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2010.09.30 Thu
坂本桂一さん『メタリーダ-』
『頭のいい人が儲からない理由』(坂本桂一著 講談社刊)を読みました。 『第6章 トップとリーダーは資質が違う』から抜粋し、番号を付けて紹介します。
『①組織が肥大化するにつれ、普通は組織の中に多様な価値のベクトルが発生してくる。 そうすると、それぞれのベクトルの下に小集団ができ、そこにもリーダーが生まれる。
②ゆえに、会社のトップというのは、社員一人ひとりというより、これら複数のリーダーを束ねるリーダーシップが要求されるのだ。 しかし、ここで多くの人は勘違いをする。 それならば各リーダーの中からもっとも優秀な人間を「全体のリーダー(メタリーダー)」にすればいいと、当然のように思ってしまうのである。
③暴走族のように、トップから末端まで価値観が均質な組織であれば、組織が大きくなっても小集団のころのリーダーシップがそのまま通用する。
④ところが、各地の暴走族が集まって大暴走族連合をつくるとき、トップに立つのはいちばん強いグループのリーダーがふさわしいかといったら、それは違う。 メタリーダーとしての能力をもった人間が上にこなければ、個性が強い各グループのリーダーたちをまとめるのはむずかしい。 腕っ節が強いだけではダメなのだ。
⑤メタリーダーの役割というのは、リーダーたちにあの人と一緒にいると働きやすいと感じさせ、あるいは、俺が俺がと自分ひとりが頑張るより、他のリーダーと組んだほうが自分にとってメリットがあると思わせることだ。
⑥それができるのなら別に、リーダーのように切れ者である必要はないし、傍(はた)から見たら昼行灯(ひるあんどん・・・日中にともっている行灯のようにぼんやりとしている人のこと)でもまったくかまわないのである。 むしろ、どこか頼りなさそうだったり抜けていたりするくらいのほうが、仕方ないなとリーダーたちがそれをサポートしようと必死になるということだってありえるのだ。
⑦逆にリーダーとして優秀な人間というのは、すべてを自分でやろうとするから、そういう人がメタリーダーのポジションに就くと、その人の器以上に組織は伸びないことになる。 また、つねに自分が強いリーダーシップを発揮していたらその下に、リーダーは育たないのだ。
⑧戦国時代なら、秀吉や家康より、この曲者である二人をじつにうまく使いこなして天下統一の礎を築いた織田信長が、最強のメタリーダーだと私は思っている。 幕末なら坂本龍馬だろう。
⑨彼らメタリーダーに共通しているのは、部下の手柄も自分の手柄も区別して考えないところだ。 だから、組織のためにこんなことが必要なんだけど、自分にはそれをやる能力がないから代わりにやってくれと平気で部下にいえるのである。 こういう人間がトップに立っている組織は強い。』
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2010.09.29 Wed
天外伺朗先生『ヒンズー教の教え』
『経営者の運力』(天外伺朗著 講談社刊)の3回目です。 『第6章 ヒンズー教の教え』から抜粋し、番号を付けて紹介します。
『1.「カルマの法則」
①ひところ、便所掃除がやたら流行ったことがあった。 それが幸運を呼び、お金がどんどん入ってくるようになる、とまことしやかに説く人がいたのだ。 これは「カルマの法則」のひとつの変形だ。
②「カルマの法則」は仏教でも説かれているが、元を正せばヒンズー教の教義だ。 カルマというのは行為という意味だが、厳密には外に表出しない想念も含まれる。
③いま私たちの身の回りで発生するすべての出来事は、偶然はひとつもなく、すべて私たちが過去に発した行いや想念が宇宙に放射され、あちこちで反射し、つもりつもって複雑に重畳(ちょうじょう・・・幾重にも重なること)したものだという。
④いまの日本で最も広く信じられているのが、この「将来のために、自らの行いを正しなさい」という「カルマの法則」ベースの開運法だ。
2.「引き寄せの法則」
①「カルマの法則」と並んで、もうひとつ、広く流布している開運法、あるいは成功のためのノウハウがある。 それは「想念は実現する」という、アメリカ流成功哲学を源流にするものだ。
②こちらは、かって鉄鋼王カーネーギーなどが信奉し、ナポレオン・ヒルなどの布教者が活躍したが、最近では亜流が多く生まれており、「引き寄せの法則」などとも呼ばれている。
③一般にはほとんど知られていないが、じつは、こちらもヒンズー教のヴェーダーンタという思想がベースになっている。
④いま世の中で普及している成功のための方法論が、二つともヒンズー教を源流としているところがとても面白い。
3.評価が不当に低ければ、「運命に貸しを作った」と思え
①(前略)そこで、人事評価の結果に一喜一憂するな、という話をする訳です。 良い仕事をしても評価が低かったら、運命に貸しを作った、と考えてください、とね。
②運命に貸しを作って、ジタバタしないで、それを従容として受け入れれば、いずれ何倍にもなって返ってきますよ、と運命論を語る。 これは運命の真髄だと思う。 「カルマの法則」のひとつの応用です。
③もちろん、逆の話もしますよ。 たいした働きもしていないのに、高い評価をもらったら、運命に借りを作ったと思えってね。 すぐに、人助けをするとか、ボランティアをやるとか、その借りを返さないと、いずれ何倍もの悪運となって返ってきますよってね。』
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2010.09.28 Tue
天外伺朗先生『もうひとりの自分』
1.昨日に続き『経営者の運力』(天外伺朗著 講談社刊)を取り上げます。 『ジタバタする自分を否定しない』の項から抜粋し、番号を付けて紹介します。
『①ジタバタしている自分を発見したとき、自分を抑え込もうとするとよけいひどくなる。 表面的な自分は、いくらジタバタして、もがき苦しんで、わめき散らしてもいいのですよ。
②ジタバタしない「もうひとりの自分」が確立できて、そんな自分を、冷静に、客観的に、中立的に眺めることができればOKです。 これはじつは、座禅や瞑想の目的でもあるのですよ。
③松原泰道師に教わった話ですが、「座禅」というのは本来「坐禅」と書くべきなんだそうです。 土の上に人が二人いる訳です。 こっちがジタバタしている自分、こっちがそれを見て驚いている自分です。 座禅や瞑想を続けていけば、その二人のバランスがとれてくる。
④しっかり、座禅や瞑想を続けていれば、やがて「もうひとりの自分」が確立できて、いくらジタバタしても人生は踏みはずさなくなりますよ、ということですかね。』
2.今年の極真会館総本部夏合宿で松井館長が同じようなことを話されています。 『ワールド空手』2010年11月号から抜粋し、番号を付けて紹介します。
『①大会の試合は勝敗がつくので勝ちを狙って緊張や興奮もあるでしょうが、選手自身がその状況をコントロールできていない。 (中略)
②そういうときは、自分は緊張しているな、興奮しているな、とその状態の自分を受け入れてやることが重要です。
③その自分を、「もう一人の自分」が客観的に見て、ここは落ち着こうとか、この今の自分を楽しもうとか、そうやってコントロールしていくことが、ゆくゆくは勝つための一つの有効な方法になります。』
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2010.09.27 Mon
天外伺朗先生『笑いと運力』
『経営者の運力』(天外伺朗著 講談社刊)を読みました。 『第10章 運力が宿る会議』から抜粋し、番号を付けて紹介します。
『①ソニーには、42年間勤務した。 その間見てきたプロジェクトの数は、優に1000を超えるだろう。 (中略) 私は、次第に嗅覚が発達し、プロジェクト・ミーティングにちょっと顔を出すだけで、成功するか、失敗するかを嗅ぎ分けられるようになっていった。
②私が、成功か失敗かを嗅ぎ分けるのは、基本的には直感であり、論理的に説明は不可能だ。 しかしながら、強いて取りだせば、二つの要素を挙げることができる。
③そのひとつは、目標の的確さだ。 つまり、成功すればすごいぞ、という感覚と、かなり高い目標だが、頑張ればなんとか達成できそうだという感覚が重要だ。 しかも、その時代の流れに沿っていなければならない。
④もうひとつの要素が、チームの運力だ。 私が、プロジェクト・ミーティングに出席して肌で感じるのは、このチームは運力が強いか、弱いかということだ。
⑤一般的には、運力のかわりに士気ということばが使われる。 士気が高ければ成功するし、低ければ失敗する、と思われている。 これは基本的に間違いだ。 もちろん、士気が低く、やる気がないチームは論外だが、士気が高すぎると災いになることのほうが多い。 これは、スポーツの世界で、勝ちたい、勝ちたいという思いが強すぎると勝てなくなるという「執着の呪縛(しゅうちゃくのじゅばく)」と同じだ。
⑥プロジェクト・ミーティングに出て、「あ、このチームは失敗するな」と簡単に判別できるのは、「絶対に成功して見せます!」、「頑張ります!」、「死ぬ気でやります!」と、必死の形相で、目をつり上げ、ねじり鉢巻きの感じになっているときだ。 士気が高すぎて、発想が硬直し、状況に合わせてフレキシブルな対応をする余裕がないのがすぐわかる。 そういうチームは、破綻が早い。
⑦一般に運力の強さは余裕として外に表現される(余裕があるからといって、必ずしも運力が強いとは限らないが・・・)。 したがって、「ユーモア、ジョーク、笑い、遊び心、力の抜け具合」などは、有力な判断材料になる。
⑧わかりやすいのは、自分の組織内のプロジェクトで、状況が厳しくなって、中止するかどうかを判断しなければならないときだ。 そんな状況にもかかわらず、もしミーティングが笑いにあふれていたら、どんなに客観的情勢が厳しくても、成功の確率は高い。 笑いは余裕から生まれる。
⑨運命のボトム(底)であせりまくり、ジタバタしていたらジョークも出ず、笑いもないだろう。 笑いというのは、不運を平然と受け止め、ボトムを淡々とやり過ごすことのできる、運力の強さの象徴なのだ。』
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2010.09.24 Fri
幸田露伴「惜福・分福・植福」
渡部昇一先生と中山理(おさむ)先生の対談集『読書こそが人生を開く』(モラロジー研究所刊)を読みました。 渡部先生の発言から抜粋し、番号を付けて紹介します。
『①(明治の文豪)幸田露伴は『努力論』で、責任は自分にあるという態度で努力するといい運が寄って来る可能性が高い、と言っているわけですが、いい運がきたときにどのような態度を取るべきかということで、「惜福」「分福」「植福」の三つの考え方を示しています。
②「惜福(せきふく)」とは、いいことがあったときに、その福を使い尽くさないで一部を惜しんで、あとのために残しておくことです。 お金のない人が宝くじに当たったが、有頂天になってしまって身の破滅を招くというのは、惜福とは逆のことです。 露伴は惜福の例として、徳川家康を挙げます。 家康はいい運が来ても、有頂天になることはなかったというのです。
③「分福」とは、いいことがあったら自分だけで独り占めしないで周りの人に分け与えよ、ということです。 その例として挙げられるのが豊臣秀吉です。 秀吉は周りの者たちに分け与えることを怠らなかったから、天下が取れたというわけです。
④「植福」とは、自分のところにいいことが来るとは限らないけれど、とにかくよいことをふだんからやっていこうということです。 たとえば、木を植えても、自分が生きている間はその木は自分のためにならない。 しかし、孫の代には木材として売れるかもしれないし、おいしい木の実をつけるかもしれない。 福はなくならない。 これが植福なのです。
⑤露伴は、これをやったら必ず幸せになると言っているわけではありません。 しかし、今を生きる私たちは、自分のやることに責任を持ち、惜福、分福、植福を地道に積み重ねていくことが大切といえるのではないでしょうか。』
幸田露伴の「惜福・分福・植福」については2007年11月5・6日にも書きましたが、渡部先生の話が分かりやすかったのでまた取り上げました。
1日働いただけで週末ですね。 明日は父の墓参りに行きます。 晴れるといいな~(笑)。
では、よい休日を。
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2010.09.22 Wed
サードマン現象
『奇跡の生還へ導く人 極限状態の「サードマン現象」』(ジョン・ガイガー著 伊豆原弓訳 新潮社刊)を読みました。 『訳者あとがき』から抜粋し、番号を付けて紹介します。
『①昔から、信仰やスポーツ、健康維持のため老若男女を問わず山と親しんできた日本人にとって、遭難事故はめずらしいことではない。 これまでも山行記や遭難記録が多数刊行され、そうした何冊かは私も読んでいた。
②だから本書で、「サードマン現象」の記録を読んだときも、驚きはしなかった。 人はたまらなく孤独になった時、とりわけ過酷な大自然の中に放り出されたとき、「いるはずのない誰か(サードマン)」に助けられることがあると読んだことがあるからだ。
③本書では、海底洞窟、南極大陸、飛行機の操縦席、9・11の世界貿易センタービルなど、さまざまな場面での「サードマン現象」が描かれている。
④それらを神の御業(みわざ)だと言う人もいる。 研究者は、孤独、単調な風景、喪失ストレス、低温や低酸素など、外的・内的要因を挙げている。
⑤著者は、数多くの体験者の話を聞き、膨大な資料にあたり、その一つ一つをつぶさに検証する。 そして結論は、脳科学へと収束していくのだが、それでもなお謎は残る。 なぜ「存在(サードマン)」は危機的状況にある人を助け、奇跡の生還へと導くのか・・・・・・。
⑥本書に掲げられた多数の例を読むと、人間の潜在能力の大きさに驚嘆させられる。 またそれらを「神秘体験」という言葉で片づけず、あらゆる方面から科学的に検証しようとした著者の努力により、本書は単なる事例集にとどまらず、体系的な記録と研究の集大成となっている。
⑦超自然的だが、おそらく誰にでも起こりうる「サードマン現象」と、その背景にある人間の精神の働きに、思いをめぐらさずにはいられない。』
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2010.09.21 Tue
孫子『勢い』
『「孫子の兵法」がイチからわかる本』(現代ビジネス兵法研究会著 すばる舎刊)を読みました。 抜粋し、番号を付けて紹介します。
『1.現代訳(勢篇)
①巧みに戦う有能な指揮官は、戦いの勢いによって勝利しようとし、決して兵士たちの力ばかりを頼ろうとはしない。
②兵士たちの力が十分に発揮できるように、適材適所に配備させ、軍全体の勢いのままに戦わせようとする。
③兵士たちを勢いそのままに戦わせるさまは、木や石を転がらせるようなものだ。
④木や石は、平らなところでは安定して静止しているが、不安定な場所では動き出す。
⑤四角いものなら安定しているが、丸ければ転がり始める。
⑥兵士たちを巧みに勢いづかせるためには、丸い石を高い山から転がり落とすように軍隊を戦わせる。
⑦これが、戦争における勢いというものだ。
2.源氏と平家の「勢い」
①平安時代末期の1184年、平家は勢いよく攻めてくる源氏のために、都落ちを余儀なくされます。 しかし、このまま平家も引っ込んでいるわけではありません。
②瀬戸内海で態勢を整え、勢力を盛り返し、京の都を再び目指します。 今の神戸市あたりの一ノ谷に陣を張り、進撃の準備にとりかかります。 ここで源氏の大将、源義経はわずか70騎で、平家5万の大軍を打ち破る活躍を見せました。
③平家は鵯越(ひよどりごえ)という断崖絶壁を背景に陣取り、源氏の軍勢と対峙します。 義経は、平家軍に対峙する自軍本隊を部下に任せ、わずか70騎を率いて鵯越に立ちます。
④義経軍は、馬で駆け下りるのは不可能と思われたその崖を駆け下りて、奇襲をかけます。 不意を突かれた平家軍はパニック状態に陥り、敗走します。 (中略)
⑤見逃してはならないのが、源氏に圧倒的な「勢い」があったということです。 まだ強大な戦力を有していた平家軍ですが、敗戦に次ぐ敗戦で「勢い」を失っていたため、浮足立っていたのです。
⑥これは、富士川の戦いにも表れています。 富士川に陣取っていた平家軍ですが、そこに源氏の斥候隊(せっこうたい)、いわゆる少数の偵察隊が近寄ります。
⑦川べりに陣取っていましたが、源氏の斥候隊に驚いた水鳥がいっせいに飛び立ちます。 そのとき、平家軍は敵の襲撃と思いこみ、慌てて敗走したのです。
⑧このような状況で、ますます平家軍の勢いは失われ、源氏の勢いは増していきました。』
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2010.09.17 Fri
池上彰さん『謝ること』
『伝える力』(池上彰著 PHPビジネス新書)を読みました。 『謝ることは危機管理になる』の項から抜粋し、番号を付けて紹介します。
『①サッカーのワールドカップのことを書いていて、フィギュアスケートの選手だった渡部絵美さんのことを思い出しました。 渡部さんは、冬季オリンピックでメダルを期待されながら、転倒してしまいメダルを取れなかったことがありました。 そのとき彼女は、終わった後にひと言「ごめんなさい」と言ったのです。
②見ている人は「期待していたのに、メダル、取れなかったじゃないか」と思っている。 多くの人が残念に思うと同時に、なんとなくカリカリしていました。 もちろんそんなことは、渡部さんの知ったことではありません。 理屈で考えたら、彼女が謝る必要など何一つない。 渡部さんは一生懸命やったけれど、結果としてうまくいかなかった。 ただ、それだけのことです。
③でも、そこでひと言謝ったことで、日本中の雰囲気が変わったことも事実です。 「がんばったのだから、そんな謝るようなことじゃないよ」 「よくやったじゃないか」といった好意的な雰囲気が、メディアも含めて、一瞬のうちに多数派になったのです。 「彼女が謝らなければならないほど、我々日本人は彼女に過大な期待を抱いて、プレッシャーをかけていたんだなあ」と、こちらが反省してしまうほどでした。
④ひと言「ごめんなさい」と言ったことで、いらぬ批判を受けることを回避できたことになります。 もし彼女が謝ることなく、「こうこうこういう理由で、十分なパフォーマンスができませんでした」などと冷静に分析していたら、多くの日本人は聞き苦しい言い訳だと受け止めたかも知れません。
⑤ひと言謝られることで、なんとなく納得し、なんとなく許してしまう。 非常に日本的といえば日本的ですが、これが多くの日本人の感性です。 こうして見てみると、〝謝罪〟は危機管理になることがおわかりでしょう。
⑥悪いこと、たとえば法令に違反したときなどはもちろん、悪いことをしたわけではないけれど、周囲の期待に応えられなかったときにも、謝ることで、反感を買ったり、問題が大きくなったりすることを未然に防げることが多いからです。』
余談ですが、昭和57年に生まれた娘の名前は渡部絵美さんにならって付けました。 今年、結婚して渡邊絵美になりました。 そして、婿さんの妹さんの名前も渡邊絵美です。 ビックリしました(笑)。
来月、ハワイで親族だけの結婚式を挙げます。 楽しみだな~。 たけちゃん、えみちゃん、おめでとう! すみません、身内ネタで。
三連休ですね。 よい週末を。
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2010.09.16 Thu
マネジメントはコスト戦略
公認会計士の本郷孔洋先生にいただいた『わかる! 環境経営』(本郷孔洋著 PHPビジネス新書)を読みました。 『マネジメントはコスト戦略』の項から抜粋し、番号を付けて紹介します。
『①マーケティングが「売上戦略」であるのに対して、マネジメントは「コスト戦略」です。 経営を考える場合、これを未分化(ごっちゃ)にしていると、戦略がちぐはぐになってしまいます。
②お金をかけるべきところにかけなかったり、かけなくていいところにお金をかけてしまったりするのはそのためです。
③経営で大事なのは、収支を合わせること、そのための仕組みを作ることです。 仮に、会社の売り上げが10なのに10以上の経費がかかっていたら、赤字になって会社は成り立ちません。
④わかりやすい例を挙げれば、何年か前、『食い逃げされてもバイトは雇うな 禁じられた数字〈上〉』(山田真哉、光文社新書)という本に、「ラーメン屋であれば、もし食い逃げされたとしてもアルバイトを雇わない方が会計的には正しい」といったことが書かれていました。
⑤会計的にいえば、これはまったくその通りです。 食い逃げされても、アルバイト店員が客を追いかける手間と彼らの賃金を考えれば、あきらめて新しい1杯を売る方が賢いという理屈は私にもわかります。
⑥もっとも、この話があてはまるのはあくまで少人数の家業の場合であり、事業になるには従業員を何人か使った中で「経費を売上げよりも小さくするマネジメント」が必要になってきますが・・・・・・。』
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2010.09.15 Wed
成功をあきらめない
昨日配信された公認会計士・藤間秋男先生のメルマガ『今週の元気が出る言葉』から抜粋し、番号を付けて紹介します。 タイトルは『成功をあきらめない』(情熱の伝道師 Masa 是久昌信 )です。
『①男は試練に出会った。 30半ばでやっとの思いで立ち上げた事業が倒産。
②男は情熱で再起した。 そして、また試練に出会った。 ビジネスパートナーである息子が急死。
③男はそれでも情熱で再起した。 そして、試練がまたも襲った。 再起して始めたレストランが火事になる。 男は試練を受け入れた。 絶対にあきらめないと。
④男はレストランを再起させた。 そして、そこにまたも試練が。 レストランのそばにハイウェイが建設され、お客が激減。 そして、倒産する。 男はそこからさらに試練に立ち向かう決意をした。 絶対にあきらめないと。
⑤男は全てを失い、唯一残された自分の調理ノウハウを他人に売ることを始めた。 本当の試練が始まった。 彼は情熱で立ち向かった。 毎日、毎日、お店を訪問し、すべて断られた。 100回、200回、300回と断られた。 男は決断していた。 どんな試練に会おうとも情熱を失くさないと。
⑥しかし、試練は襲い続けた。 400回、500回、600回と拒絶の日々が2年間も続いた。 ついにその試練は1000回を超えた。
⑦ボロボロの中古車に寝泊まりしながら、説明用の食材で飢えをしのぎながら、男は1010人目の相手を探し、ついに契約をもらった。
⑧その後、この調理法は世界80ヶ国に広まり、1万店舗のチェーン店となった。
⑨情熱の男の名はカーネル・サンダース。 ケンタッキー・フライド・チキンの創始者。
⑩男が決断し、人生の試練に立ち向かった年齢は65才からだった。』
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2010.09.14 Tue
なぜ広島と長崎に
『知っておきたいアメリカ意外史』(杉田米行著 集英社新書)を読みました。 『投下候補地はどう決まったのか?』の項から抜粋し、番号を付けて紹介します。
『①1945年4月27日・・・原爆投下候補地として、広島、八幡、横浜、東京、東京湾、川崎、名古屋、大阪、神戸、京都、呉、小倉、下関、山口、熊本、福岡、長崎、佐世保の名前が挙げられ、検討が始まった。
②5月10・11日・・・選定基準として次の3つの条件が掲げられた。
・直径3マイル(約4.83km)以上の都市
・爆風によって効果的なダメージを与えることが可能な地域。 つまり、山や丘などに囲まれていたり、周辺に破壊の対象となる物が広い範囲にわたって広がっている地域。
・8月までの空襲予定地に入っていない場所
優先度でA以上になった京都、広島、横浜、小倉の4都市が候補、新潟が予備候補となった。
③5月28日・・・第1候補に京都、第2候補に広島が選定された。
④(しかし、陸軍長官のスティムソンが京都への投下に反対すると、大統領の)トルーマンも了解し、京都のかわりに小倉と長崎の2都市が候補地になった。
⑤8月6日・・・第1目標・広島、第2目標・小倉、第3目標・長崎として原爆投下指令が出た。 この日、広島は快晴で視界もよかった。 午前8時15分、原子爆弾が炸裂(さくれつ)した。
⑥8月9日・・・第1目標・小倉、第2目標・長崎として原爆投下命令が出た。 この日、小倉上空が雲で覆われ、投下することができなかった。 そのため、原爆を積んだB29は長崎に向かった。 長崎上空も雲に覆われていたが、雲の切れ間から長崎市内を目視することができた。 午前11時2分、長崎に原爆が投下された。
⑦両都市の惨状は、想像以上のものであった。 世界中が大きな衝撃を受け、これ以降、現在にいたるまで核兵器は使用されていない。』
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2010.09.13 Mon
ジュニア選手を発掘・育成するポイント
1.日経新聞夕刊に三浦豪太さんが書かれている連載『探検学校』の9月11日分のタイトルは『「人間性と志」を磨く』でした。 抜粋し、番号を付けて紹介します。
『①先日、フジサンケイクラシック・ゴルフトーナメントにおいて、石川遼選手(18)と薗田峻輔選手(20)が史上最年少の優勝争いを行った。 2人は同じ杉並学園高の卒業生。
②彼らを見いだし、指導してきた吉岡徹治さんも2人の戦いを感慨深く見守った。 杉並学院高の元教員で、現在はジュニアゴルフマジックチームと代々木高校の監督としてジュニアを育成している。
③会合で吉岡さんの話を聞いた。 ジュニア選手を発掘・育成するいくつかのポイントにも触れ、ゴルフの才能や頭の良さと並んで「人間性と志が最も重要」という話が印象深かった。
④天性の才能や頭の良さは教えることはできないが、人間性や志は親や教師、そして指導者が導くことができる。 選手として必要とされる資質は技術よりもこの「人間性と志」なのだという。
⑤大成するには、1日8時間の睡眠以外の16時間をゴルフ中心の生活にして、練習と努力を積み重ねていかなければならないわけで、高い志がなければ続かない。』
2.公認会計士・本郷孔洋先生のブログ『ビジネスの眼』の本日分から抜粋して紹介します。
『1流と2流を分けるものは?
優秀な音楽家を分けるものは、なにかとベルリンで有名なバイオリニスト養成の音楽学校がリサーチしたところ、第一の理由は、才能ではなく、「累積の総練習時間」だったそうです。
天才タイガー・ウッズでさえ、バンカーに落としたボールを足で踏みつけ、ボールを打つにはほぼ不可能な状態から玉出しの練習を繰り返した。
「究極の鍛錬」 ジョフ・コルヴァン著 サンマーク出版より』
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2010.09.10 Fri
残っていた留守番メッセージ
昨日配信された公認会計士・藤間秋男先生のメルマガ『今週の元気が出る言葉』から抜粋し、番号を付けて紹介します。 タイトルは『残っていた留守番メッセージ』 (てっぺん大嶋啓介の【夢エール】より)です。
『①私が結婚を母に報告した時、ありったけの祝福の言葉を言い終わった母は、私の手を握りまっすぐ目をみつめてこう言った。 「私にとって、濡は本当の娘だからね」
②ドキリとした。 母と私の血がつながっていないことは、父が再婚してからの18年間、互いに触れていなかった。 再婚当時幼かった私にとって「母」の記憶は「今の母」だけで、『義理』という意識は私にはなかった。
③気になってはいてもそのことを口に出した途端、互いがそれを意識してちぐはぐな関係になってしまいそうで、聞き出す勇気は私にはなかった。 だから、母の突然でまっすぐな言葉に私は驚き、すぐに何かをいう事ができなかったのだ。
④母は私の返事を待たずに「今日の晩御飯、張り切らなくちゃだめね」と言い台所に向かった。 私はその後姿を見て、自分がタイミングを逃したことに気がついた。 そして、「私もだよ、お母さん」すぐそう言えば良かったと後悔した。
⑤結婚式当日、母はいつも通りの母だった。 対する私は、言いそびれた言葉をいつ言うべきかを考えていて、少しよそよそしかった。
⑥式は順調に進み、ボロボロ泣いている父の横にいる、母のスピーチとなった。 母は何かを準備していたらしく、司会者の人にマイクを通さず何かを喋り、マイクを通して「お願いします」と言った。 すると母は喋っていないのに、会場のスピーカーから誰かの声が聞こえた。
⑦「もしもし、お母さん。 看護婦さんがテレホンカードでしてくれたの。 お母さんに会いたい。 お母さんどこ? 澪を迎えに来て。 澪ね、今日お母さんが来ると思って折り紙をね…」 そこで声はピーっという音に遮られた。
⑧「以上の録音を消去する場合は9を…」と式場に響く中、私の頭の中に昔の記憶が流水のごとくなだれ込んできた。 車にはねられ、軽く頭を縫った小学校2年生の私。 病院に数週間入院することになり、母に会えなくて、夜も怖くて泣いていた私。 看護婦さんに駄々をこねて、病院内の公衆電話から自宅に電話してもらった私。 この電話の後、面会時間ギリギリ頃に母が息を切らして会いに来てくれた。
⑨シーンと静まりかえる式場で、母は私が結婚報告したのを聞いた時と同じ表情で、まっすぐ前を見つめながら話し始めた。 「私が夫と結婚を決めたとき、互いの両親から大反対されました。 すでに夫には2歳の娘がいたからです。 それでも私たちは結婚をしました。 娘が7歳になり、私はこのままこの子の母としてやっていける、そう確信し自信をつけた時、油断が生まれてしまいました。 私の不注意で娘は事故にあい、入院することになってしまったのです。」
⑩あの事故は、母と一緒にいるときに私が勝手に道路に飛び出しただけで、決して母のせいではなかった。 「私は自分を責めました。そしてこんな母親失格の私が、娘のそばにいてはいけないと思うようになり、娘の病院に段々足を運ばなくなっていったのです。 今思えば、逆の行動をとるべきですよね。」
⑪「そんなとき、パートから帰った私を待っていたのは、娘からのこの留守番電話のメッセージでした。 私は『もしもし、お母さん』このフレーズを何度もリピートして聞きました。 その言葉は、母親として側にいても良い、娘がそう言ってくれているような気がしたのです。」
⑫初めて見る母の泣き顔は、ぼやけてはっきりと見えなかった。 「ありがとう、濡」 隣にいる父は、少しぽかんとしながらも、泣きながら母を見ていた。 きっと、母がそんなことを考えているなんて知らなかったのだろう。 私も知らなかった。
⑬司会者が私にマイクを回した。 事故は母が悪いわけじゃないことなど、言いたいことはたくさんあったけれど、泣き声で苦しい私は、言いそびれた一番大事な言葉だけを伝えた。
「私もだよ、お母さん。 ありがとう」』
よい週末を。
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2010.09.09 Thu
チェ・ゲバラのTシャツ
作家の森絵都さんが日経新聞水曜日の夕刊で2週にわたりキューバ・ツアーの話しを書かれています。 9月1日は「キューバ紀行」、8日は「チェ・ゲバラのTシャツ」というタイトルです。 抜粋し、番号を付けて紹介します。
『①8日間ほど夏休みを取り、夫とキューバ・ツアーに参加した。 その名も〈キューバ世界遺産四都市大周遊〉。
②実は去年の夏も私たちはキューバを旅しているのだが、訪ねた先は首都ハバナとリゾート地のバラデロのみ。 今年はもっとキューバの奥部へ踏み込もうとなったわけだ。
③今回のキューバ・ツアーには全22名が参加し、そのうちの約4分の1は連れのいない単身組だった。 年齢層は思ったよりも高く、60代や70代の姿もあった。
④(中略) もう一つ、ツアー参加者の連帯を深めるのに一役買っていたのが、何を隠そうチェ・ゲバラのTシャツだった、と私は思っている。 というのも、ツアーが後半に差しかかるにつれて、参加者内における「ゲバラのTシャツを着ている率」が飛躍的に伸びていったのだ。
⑤なにせキューバ国内、空港からトイレ休憩で立ち寄る売店に至るまで、どこにでもゲバラのTシャツだけはある。 それを買って身につけ、胸にゲバラを抱いている人たちが、不思議と眩(まぶ)しく思えてくるのである。
⑥最初は抵抗があった私も徐々に傾き、「ちょっと着てみようかな」 「着なきゃ旅が終わらない」とまで思いはじめた。 残念ながらサイズの合う一枚が見つからないまま時間切れとなったのだが、その点、肝の据わったキューバ旅行者になりそこねた無念が残っている。』
うんちくを1つ。 よく目にするチェ・ゲバラのTシャツは、キューバの写真家アルベルト・コルダが1960年3月5日に撮影したゲバラの肖像写真をプリントしたものです。 ハバナ港内停泊中のフランス船『ラ・クーブル』号爆発事件犠牲者追悼の葬儀の場で撮影されました。
私がキューバに行ったのは2006年10月ですから、もう4年も経つんですね。 森さんの文章を読んで懐かしさがこみ上げてきました。
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2010.09.08 Wed
白河の水の清きに耐えかねて
江戸時代の寛政年間、十一代将軍徳川家斉の時代に「白河の水の清きに耐えかねて元の濁りの田沼恋しき」という狂歌がはやりました。 『歴史探検』というサイトから抜粋し、番号を付けて紹介します。
『①「寛政の改革」はいわゆる「田沼政治」(十代将軍徳川家治の側用人から老中に出世した田沼意次(たぬまおきつぐ)が政治活動を展開した時期)の腐敗を正そうとして白河藩主・松平定信が推進した改革でした。 改革を開始した1789年が寛政元年だったことから、「寛政の改革」と呼ばれています。
②田沼時代は「金が物を言う時代」と言われるほど賄賂や接待が横行していました。 こういう状況で老中に就任したのが精錬潔白な松平定信でした。
③松平定信は老中に就任すると新将軍徳川家斉の許で改革に着手しました。 定信は田沼意次を罷免すると田沼派を一掃、その処罰は公職から一切追放するという厳しいものでした。 こうして頽廃していた幕府重役たちを一掃したことによって、江戸市民も定信の登場を歓迎しました。
④しかしあまりにもクリーンな政治を目指していた松平定信は細かいところにまで制限を加えるようになり、ついに改革に期待していた江戸市民も反発するに至りました。
⑤そしてついには、かつての「田沼政治」が懐かしいという次のような狂歌まで詠まれる始末です。
「白河の水の清きに耐えかねて元の濁りの田沼恋しき」
⑥こうして「寛政の改革」は終焉を迎えました。 定信があまりにもクリーンな政治を目指し過ぎて、将軍家斉の考えにまで反発して疎まれ、これを直接の原因として失脚、1793年(寛政5年)に辞任しました。』
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2010.09.07 Tue
J.C.オカザワさん『小沢一郎は♠のエース』
作家・経済評論家の邱永漢(きゅう・えいかん)先生のサイト『もしもしQさんQさんよ』の中でJ.C.オカザワさんのブログ『食べる歓び』を見ることができます。 今日のタイトルは『小沢一郎は♠のエース』です。 抜粋し、番号を付けて紹介します。
『①当「食べる歓び」は食にまつわるコラムなので、ほかの話題はあまり取り上げてこなかった。 (中略) そんな思いでいたがことここに至り、ちょいと言わせてもらいましょうか、てな気分になった。
②実は民主党代表戦のことである。 (中略) 1日の共同記者会見を見れば、どちらが勝つか、あるいはどちらが勝つべきかは誰の目にも明らかで、小学生でも容易に判別できる。
③それにしても小沢一郎の不人気はどうしたことだろう。 というか、あの世論調査っていったい何なのだ? これがネット調査だと、一転して小沢リードというからネットオンチばかりが世論調査の答え手なのだろうか。
④小沢と菅の政治家としての力量差には相当の開きがある。 かたやメジャーリーガー、こなた甲子園球児といったところだ。
⑤菅には悪いが彼は貝割れ大根をムシャムシャと2人前、平らげただけの人。 J.C.はその当時から一貫してそう決め付けている。
⑥一方の小沢はここ2四半世紀、日本でもっとも優れた政治家であり続けてきた。 およそ20年前のことながら、アメリカ政府がリスペクトする日本の政治家は小沢一郎しかいないことをウォール街で働いていて肌で感じた。
⑦回り道、あるいは迷い道、はたまたけもの道、総じていばらの道を歩んだ末に今ようやく総理の座につこうとしている小沢である。
⑧この国はこれまでロクでもない首相を乱造して列強の失笑をどれだけ買ってきたことだろう。 最強のカード、♠のエースを使わずに、いや、エースの存在を気づきもせずに屑札ばかりで勝負してきた。
⑨これじゃ国際Aマッチで勝てる道理がない。 たまにキングやエースが出てきても、いいとこ♥どまり。 貝割れオヤジなんか、♣の9か10が御の字でちょいと贔屓目に見てやってジャックがせいぜいだ。
⑩加えて仲良し♣の取り巻きがヒドすぎる。 (仙)人は滑って(谷)底に落ち、(枝)葉は燃えて焼け(野)原。 崩壊寸(前)の(原)っぱにペンペン草が生え、(岡)の上の(田)んぼは干上がっている。
⑪エッ? 歴代首相では小泉が♠のエースだろう、って? トンデモない、あの容貌はどう見てもジョーカーでしょうよ。
⑫エッ? ジョーカーはオールマイティで最強だろう、って? バカ言っちゃいけません。 真っ当なゲームにジョーカーの出る幕なんかありゃしませんぜ。 ババが出るのはババ抜きだけと、昔から相場が決まってやんす。』
川島智太郎、ガンバレー!
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2010.09.03 Fri
初代横綱若乃花死去
私の人生で最初のヒーローは若乃花です。 小学校一年生の時に読んだ漫画『西遊記』の孫悟空のせりふに「おいらは強い若乃花と相撲がとりたい」とあったことが思い出されます。 その若乃花が9月1日に亡くなりました。 今朝の朝日新聞の『天声人語』から抜粋し、番号を付けて紹介します。
『①1934(昭和9)年の秋、関西で3千人の命を奪った室戸台風は東北に再上陸し、青森のリンゴ農家を打ちのめした。 土地に見切りをつけ、その一家が北海道に渡らなければ、戦後の大相撲は何人かの看板力士を欠いたはずだ。
②82歳で逝った名横綱、初代若乃花の花田勝治さんは、両親が出直した室蘭で長男として大家族を支えた。 200キロの鉱石を天秤棒(てんびんぼう)で担ぎ、岸壁と船を結ぶ板の上を運ぶ毎日。 荷役で鍛えた体は近辺の村相撲を席巻し、東京に聞こえるまでになる。
③入門は18歳と遅かった。 北の大地では、稼ぎ手を送り出した親と弟妹たちが出世を待っている。 戦後の食糧難の中、空腹に耐えて滝の汗を流したのは、関取になるまで帰らないと決めていたためだ。
④美しい土俵だった。 軽量ながら、全身これ筋肉。 上体の動きに連動して、太ももからふくらはぎに彫刻のような陰影が走った。 「栃若時代」はテレビの普及期に重なり、スピード感あふれる技の出し合いが相撲ファンのすそ野を広げた。
⑤22歳下の弟は名大関貴ノ花、その息子の若貴兄弟はそろって綱を張った。 青森から北海道を経て、花田家は両国に太い根を下ろす。
⑥数々の逆境を乗り越えた「鬼」にも「胸にうずき続ける痛切な傷痕(きずあと)」があった。 綱とりの場所、煮えるちゃんこ鍋に落ち、4歳で亡くなった長男勝男ちゃんのことだ。 角界の現状を栃錦と嘆く前に、時を忘れて抱きしめているだろう。 間もなく命日である。』
9月に入っても暑い日が続いています。 よい週末を。
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2010.09.02 Thu
鳥飼重和先生『共感は資産家になる秘訣』
弁護士の鳥飼重和先生のブログ『鳥飼日記』を毎日読ませていただいています。 今日のタイトルは『共感は資産家になる秘訣』です。 抜粋し、番号を付けて紹介します。
『①「類は友を呼ぶ」という法則がある。 幸福な人は幸福な人と集まる。 不幸な人は幸福な人の集まりを避ける。 成功者は成功者が好きである。 成功しない者は、成功者を好きになれない。
②幸福になる人は、幸福感を味わえることを好む。 他人の幸福の話でも、幸福感を味わえる人は、幸福になるしかない。 常に幸福感に満たされるから、幸福が必然的なものとなるからである。
③成功者になる人は、成功感覚を味わうことを好む。 他の成功者の話に、共感や感動を味わえる人は、成功者になるしかない。 成功者の感覚を身に付けるのであるから、成功は必然的となるからである。
④幸福であれば、他人の幸福でも受け入れられるか? 成功であれば、他人の成功でも喜べるか? この質問に、「はい」と答えるか、「いいえ」と答えるか。 そのことで、自分の未来を予測することができる。 幸福な人・成功者と同類か、不幸な人・成功しない者と同類かが分かるからだ。
⑤幸福になれる人は、幸福な人と同類であり、幸福になる考え方をする。 成功者になれる人は、成功者と同類であり、成功者になる考え方をする。
⑥幸福な人に嫉妬すれば、幸福な人と同類にはなれず、不幸を招く。 成功者のあらを探すようでは、成功者と同類にはなれず、成功と縁がなくなる。
⑦幸福になりたいのか? 成功したいのか? 幸福になりたいなら、幸福な人と同類となる考え方にしたらいい。 成功したいなら、成功者と同類となる考え方をしたらいい。 考え方を変え、その考え方に沿った行動を繰り返せばいいのである。 難しく考えることはないし、難しいことをすることもない。
⑧嬉しそうに話す人の嬉しそうな姿に共感すればいい。 嬉しいという話し手の感覚を神様からのプレゼントとして頂戴するのである。 「嬉しい」感覚を自分のものにするのである。 その結果、そのような感覚が種となる。 その種が、自分の心の土壌の中で育っていくのである。
⑨時間が経てば、その種が花を咲かせ、実となるである。 種である「嬉しい」感覚どおりの現実になる。 人間は、自分の感覚どおりの現実を創ることになるからである。
⑩嬉しさの共感は、嬉しい人と同類となり、自分も嬉しさを味わえるようになる秘訣。 他人の嬉しさは、お金以上の価値のある無形の資産である。 その資産をもらうことが共感の意味である。 共感は、自分を幸福や成功に関する資産家にする秘訣なのである。』
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