟橋記者・・・「おめでとうございます。」

山田・・・「う~ん。」

舟橋記者・・・「どんな感じですか?」

山田・・・「久しぶりに3人入賞したことは嬉しいのですが、3人共もうちょっとでその1つ上を狙えたので残念です。」


4.私の感想です。

①森・・・近年、重量級の選手ともまともに打ち合えるようになってきましたが、昨年のアレハンドロ・ナバロ戦、今年のウェイト制のタリエル戦で負けたことが課題になっていました。  全日本チャンピオンに手が届きそうになるチャンスなどめったにないので、ちょっともったいない気がします。

②鎌田・・・ベスト4に入れるチャンスでした。  本人の持っている潜在的な能力・資質を考えると残念です。   心の底から世界チャンピオンになることを目指して稽古に励めば、自ずと可能性が見えてくると思います。

③小林・・・昨年と同様、試し割り判定負けです。  特に同学年のタリエル選手とは2年前の国際青少年大会、今年のウェイト制大会に続き3度目の対戦でした。  次回当たった時には勝てるように臥薪嘗胆(がしんしょうたん)・精進(しょうじん)する必要がありますね。


5.①昨晩、郷田師範のパーティー後、3人それぞれが松井館長直々にアドバイスしていただきました。  その言葉の一つ一つをよく噛みしめながら、来年の世界大会に向けて稽古を重ねていってもらいたいと思います。  

②えっ?  どんなアドバイスだったかですって?  世界中にライバルがたくさんいることですし、それは内緒です(笑)。

③いずれにしても、会場で応援して下さった道場生の皆さんお疲れさまでした。  何より善十朗・翔平・大起、お疲れさま!  ゆっくり休んでください。


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森絵都さん『スパルタの副産物』

作家の森絵都さんが11月10日の日経新聞夕刊に『スパルタの副産物』という文章を書かれていました。  抜粋し、番号を付けて紹介します。

『①現在、夫婦そろって英語学校に通っている。  この学校がすごいのです。  知る人ぞ知る都内のスパルタ校で、とにかく英語指導に対する熱意が並大抵ではない。

②入学説明会へ申し込むために電話をすると、ここでも「本当に覚悟がありますか」と念押しされる。  入学説明会では2時間にわたって独自の英語指導法を説明された後、「膨大な宿題をこなせますか」 「今までと同じ生活は送れなくなりますよ」と更なるダメ押しをされる。

③私は入学して9ヶ月目になるけれど、確かに以前と同じ生活は送れなくなった。  とくに最初の1、2ヶ月は苦労した。  先生方のいう「膨大な宿題」を目の当たりにしたときには悪寒が走ったし、その量だけでなく内容も私にはきつかった。

④長く使っていなかった記憶力を要するものだった。  英語の長いセンテンスをいくつも覚える。  反射的に口から出るようになるまでひたすら覚える。  「毎日100回は口に出してください。  そうすれば1週間で700回になる。  それだけくりかえせば脳というよりも細胞レベルで英文が身につきます」と先生は言うのである。  細胞レベルって・・・・・・。

⑤私は毎日必死で英文を細胞にすりこみつづけた(100回は無理です)。  初めはひどく時間がかかったが、3ヶ月あたりから少しづつ楽になった。  どうやら英語力よりも先に記憶力が伸びてきたようなのである。

⑥そこで予期せぬ副産物がひとつ。  実は、私は以前から「ど忘れ」が非常に多く、どうしたものかと弱っていた。  ところが、例の学校に通いだして以来、ぴたりと物忘れがなくなったのである。  この冬はいったん外へ出てから上着を取りに戻らずにすみそうだ。 万歳!』

 空手の技術習得も同じかも知れませんね。  上の文章を空手風に直すと「反射的に技が出るようになるまでひたすら繰り返す。  毎日100回は繰り返す。  そうすれば1週間で700回になる。  それだけ繰り返せば体というよりも細胞レベルで技術が身につきます」となります。

 前にも書きましたが、10月20日から中国語学校に通っています。  「初めはひどく時間がかかったが、3ヶ月あたりからすこしづつ楽になった」の言葉に勇気づけられました(笑)。

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講道館・上村春樹館長

1.11月6日土曜日の朝日新聞別紙で講道館の上村春樹館長が取り上げられていました。  上村館長は柔道全日本チャンピオン(2度)・世界チャンピオン・モントリオール五輪金メダリストでソウル・バルセロナ両五輪の男子監督も務められました。 09年に第5代講道館館長、全日本柔道連盟会長に就任されています。  


2.記事から抜粋し、番号を付けて紹介します。

『①熊本で生まれ育った幼き日の自分を「背は低く、力がなく、スピードがなく、根性もなかった」と振り返る。  幼稚園時代から肥満体形。  小学時代に100メートルを走った20秒フラットは、当時の担任教師によると「あまりにも遅くて、誰も抜けない記録だった」という。

②76年モントリオール五輪の柔道無差別級で金メダルを手に入れるまで強くなった。  成功の秘密は「じっくり考えてやってみる」という姿勢にある。

③伸び悩んだ時の逸話もある。  道場の壁にかかった「技の系譜」を見つめ、ふと思った。  「柔道の技は前と後ろへの動きばかり。  みんな横への動きには弱いのではないだろうか」  ひらめいたあとは、研究と練習。  相手を横に崩し、技をかける動きは得意の戦法となった。

④モントルオール五輪の監督、醍醐敏郎さんはこう振り返る。  「相手の体形、技、動きをよく観察する選手だった。  試合展開や流れもよく見ていた。  自分の得意技を極めるタイプと、相手に応じて技をかけるタイプがいるが、彼は後者だった」』


3.インタビューから抜粋して紹介します。

『――柔道家として忘れられない出来事は何ですか。

 明治大学に入学後、最初の試合で絞め技で落ちて(気絶して)しまったんです。  目を開けたら畳の上に仰向けに寝ていて、会場の人たちがみんな私を見下ろしていた。  大志を抱いて熊本から東京に出てきたのに、柔道家としては最もしたくない負け方をしてしまった。  「もう柔道をやめよう。  熊本に帰ろう」と思いましたね。


――それでも残ったのは?

 当時監督だった神永昭夫先生が「素質のない人間は人の2倍、3倍練習しないとチャンピオンになれないぞ」と声をかけて下さった。  普段ならそれほど深く考えない言葉だと思います。  でも会場の隅でタオルをかぶり、うつむいていた私の心には響いた。  といっても、人の2倍や3倍の練習なんて現実には無理です。  そこで毎日20分間だけ、人より多く練習するよう自分に課したわけです。  これなら自分にもできるぞ、と。』

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『ニューヨークに愛を』

先週配信された公認会計士・藤間秋男先生のメルマガ『今週の元気が出る言葉』は『こころのチキンスープ』(ジャック・キャンフィールド、マーク・V・ハンセン編著  ダイヤモンド社刊)の中の“ニューヨークに愛を”という話を取り上げていました。  抜粋し、番号を付けて紹介します。  

『①友人と一緒に、ニューヨークでタクシーに乗った時のことだ。  降りる時、友人はタクシーの運転手に声をかけた。  「どうもありがとう。  君は実に運転がうまいね。  ニューヨークは車がひしめきあっているし、無茶苦茶な運転をしている連中が多いだろう。  そんな中で、君が驚くほど冷静なんで感心しているんだ」  「そうかい」とそっけなく言って運転手は走り去った。

②「今のは何だったんだい?」と私が聞くと、「僕はニューヨークに愛を呼び戻したいんだよ」と友人は答えた。  「自分一人の力でかい?」  「僕一人の力じゃないさ。  考えてごらんよ。  僕の言葉で、今の運転手は気分を良くした思うんだ。  あのタクシーに、これから20人の客が乗るとする。  運転手がいい気分でいれば、客に親切にするだろう。  すると今度はその20人の客が、まわりの連中に親切にする。  つまり連鎖反応を起こすわけさ。  そうすれば、やがて1000人以上の人を巻き込む計算になる。  すごいだろう!」

③私はそれを聞いてなるほどとは思ったものの、「理論的にはそうかもしれないけど、実際はそううまくいくとは思えないな」と答えた。  「もし、期待通りに行かなかったとしても、何の損になる?  そもそも『いい仕事をしたね』というのに全然時間はかからないよ。  チップを増やすわけでも、減らすわけでもない。  相手に通じなくても、それはそれでいいじゃないか。  また明日、別の相手に試してみればいいことさ」

④「お前、本気で言っているのかい?」  「君こそ素直じゃないよ。  僕らの会社の連中だって、給料が安いっていうだけでブーブーいっているわけじゃないんだ。  どんなに一生懸命やっても、何も言ってもらえないのが面白くないのさ」

⑤こう話しながら歩いているうちに、工事現場にさしかかった。  友人はそこで立ち止まると、建設中のビルを見上げながら、作業員たちに話しかけた。  「すごいね!  素晴らしい仕事ぶりだ。  こんなものすごいビルを建てるのは、さぞかし難しいし、危険なんだろうなあ。  君たち、これだけいい仕事ができるんだから、さそかし鼻が高いことだろうね」  作業員たちは、あっけにとられたままだったが、私たちはまた歩き始めた。

⑥「あの作業員たちが僕の言ったことをかみしめてくれれば、きっといい気分になると思う。  こうやって、この街全体がまた少し幸せを取り戻すんだ」  「でも、やっぱりお前一人の力では無理だよ」と、私はまだ賛成できずに言った。

⑦「肝心なのは、途中であきらめないことなんだよ。  大都市の人間に昔のような優しい心を呼び戻すのは至難の業かもしれない。  でも、他の人たちも、この親切キャンペーンに参加してくれるようになれば…」そこまで言うと、彼は途中で話をやめた。  通りがかりの女にウィンクしたのだ。
 
⑧私は思わず言った。  「ふうん、どう見ても、見映えのしない女だと思うがな……」  「わかっている。 でも想像してごらんよ。  もし彼女が学校の先生だったらクラスの生徒たちにとって、今日は最高の1日になるだろうね」

⑨愛ある言葉は自分も相手も気持ちが良いです。  一言から世界が変わるのです。』

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