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2009年03月 | ARCHIVE-SELECT | 2009年05月

間違えやすい敬語ランキング

4月18日付けの日経新聞・別紙『日経プラスワン』で「間違えやすい敬語ランキング」が取り上げられていました。  ビジネスに携わる100人に街頭テストを実施し、間違った表現を正しいと答えた人が多い順にランキングされています。  番号はランキング順位、()内の人数が街頭テストで間違えた人の数、「→」の前が間違った表現、「→」の後ろが正しい表現、「・・・」の後が間違いの理由です。

1.(67人)ご拝読いただきありがとうございます。→ご覧(お読み)いただきありがとうございます。・・・「拝」は「謹んで」という意味の謙譲語で自らの行為をへりくだる際に使う。  尊敬語と取り違えて使用している。

2.(61人)○○は本日お休みをいただいております(社外からの電話に)。→○○は休みを取っております。・・・休みを与えているのは本人の所属する会社。  「いただく」が自社に対してへりくだる形になっている。

3.(58人)○○様でございますね(来客に)。→○○様でいらっしゃいますね。・・・「ございます」は「ある」の丁寧語。  「かばん」「コート」など物には使うが、敬意を示す相手には使わない。

4.(54人)コーヒーと紅茶どちらにいたしますか。→コーヒーと紅茶どちらになさいますか。・・・謙譲語と尊敬語を取り違えている。

5.(51人)お子様に差し上げてください(目上の人に贈り物を託して)。→お子様に差し上げます(お渡しいただけますか)。・・・「差し上げる」は謙譲語。  相手を経由する場合は不適切。

5.(51人)お求めやすい○○(接客の場で)。→お求めになりやすい○○。・・・「求める」の尊敬語は「お求めになる」。

7.(45人)ご注意してください(接客・公共の場で)。→ご注意ください。・・・「お(ご)~する」という謙譲表現を取り違えて使っている。

8.(44人)お分かりいただけたでしょうか(商談で)。→ご理解いただけたでしょうか。・・・目上の能力を試したり評価している印象を与えてしまう。

9.(43人)ご助言参考になりました(上司に対して)。→勉強になりました。・・・相手の好意への感謝としては不十分。  「参考程度」とみなされる。

10.(39人)上司にも申し上げておきます(商談で)。→伝えておきます(申し伝えておきます)。・・・社外の人の前で上司を高める形になっている。

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『四元義隆の生涯』

1.『昭和激流 四元義隆の生涯』(金子淳一著 新潮社刊)から抜粋し、番号を付けて紹介します。

『①四元義隆(よつもと・よしたか 1908~2004)の生涯を昭和史とのかかわりで見ていくと大まかにいって三つの時期に分けられる。  第一の時期は昭和3年4月、四元が郷里・鹿児島を出て東京帝国大学法学部に入学してから、学生組のリーダーとして血盟団事件(前蔵相・井上準之助や三井の総帥・団琢磨が暗殺される)に参画し、逮捕される昭和7年3月までである。

②第二の時期は昭和15年9月、小菅刑務所を仮出所した後、時の首相・近衛文麿や後に国務大臣になる緒方竹虎の知遇を得て活躍した時である。  (中略)

③第三の時期は「ワンマン宰相」と呼ばれた吉田茂に信頼されたことから始まる。  (中略)  その後四元は歴代首相の中で池田勇人、佐藤栄作、福田赳夫、大平正芳、中曽根康弘、竹下登、宮沢喜一、そして平成5年の細川護熙まで、首相官邸や公邸、そして首相私邸へ赴き、政局の節目節目に進言やアドバイスを続けたのである。』

2.1993(平成5)年11月9日、私は四元先生の講演会を聞く機会に恵まれました。  その時のメモが手もとにあります。  そのメモによると、リーダーの条件として、①人に好かれること、②大事な時に逃げない(責任を取る)こと、③先見性(直観力)があること、④決断ができること、を挙げられています。

3.本書の序章に次のような記述があります。  抜粋し、番号を付けて紹介します。

『①四元の思想と行動の原点について触れておくことにする。  私は、その原点が二つあると考えている。  一つは四元が幼少時代を過ごした故郷・鹿児島の風土である。  (中略)

②もう一つの原点は血盟団事件で逮捕された後の8年6ヵ月に及ぶ獄中生活とその間の徹底した座禅修行である。  かって四元は「小菅は自分を鍛える道場だった」と語っていた。  寝る時間がない程座禅に専念したというのだ。』

講演会の後の懇親会の席で、私にも座禅を勧められ、京都・建仁寺(けんにんじ)の素堂老師あての紹介を名刺に書いていただいたことが思い出されます。

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近藤道生さん『東郷平八郎元帥』

1.4月13日のブログでも取り上げた博報堂最高顧問・近藤道生(こんどう・みちたか)さんが書かれている日経新聞の月次連載『私の履歴書』4月25日分からです。  

2.昭和48(1973)年6月に大蔵省を退官(退官時は国税庁長官)した近藤さんは、昭和50(1975)年7月16日に博報堂の社長に就任します。  ところが、10月3日に博報堂本社は東京地検特捜部の家宅捜索を受けます。  容疑は前社長と側近に対する商法の特別背任です。  翌昭和51(1976)年1月27日、前社長と側近三人が逮捕されます。

3.『私の履歴書』から抜粋し、番号を付けて紹介します。

『①昭和50(1975)年10月28日、旧本社の「大教室」と呼ばれる部屋で幹部社員約400人を集めて定例運営会議が開かれた。  (中略)

②そして私は続けた。「いまの博報堂は確かに泥舟である。  私が頑丈な鋼鉄の船に作り替えるから、皆さんは安心して持ち場を守ってほしい。

③日露戦争の日本海海戦でバルチック艦隊を迎え撃った東郷平八郎元帥は、旗艦(きかん・・・艦隊の司令官・司令長官が乗っていて、艦隊の指揮をとる軍艦のこと)三笠の艦橋(かんきょう・・・艦船の甲板上に高く設けられた望楼状の構築物で、航行中、操船・通信などを指揮する所)で微動だにしなかった。  戦闘が終わったとき波に洗われた艦橋には、元帥の足跡だけが乾いて残っていたという。

④私も元帥のひそみに倣い(顰みにならい・・・人にならって同じようなことをすること)、決して艦橋から動かない。  よって、各員一層奮励努力していただきたい」』

4.三年ほど前、神奈川県横須賀市の三笠公園に展示されている『三笠』を見ました。  中に入って、東郷元帥が立ち続けたという艦橋にも登ってみました。  船体、艦橋ともに想像していたものよりはるかに小さく感じました。  下の写真はその時買い求めた絵葉書(日本海海戦時の連合艦隊旗艦〝三笠〟前艦橋の図)です。  一番手前、左手で軍刀を持って立っているのが東郷元帥です。  同じ絵が三笠内部の記念館にも展示してあります。


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(55)1998年 城西20周年

1.総本部事務局資料によると1998年(平成10年)3月1日に横山誠が北海道函館支部長、4月1日に澤田乃基が北海道胆振支部長、7月1日に成田武治が横浜川崎支部長(当初は本部直轄横浜桜木町道場責任者)にそれぞれ就任しています。

2.①4月18日、フランスのパリ・ベルシー総合体育館でワールドカップ・パリ大会が開催されました。  松井館長を始めとしてほとんどの国内支部長が参加しました。

②軽量・中量・軽重量・重量・無差別の5階級の団体戦です。  城西関連では福田達也が日本Aチームの中量級、市村直樹が日本Bチームの軽重量級、田村悦宏が同じく日本Bチームの無差別級にそれぞれ出場しました。

③2回戦で日本Bチームが優勝候補の南米チームと対戦します。  中量級の木立裕之選手がアンデルソン・ダ・シルバ選手(ブラジル)に延長1回判定勝ちしますが、重量級で守友完矢選手がグラウベ・フェイトーザ選手に上段膝蹴りで一本負けします。  勝ち数は1対1なのですが、一本勝ちは5ポイントなので、ポイント差で南米チームが勝ち上がりました。

④決勝戦は日本Aチームと南米チームの対戦となります。  中量級で福田達也がアンデルソン・ダ・シルバ選手に延長1回判定勝ちします。  またその延長戦でシルバ選手が掴みの反則で減点1を取られたため、ブラジルのポイントは-3になりました。

⑤重量級で高尾正紀選手がグラウベ・フェイトーザ選手に上段膝蹴りで合わせ一本負けし5ポイント奪われたため、勝ち数では並んでいるものの、南米チームがポイントで2ポイント上回っています。

⑥引き分けでも南米チームが優勝という状況の中で、無差別級の数見肇選手がセルジオ・コスタ選手に本戦判定勝ちし、日本Aチームが勝ち数2対1で優勝しました。

3.①6月22日、東中野道場を開設しました。  大山総裁体制での東京都下・城西支部の分支部長が松井館長体制になってからは独立して支部長になりました。  私は自分の道場を持たずに西関東地区本部長として極真会館の組織の役員のみを務めている時期が数年ありました。

②3月に城西中野支部長の黒澤浩樹が極真会館を退館しました。  組織的には黒澤の退館で中野付近に道場を出す必要に迫られました。

③私は数年間マンション販売事業を行なっていましたが、その事業から撤退したため時間が取れるようになっていました。  自分自身の中でもう一度現場指導に戻り、選手育成を図りたい気持ちが湧いてきます。  東中野にスペースが見つかったため、東京城西支部として再スタートすることにしました。

4.第30回全日本大会翌日の11月16日、新宿の京王プラザホテルで城西支部創立20周年記念パーティーが開かれました。  松井館長を始めとして多数の方々に出席していただきました。

日曜日は大山総裁の命日です。  よい週末を!  

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磯田道史さん『高橋是清』

1.4月18日の朝日新聞別紙「be on Saturday」の「磯田道史のこの人、その言葉」は高橋是清(たかはし・これきよ 1854~1936)を取り上げていました。  磯田道史(いそだ・みちふみ)さんは歴史学者・茨城大学准教授です。  番号を付けて紹介します。

『①高橋是清は戦前の蔵相・総理大臣。  不遇の育ちのわりに性格が明るく周囲は首をかしげた。  一体、人間は大不幸に遭(あ)うと、楽観的に物を考えられなくなるが、高橋はそうでなかった。

②高橋はその生まれからして波乱。  母は15歳の少女。  奉公先の主人に妊娠させられ高橋を生んだ。  生後3、4日で仙台藩の足軽・高橋家の里子に出され、生母と離された。  生母とは2歳時に一度、お宮の境内で対面したきりである。  9歳になって母の家を探しあてたが、母はすでに世を去っていた。

③1867(慶応3)年、13歳でサンフランシスコに留学。  しかし人を疑わぬ年頃、英語で「何が書いてあるか薩張(さっぱ)りわからない」書き付けにサインしてしまい、奴隷(どれい)に売られた。

④その後も、投資話にのせられて大損。  ペルーの鉱山開発では、家屋敷を売る羽目になった。 

⑤ところが高橋は一貫して楽観主義者で前向き。  それには幼時のある事件が原因していると、本人が『高橋是清自伝』に書いている。

⑥高橋は2、3歳のころ誤って藩主の奥方の前に飛び出した。  しかも奥方のきれいな着物をつかみ「おばさん、いいべべだ」といった。  周囲は顔面蒼白(がんめんそうはく)。  しかし奥方はそんな高橋を可愛いと思ったのか大喜び、しかるどころか色々な品を与えて帰した。

⑦足軽の子が奥方に召されるなど例がない。  足軽長屋の人々から「高橋の子は幸福者(しあわせもの)よ」と言われ続けて育った。

⑧「自分は幸福者だという信念が、その時分から胸中ふかく印(いん)せられ」どんな失敗をしてもいつか自分には運が巡ってくると信じて努力する癖がついたという。

⑨自分は運がいいと思って生きる大切さを物語っている。』

2.見出しで取り上げられている高橋是清の言葉は次のようなものです。

『それでどんな失敗をしても、窮地に陥っても、自分にはいつかよい運が転換してくるものだと、一心になって努力した。』

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茂木友三郎さん『けいこと型』

今週の日経新聞夕刊の連載『こころの玉手箱』はキッコーマン会長・茂木友三郎さんが書かれています。  昨日のテーマは『相撲観戦・・・「けいこ」と「型」はビジネスに通じる』でした。  抜粋し、番号を付けて紹介します。

『①相撲が大好きで、相撲観戦は一番の趣味だ。  (中略)  東京の場所では、必ず一回は観戦に行っている。  短時間に力と技で勝負を競うところが魅力だ。 

②ビジネスマンも相撲から学べる点が二つある。  一つは、けいこ(稽古)をしなくては強くなれないということだ。  天才でも、けいこをせずに強くなった力士はいない。  ビジネスでも、安直にもうけようとするから、バブルが起きるのだ。

③また勝つには自分の型が必要である。  右四つか左四つか、組むのか離れて取るのか、その型をもとに得意技をもたなければ駄目だ。  ビジネスも個人、企業を問わず、何でもできるというのは中途半端に終わる。』

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オスカー・デラホーヤ引退

1.小さい頃からボクシングが好きで、今でもWOWWOWの「エキサイトマッチ」をよく見ます。  

2.3度ヘビー級タイトルを奪取したモハメッド・アリ、WBC2度・WBA2度・IBF1度のヘビー級タイトル保持者だったマイク・タイソン、ミドル級からヘビー級まで4階級制覇したロイ・ジョーンズ・ジュニア、ウェルター級からライト・ヘビー級まで5階級制覇したシュガー・レイー・レナードのファンでした。

3.4月14日、同じく大好きだったオスカー・デラホーヤ選手が引退会見を行ないました。  4月18日の朝日新聞夕刊の「窓」に論説委員の速水徹さんが記事を書かれていたので、番号を付けて紹介します。

『①「ゴールデン・ボーイ」。  こんな愛称で絶大な人気を誇るボクサーがリングを下りた。  オスカ・デラホーヤ、36歳。  プロボクシング史上初の6階級制覇を成し遂げた不世出(ふせいしゅつ)のスターが14日、現役を退くことを表明した。

②1992年バルセロナ五輪。  まだあどけなさが残る19歳の姿を、今も覚えている。  ライト級決勝のリングに上がった時、デラホーヤは空(くう)を見上げた。

③何を思ったのか。  優勝後にたずねたら、「2年前にがんで亡くなった母のことが頭をよぎった」と答えた。  ロサンゼルス市郊外の、豊かではない地域に生まれ育った。  幼いころはけんかに明け暮れた。

④「五輪の王者になるんだよ」。  母が言い残した言葉が、心の支えだったという。

⑤この大会で五輪へ復帰したキューバ勢の躍進(やくしん)が目立つ中、米国選手で唯一の金。  愛称は、ボクシング強国の面目を守った少年への賞賛と親近感をこめて、つけられたのだと思う。

⑥五輪後、プロに。  94年、世界ボクシング機構(WBO)スーパーフェザー級で王座を奪ったのを皮切りに、04年のWBOミドル級まで6階級を制す。  72.58キロが上限のミドル級までの体重差は約13.6キロ。  体が重くなれば動きは鈍(にぶ)るものだが、身上のスピードは衰(おとろ)えなかった。

⑦恵まれない子供への慈善(じぜん)活動にも力を注ぐなど、誠実な人柄(ひとがら)で愛された。  グローブは置くが、戦績の輝きが失われることはない。  時を経ても、「黄金の少年」であり続けるだろう。』

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岡本信さん

1.昨日は府中で支部内交流試合でした。  140名を超える参加者でしたが、試合を2面で行い、進行もスムーズで午後1時には終了しました。  中央高速で帰宅し、シャワーを浴びたあと2時頃から食事をしました。

2.テレビをつけるとNHK衛星第2放送で『グループサウンズ大全集』という番組の再放送をやっていました。  私の中学時代はグループサウンズの全盛期です。  堺正章さんや井上順さんのいた「ザ・スパイダース」、沢田研二さんや岸部修さん(現在の俳優・岸部一徳さん)のいた「ザ・タイガース」、萩原健一さんのいた「ザ・テンプターズ」などが人気でした。

3.テレビでは「ザ・ワイルドワンズ」が何曲か演奏した後、加山雄三さんがジョイントされていました。  一緒に見ていた家内に「俺は岡本信が見たいよ~」と言ってテレビを消しました。  岡本信さんは「ザ・ジャガーズ」のボーカルで、中学時代の私にとってあこがれの人でした。  

4.今朝7時に起きた私はいつも通り、朝日新聞の朝刊を社会面から読み始めます。  しばらくして、ある記事が目に留まり、思わず「あーッ」と叫んでしまいました。  次のような内容です。

『元ザ・ジャガーズ 岡本信さんが死亡  自宅浴槽で、病死か

グル-プサウンズのバンド「ザ・ジャガーズ」の元ボーカル岡本信(59)さんが19日、東京都北区西ヶ原3丁目の自宅マンションの浴槽内で死亡しているのが見つかった。  警視庁は状況から、病死の可能性が高いとみている。  

滝野川署によると、同日午後2時半ごろ、訪ねてきた知人女性が、水を張った浴槽内に沈んで死亡している岡本さんを発見し、110番通報した。  目立った外傷はなく、遺書なども見つかっていないという。  岡本さんは一人暮らしだった。  ザ・ジャガーズは「君に会いたい」などがヒット。  解散後、岡本さんはソロとして活動していた。』

「午後2時半ごろ」というと、ちょうど私が「俺は岡本信が見たいよ~」と言った時間あたりです。  

5.素敵なボーカルで、特に「キサナドゥーの伝説」が最高でした。  今朝のテレビ報道によると、岡本さんは今日4月20日が誕生日で、還暦のお祝いのパーティーを、昨日19日に元メンバーたちとする予定だったそうです。

ご冥福をお祈りいたします。  合掌。  

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張本勲さんとイチロー選手

1.イチロー選手はワールド・ベースボール・クラシック(WBC)を終えシアトル・マリナーズに合流した後、胃潰瘍(いかいよう)と診断されて15日間の故障者リスト入りし、開幕戦から8試合を欠場していました。

2.4月15日の本拠地シアトルでのアナハイム・エンゼルス戦に今季初出場し、2安打を放ち(2本目は満塁ホームラン)、張本勲さんの持つ日本プロ野球記録の3085安打に日米通算で並びました。

3.今朝の日経新聞に「超一流打者2人の思想と行動には、それぞれの時代の空気が色濃く反映されている」という、張本さんとイチロー選手とを対比した記事が出ていました。  抜粋し、番号を付けて紹介します。

『(1)張本勲さん

①腹いっぱい食うには、打つしかなかった。  張本氏は母を〝トタン屋根〟から開放するため、1本でも多くのヒットを求めた。  原動力は、まさに「生活のため」だった。

②広島の原爆で姉を失った。  右手を大やけどするハンディも負った。  貧困や苦境を人一倍の負けん気ではね返した。  「野球が駄目なら生活が駄目になった。  必死に戦ってきた理由はそこですよ」

③戦後の混乱から高度成長期にかけ、猛練習でわが道を切り開いた。  「野球とは生活そのもの」。  日本の激動期を行き抜いた誇りが伝わってくる。

(2)イチロー選手

①イチローは「野球は趣味に近いもの」と大先輩にひょうひょうと肩を並べた。  

②「数字を目標にすると、そこに達したあとの気持ちの持ちようが難しくなる。  お金を目標にしても同じこと。  でも、面白いからやるという姿勢で取り組めば、そこに限界はない」  やる気の泉を枯れさせないイチロー流の工夫がある。

③ハングリー精神を頼りにした張本氏に対し、イチローはドライに自分を見つめる。  現実を客観的に分析し、次の行動を的確に決める。  地道な繰り返しを支えるのは克服と発見の喜びだ。  「面白いからやる」と言い切れる者は強い。』

4.それに続く記事も紹介します。

『①張本氏は「一番すごいのはあの精神力。  私なんかよりもずっと強い」とイチローを手放しで褒(ほ)める。

②「今の人たちはすぐおなかいっぱいになる。  彼は全然違うね。  あれだけの富を得て、なおかつあれだけの数字を重ねていくんだから本当にたいしたものですよ」

③平成のヒットマシンが昭和の安打製造機に並び、コントラストはより鮮明になった。』

2005年7月25・26日の両日、イチロー選手の試合を見にシアトル・セーフィコ・フィールドへ行ったことを思い出します。  

オールアメリカン大会が6月20日に決まったそうです。  都合がつけばニューヨークに行って、今年建て替えられたヤンキースタジアムで松井秀喜選手を応援したいな~(笑)。

日曜日は府中で東京城西の支部内交流試合です。  よい週末を!

















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相田みつをさん『あやまりッぷりのいい人間』

1.今朝配信された携帯サイト『相田みつをの心ー今日のことば』を紹介します。

『 ベんかいの
  うまい人間

  あやまりッ 
    ぷりの
   いい人間 

     みつを 』

2.相田みつをさんのご長男で「相田みつを美術館」館長・相田一人(あいだ・かずひと)さんの解説も番号を付けて紹介します。

『①何か失敗をして人に迷惑をかけたら、まず理屈抜きで、「申し訳ありません。  私の責任です。」と謝る。 釈明や弁明はその後。

②幼い頃から父・相田みつをに何百回と言われたことです。

③でも、私の場合ミスをすると、いまだに、とっさに口から出てくるのは下手な言い訳です。』

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江原啓之さん『一難去ってまた一難』

『ことたま』(江原啓之著 徳間書店刊)を毎朝一項目ずつ読んでいます。  今朝は『一難去ってまた一難』の項を読みました。  抜粋し、番号を付けて紹介します。

『①身も蓋(ふた)もないようなことを言うようですが、人生とは一難去ってまた一難の繰り返し。  なぜなら、人は試練からさまざまなことを学び、たましいを向上させるために生まれてくるのですから。

②つまり、スピリチュアリズムの視点から見れば、このことわざは「ひと学び終えたら、またひと学び」。  私に言わせれば、「ナン」はインド料理だけにしてほしいのですが(笑)。

③「難」を「災難」だと思うと感謝できませんが、「難」を「学び」に置き換えてみたならば、試練を乗り越えるために昇級したと考えることができる。

④何度も同じような試練を体験するのなら、それは留年。  他人の人生から学ぶとしたら、それは予習。  過去を振り返って、自分を戒めるのは復習なのです。

⑤もう留年は嫌だと思えば、努力をするしかありません。  その結果、次の試験ではよい成績を修め、昇級が決まれば嬉しいはず。  次も頑張るぞ、と思うことができるのです。

⑥もちろん昇級すれば、さらなる努力を強(し)いられますが、あのときも頑張ることができたのだからという自信がついています。  そして、絶対に達成感を味わってみせるぞと意欲が湧(わ)いてくるでしょう。  こうやって、人は自分を鍛えて、どんどん強くなっていくのです。  (中略)

⑦ただし、どんな場合も謙虚さを忘れてはいけません。  

⑧お金でいえば、お金には人の念が籠(こ)もっていますから、カルマ祓(ばら)いを心がけてください。  大きな会社が寄付活動をするのは、そうしたことと無縁ではないでしょう。

⑨個人でいえば、税金を払うということがカルマ祓い。  脱税をしたりして、せっかくつかんだ財をなくす人は、目に見えない力を侮(あなど)っているのです。』

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無学祖元『莫妄想』

1.昨日のブログで取り上げた鎌倉時代の禅僧・無学祖元(むがくそげん)と執権(しっけん・・・鎌倉幕府で政務を統括した最高の職のこと)・北条時宗(ほうじょう・ときむね)との交流が今日のテーマです。

2.無学祖元についてネットで検索してみました。

『無学祖元(1226~1286)は、南宗出身で、臨済宗の禅僧。  弘安二年(1279)、八代執権・北条時宗の招きで来日。  初め建長寺に入り、弘安五年(1282)、円覚寺の開山(かいさん・・・寺を開いた人のこと)となる。  禅宗に大きな影響を与えた。』

3.北条時宗についてもネットで検索してみました。  抜粋し、番号を付けて紹介します。

『①北条時宗(1251~1284)は、五代執権・北条時頼の嫡男(ちゃくなん)として建長三年に生まれた。  十三歳で執権を補佐する連署(れんしょ)となり、十八歳の若さで第八代執権に就任。  

②しかし時宗を待っていたのは、かってない国難であった。  文永十一年(1274)の「文永の役(ぶんえいのえき・・・時宗23歳)」と弘安四年(1281)の「弘安の役(こうあんのえき・・・時宗30歳)」の2度に渡る元軍の侵略攻撃であった。

③元の国使を処刑したり、派兵を計画したり、防塁(ぼうるい・・・防御用の土塁や石のこと)を構築したりして、又、神風(かみかぜ・・・危機を救おうとして神が吹かせるという激しい風のこと)の台風の恩恵もあってこの難局を乗り切った。  

④時宗は禅宗に深く帰依(きえ・・・神仏によりすがること)し、文永・弘安の役で亡くなった敵味方の霊を慰める為、円覚寺を創建(そうけん・・・初めて建てること)した。   時宗は33歳の若さで亡くなったがその生涯は元寇(げんこう・・・元軍の来襲のこと)と言う国難との戦いの生涯であった。』

4.①元軍の来襲前、北条時宗は強大な敵とどう戦えばよいかと悩みに悩み、無学祖元の元に参禅しました。  祖元は「莫妄想(まくもうそう・・・妄想すること莫(なか)れ!)」と書いて時宗に示したそうです。

②それは、「うまくやろうとか、どうしたら勝てるとか、負けたらどうしようかとか、そのような雑念を起こすときではない。  今やるべきことに専心せよ」という意味です。

③「莫妄想」は中国唐時代の禅僧・無業禅師(むごうぜんじ 760~821)の言葉です。

5.2001年のNHK大河ドラマは『北条時宗』でした。  毎週欠かさず見ていました。  北条時宗役が和泉元彌さん、無学祖元役が作家の筒井康隆さんという今から思えばちょっと不思議なキャスティングでした(笑)。

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近藤道生さん『三尺の剣』

1.今月の日経新聞の『私の履歴書』は博報堂最高顧問の近藤道生(こんどう・みちたか)さんが書かれています。  4月12日は『三尺の剣』という題でした。  第二次世界大戦の終戦を海軍主計大尉としてマレーシアのペナン島で迎えた直後のイギリス軍中尉とのやり取りがその内容です。  抜粋し、番号を付けて紹介します。

『①ある日、仮眠中の私は急を告げる声に起こされた。  深夜の桟橋(さんばし)に駆けつけてみると赤十字のマークをつけて梱包した医薬品の木箱が略奪されようとしている。  相手は英軍の中尉以下二十人ほどだ。

②私はとっさに木箱を担ぐ兵に向かって「右向けー、右。  駆け足」と号令をかけた。  (中略)  すると自動小銃を持った中尉が叫びながら近寄ってきて、私の腰にぐいと銃口を押し当てる。

③「死」の一文字とともに脳裏に浮かんだのは、宋から日本にやってきて円覚寺を開いた鎌倉時代の禅僧、無学祖元(むがくそげん)の言葉だった。  

④「珍重(ちんちょう)す大元三尺の剣、電光(でんこう・・・稲妻のこと)影裏(えいり・・・瞬間のこと)に春風を斬る」  祖元がまだ宋にいるとき元の軍隊がなだれ込んできたが、祖元一人が逃げずに座禅に没頭していた。  その祖元が元の兵士に大剣を突きつけられながら朗誦(ろうしょう・・・声高に読み上げること)したとされる言葉だ。

⑤大意は「大元の兵隊から三尺の剣を喜んでいただこう。  しかし斬ったところで春風のように(稲妻のごとき瞬間に春風を斬るように)手応えのないことだろうよ。  死ぬもよし生きるもよし。  どうぞご自由に」。

⑥やがて英兵は諦(あきら)めて去っていった。』

2.昨日は田村悦宏の結婚式でした。  羽織袴姿の新郎のウクレレの弾き語り(曲は「君といつまでも」)は最高でした(笑)。  タムラ~、オメデト~!

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(54)1998年 15回ウェイト制・30回全日本

1.1998年(平成10年)6月27・28日、大阪府立体育会館で第15回ウェイト制大会が開催されました。  城西関連の入賞者を紹介します。

①軽量級・・・尾崎亮(城西世田谷東支部)がベスト8に入りました。  1回戦・不戦勝、2回戦・延長1回判定勝ち、3回戦・本戦判定勝ちします。  4回戦は有永浩太郎選手に延長1回判定勝ちしますが、準々決勝で伊藤慎選手に延長1回判定負けします。

②中量級・・・荒井裕志(城西世田谷東支部)が優勝、横山誠(北海道函館支部)が4位入賞しました。  荒井は1回戦・2回戦・3回戦とも本戦判定勝ちします。  4回戦は正道会館の工藤健太郎選手に本戦判定勝ち、準々決勝は竹石修選手に延長1回判定勝ち、準決勝は横山に延長1回判定勝ち、決勝はホスロ・ヤクビ選手に延長1回判定勝ちしました。

横山は1回戦・上段廻し蹴りと中段膝蹴りの合せ一本勝ち、2回戦・3回戦・4回戦は本戦判定勝ちします。  準々決勝は高見彰選手に本戦判定勝ちしますが、準決勝で荒井に延長1回判定負けします。  3位決定戦は棄権しました。

③軽重量級・・・杉山史紘(城西野方支部)がベスト8、御子柴直司(横浜北支部)が準優勝します。  1回戦シードの杉山は2回戦・3回戦で本戦判定勝ちしますが、続く準々決勝で林圭一選手に本戦判定負けしました。

御子柴も1回戦シードで、2回戦は徳田忠邦選手に本戦判定勝ち、3回戦は田村隆行に体重判定勝ちします。  準々決勝は伊佐治和雄選手に下段廻し蹴りで合せ一本勝ち、準決勝は河岡昌俊選手に下段廻し蹴りの技有りを含む本戦判定勝ち、決勝は門井敦嗣選手に延長1回判定負けでした。

④重量級・・・佐野忠輝(城西世田谷東支部)がベスト8、野地竜太(城西世田谷東支部)が4位入賞しました。  1回戦シードの佐野は2回戦で樋口恵士選手に延長1回判定勝ちしますが、続く準々決勝で優勝した志田清之選手に本戦判定負けします。

同じく1回戦シードの野地は2回戦は上段廻し蹴りで一本勝ちします。  準々決勝は堀池典久選手に試し割り判定勝ちしますが、準々決勝で木村靖彦選手に本戦判定負けします。  3位決定戦は棄権しました。

2.1998年11月14・15日、東京体育館で第30回全日本大会が開催されます。  城西関連の入賞者を紹介します。

①準優勝・・・田村悦宏(湘南支部)。  1回戦・2回戦と本戦判定勝ちした田村は3回戦で池田雅人選手に延長1回判定勝ちします。  4回戦は林圭一選手に延長1回判定勝ち、準々決勝は高久昌義選手に下段廻し蹴りで一本勝ちしました。  準決勝は野地に本戦判定勝ちしますが、5年振りに決勝で対戦する数見肇選手に本戦判定負けします。

②第4位・・・野地竜太(城西世田谷東支部)。  1回戦・2回戦と本戦判定勝ちした野地は、3回戦で平野智也に上段廻し蹴りで一本勝ちしました。  4回戦も岩崎達也選手に上段廻し蹴りで一本勝ちします。  準々決勝は木村靖彦選手に延長1回判定勝ちし、ウェイト制大会の雪辱を果たしますが、準決勝は田村に本戦判定負けしました。  3位決定戦も木山仁選手に本戦判定負けします。

③第6位・・・市村直樹(城西下北沢支部)。  1回戦は左上段廻し蹴りで一本勝ち、2回戦は上段膝蹴りで一本勝ちし、3回戦は本戦判定勝ちします。  4回戦は木立裕之選手に延長2回判定勝ちしますが、準々決勝は木山仁選手に延長1回判定負けします。  試し割り枚数合計22枚で6位に入賞しました。

3.1998年11月13~15日、全日本大会と同じ会場で第2回女子世界大会が開催され、軽量級で江口美幸(城西国分寺支部)が準優勝します。

1回戦・本戦判定勝ち、2回戦・延長1回判定勝ち、3回戦・体重判定勝ちした江口は、決勝でポーランド支部のエワ・パウリコスカ選手と対戦し試し割り判定負けします。

日曜日は田村悦宏の結婚式です。  よい週末を!

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斉藤孝さん『学問のすすめ』

『現代語訳・学問のすすめ』(福沢諭吉著 斉藤孝訳 ちくま新書)を読みました。  齊藤さんの書かれた巻末の「解説」から抜粋し、番号を付けて紹介します。

『①今の時代というのは、いろいろなものが良くも悪くも増幅してしまう社会なのです。  ですから、心の状態を整えるのも、非常に難しくなっている。

②しかも、今の日本の場合は、日常生活において柱となる道徳がはっきりとありません。  キリスト教道徳やイスラム教道徳のようなものもないですし、論語のような儒教の考え方も今の日本人の柱にはなっていません。  仏教(特に禅)の影響力も小さくなり、神道も太平洋戦争の敗戦で否定されて以降そんなに広まっていません。  かといってスピリチュアルなものが心を支えるよりどころとなっているかというと、すべて否定はしませんが、客観的な社会認識を狂わせる側面も持っているはずです。

③生き方の型を失った現代では、心を安定させて生きていくということが一層大切になっています。  そのためには、社会と自分との関係をしっかりつかまえて、客観的に物事を判断できる能力は身につけたほうがいい。  そうすれば前近代的で魔術的な世界に閉じこもることなく、自分自身を社会にしっかりとさらし、世界をすっきりと見晴らすことができる。  そのざっくりとした態度というのも、やはり福澤諭吉の遺産と言うべきものです。  (中略)

④論理的であることが、今の世の中では求められています。  福澤は極めて論理的でありながら、それ以上の力を持っていました。  それを「筋力(すじりょく)」と呼んでいるのですが、本筋を見つけてきちんと通していく力が彼にはありました。  筋をまちがったならば、その後にどんな緻密(ちみつ)な論理を積み重ねたとしても、大した意味をなさないのです。

⑤例えば、サブプライムに発する世界同時不況も、破たんするのが目に見えているような金融商品を擁護する論理が、専門家によって山ほど作られていた。  破たんしてから気がつけば、全然筋の通らない金融商品だったわけです。  それによって世界が大混乱して日本にまで影響があるというのは、筋違いのことなのですが、筋というものを見失ったところにある論理というものは用を成しません。』

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坂本龍馬の政治力

『幕末志士の「政治力」』(瀧澤中著 祥伝社新書)の第2章「坂本龍馬の政治力」から抜粋し、番号を付けて紹介します。

『①「わらしべ長者」の話をご存知だろうか。  わら一本持って旅に出た男が、物々交換を重ねやがて大金持ちになる、というおとぎ話だが、政治家にはこの「わらしべ長者的幸運」が絶対に必要になる。  徒手空拳の人物が政治の頂点を目指す時に必要なのは能力や金銭であると同時に、それらを活かすため、自分を引き上げてくれる人物の存在である。

②政治家・坂本龍馬にとって最も大切な人物は誰であったかと問われれば、私は躊躇(ちゅうちょ)することなく勝海舟を挙げる。  (中略)  海援隊をつくるための基礎も、薩摩や長州との繋(つな)がりも、勝を抜きにしては語れない。

③その勝海舟を龍馬に紹介してくれたのは、越前福井藩の前藩主・松平春嶽(まつだいら・しゅんがく)である。  (中略)  身分制度の厳しい江戸時代に、このような人物に直接会って話をする機会を得るというのは、簡単なことではない。  (中略)

④龍馬と共に松平春嶽に会いに行った人物が当時の土佐藩の実力者であった、という説と、千葉道場の千葉重太郎の紹介があったという説があるが、いずれにしても「龍馬を春嶽に会わせたい」という気持ちがなければ実現しなかったであろう。  

⑤龍馬に会った松平春嶽は、やはり龍馬を面白い人物と見て、開国して強い日本をつくるのだという持論を唱えていた横井小楠(よこい・しょうなん)と、咸臨丸で太平洋を横断し外国を見聞してきた幕府高官の勝海舟を紹介した。  

⑥勝と会って勝にほれ込んだ龍馬は勝に弟子入りし、その後、勝が海軍創設をするために「神戸操練所」をつくるが、龍馬はこの塾頭となって指導を行なった。  もし、龍馬に神戸操練所時代がなければ、あるいは海援隊はできなかったかもしれない。  なぜなら、海援隊の主要人物はこの神戸操練所時代に集まった人々であるからだ。

⑦龍馬はさらに幕閣や、薩摩の西郷隆盛、長州の桂小五郎(後の木戸孝允)らと次々に面識を得ていくが、いずれも勝海舟の紹介やあるいは勝海舟によって得られた人脈を自らの人脈として活かし、実現している。  (中略)

⑧生きていく上で一時的にお金を都合するのは、そう難しいことではない。  しかしお金を得ることよりも大切なのは、そのお金を持ち続けることである。  持ち続けるには人から信用されて仕事を継続的に任されたり、政治家で言えば必要な時に用立ててくれる人を見つけることである。  (中略)
  
⑨幕臣の大久保一翁(おおくぼ・いちおう)からは「大政奉還(たいせいほうかん)論」を聞かされ、横井小楠や勝海舟からは開国論を聞いている。  学問的には未熟であった龍馬は、こうして様々な当代一の知識人、政治家のエキスを吸収して、自分を磨き上げていったのである。』

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澤井健一先生と『魚の側線』

1.4月5日の日経新聞に『魚はなぜ群れる?』という記事が載っていました。  抜粋し、番号を付けて紹介します。

『①八景島の水族館では3月からイワシの大群を見せる新展示を始めた。  深さ8メートルの大型水槽内を5万匹のイワシが集団で泳ぐ。  (中略)

②自在に動いても魚同士が衝突事故を起こすことはない。  魚の体には側線という感覚器がある。  水の流れを敏感にとらえるセンサーだ。  隣の魚が急に方向転換しても即座に反応し身をかわす。

③「仲間の姿をとらえ後に追従するのは視覚の働きが大きく、ぶつからないよう距離をあけて泳ぐのは側線の働き。  二つの感覚を使い分けて巧みな集団行動をする」と東京海洋大学の有元貴文教授は著書で解説している。』

2.3月25日に紹介した『人を見抜く技術』(桜井章一著 講談社α新書)の中で人間の能力についての記述があります。  抜粋し、番号を付けて紹介します。

『①大勢の人が行き交う都心の街中を見ていると、人間はすごい能力を秘めているのだと実感する。  たとえば大きなスクランブル交差点で、向こうから100人、こっちから100人が歩いてきて交錯してもぶつかることがない。

②一人ひとりがバラバラに歩いてるにもかかわらずぶつからない。  都会で暮らす人は、そういう歩き方ができるようになっている。  仮にぶつかりそうになったとしても、瞬間的に避(よ)ける能力を身につけているのだ。

③しかし、これは歩くという動作自体が、ぶつからない間隔、距離感を保てる動きだからだ。  走りながらその間隔を保てといっても、なかなかそうはいかないだろう。  100人と100人を走って交錯させたら、一人もぶつからないというわけにはいくまい。

④都会で暮らす人というのは、街中を歩く中で人とぶつからない距離感を知らず知らずのうちに身につけてきたのだ。』

3.大気拳の創始者である澤井健一先生が立禅の一つの目的として次のようなことを言われていました。

『池の中に多数泳いでいる魚の群れに沢山の小石を投げつけても、その小石が当たったり、他の魚にぶつかったりする魚はいない。  大昔の人間にも、多くの危険の中で生き延びるためにそういう動物的な能力があったはずだ。  現在は失われているが、本来備わっているべきそういった能力を立禅によって取り戻すのだ。』

私なりの解釈で言うと、「武道家として『魚の側線』のようなセンサー能力を、手のひらを中心とする体全体に養成する」ということだと思います。

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松下幸之助さん『人生の心がまえ』

1.『松下幸之助の菜根鐔(さいこんたん・・・本来、三文字目は「言べん」の漢字ですがワープロで打てませんでした)』(皆木和義著 あさ出版刊)から抜粋し、番号を付けて紹介します。  松下幸之助さんは松下電器産業(現パナソニック)の創業者で「経営の神様」と呼ばれていました。

『松下幸之助翁は、その著『道をひらく』の中で、人生の心がまえについて、こうもいっています。

「①人生つねに何かの心配があり、憂いがあり、恐れがある。  (中略)

②憂時に直面しても、これを恐れてはならない。  しりごみしてはならない。  〝心配またよし〟である。  

③心配や憂いは新しくものを考え出す一つの転機ではないか、そう思い直して、正々堂々とこれと取り組む。  力をしぼる。  知恵をしぼる。

④するとそこから必ず、思いもかけぬ新しいものが生み出されてくるのである。  新しい道がひらけてくるのである。  まことに不思議なことだが、この不思議さがあればこそ、人の世の味わいは限りもなく深いといえよう。」』

2.今日の日経新聞朝刊にイー・アクセス会長の千本倖生(せんもとさちお)さんが『「経営の神様」に学ぶ』という記事を書かれています。  抜粋し、番号を付けて紹介します。

『①第二電電企画を立ち上げるために電電公社(現NTT)を辞めるとき、松下さんにこんな言葉をいただきました。

②「事業はやめる時が失敗する時。  決してあきらめるな」

③「起業すると心配が絶えない。  それがトップの仕事と思って楽しめ」

二つの言葉は、今も私の支えになっています。』

3.今日発売の『週刊東洋経済』4月11日号にも千本さんの次のようなインタビューが載っています。

『ADSL業界で最大プレーヤーはヤフーBB(ソフトバンクBB)。  ここに対してどう競争するのかが大事。  存在感を強くしたいと考えていた。  松下幸之助さんに教わったが、事業というのはしつこくやんなきゃ。  もうダメだと思ってもまだやる』

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(53)1997年 フィリォK-1参戦

1.①1997年7月20日、愛知・ナゴヤドームで行われるK-1DREAM’97にブラジル支部のフランシスコ・フィリォ選手が参戦し、前年度K-1GP王者のアンディ・フグ選手と対戦することになります。  極真会館のK-1初参戦であると同時に、1991年の第5回世界大会4回戦でフィリォは極真会館スイス支部所属(当時)のアンディ選手に一本勝ちしており、6年越しの因縁の対決としても話題になりました。

②2月26日の午後、お台場にあるフジテレビ本社の球体展望室で記者会見がありました。  当時、渋谷にあった私の会社にフィリォが来て、一緒にフジテレビに向かいます。  川島智太郎が運転してくれました。  正道会館の石井和義館長、アンディ選手、フィリォと私が記者会見に臨みます。  「(1)同じ打撃系の格闘技でもグローブをつけて戦うK-1と、素手で戦う空手はまったく異なる競技であること、(2)K-1に向けてのトレーニングは4月20日の第1回世界ウェイト制大会出場後になること」などの話をしました。

③4月20日、第1回世界ウェイト制大会重量級でフィリォが優勝します。  必然的に7月20日はK-1ルールで極真世界王者がK-1王者と対戦するという構図になりました。

④7月18日名古屋ヒルトンホテルでの記者会見に出席するため、磯部師範、フィリォとともに朝9時の新幹線に乗って名古屋に向かいます。  記者会見の後、選手が別々の丸テーブルに座って個別のインタビューを受けるのですが、フィリォのテーブルは記者であふれかえっていました。  翌19日は東京で打ち合わせの予定があったので、私一人帰京します。

⑤7月20日、朝8時56分の新幹線に乗って再び名古屋に向かいます。  私の家内と娘もその後の新幹線で会場に向かいました。  会場では郷田師範と一緒に観戦します。

⑥第5試合のフィリョvsアンディ戦の時間となりました。  選手入場の時、オーロラ・ビジョンに写しだされたフィリォの闘志あふれる表情が印象的でした。  結果は1ラウンド2分37秒、右フックの一撃でフィリォのKO勝ちです。

⑦ゴング格闘技1997年8月号増刊に載った私の談話を紹介します。

「2日前の記者会見のときもそうだったが、フィリォは、周りはすごく緊張しているのにすごくリラックスしていた。  決め技のカウンターは軽く当てた程度のもので、リラックスしていなければ出ない。  この間テレビで紹介されたフィリォは肩を入れて大きく振っていたので心配していたが、今日は力が抜けていたので技がシャープに出た。  ああいう突きを覚えたのは一つの収穫だ。
 
アンディの経験と、彼がK-1の中で頑張ってきたことがフィリォにとってプレッシャーになるかと思ったが、それも杞憂(きゆう)に終わった。  今日の試合でフィリォのセンスの良さを感じた。」

東京では絶好のお花見日和が続いています。  よい週末を!  

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村上龍さん『社長の金言』

『カンブリア宮殿 村上龍×経済人 社長の金言』(村上龍・テレビ東京報道局編 日経ビジネス文庫)から抜粋し、番号を付けて紹介します。

『①(鍋屋バイテック会社会長・岡本太一さんへのインタビュー)

岡本・・・大事なのはお手洗いと食堂なんです。  そのへんからきれいにしよう、と。  そうやって少しずつきれいになっていくと、汚さなくなる。  掃除は私も含めて社員全員でやっています。  (中略)

村上・・・清潔にするというのは、精神を鼓舞するらしいですね。  軍隊のマニュアルか何かに書いてあるんですよ。  例えば、敵地に潜入してゲリラと戦うような場合、ジャングルとかを転戦するから汚れますよね。  そうすると、必ず身体を洗え、と。  足だけでいいから洗えと言うんです。  衣服の汚れや、身体が不潔になってくると、人間としてのプライドがなくなっていき、不注意から敵にやられてしまう。  清潔にするという行為が集中力を生んだりするそうです。

②(ホリプロファウンダー最高顧問・堀威夫さんへのインタビュー)

堀・・・巡り合わせしかないんですよ。  ただその運をどう味方につけるかというときに、「果報は寝て待て」とか、「棚からぼた餅」といった言葉があるけど、それではあまりに他動的すぎるな、と。  いろいろ考えて、十年ぐらい前から、勝利の女神をどうやって味方につけるかを考えればいいんだ、と考えるようになりました。  すると、勝利の女神というのは、たぶんお通夜の晩みたいな顔をしたやつのところでは絶対微笑まないだろう。  ではいい顔を作ろうという、非常に単純なコンセプトに変わりました。  仕事をしている以上、嫌なこともあるけれど、帰る途中にお酒を飲むのもいいし、カラオケに行くのでもいいから、少なくとも、嫌なイメージを消して翌日の仕事に取り組む。  だからうちの会社の入ったところには姿見があって、「いい顔つくろう」と小さく書いてあるんです。

③(エイチ・アイ・エス会長・澤田秀雄さんへのインタビュー)

村上・・・くじけそうになったことはないですか?

澤田・・・いつもです(笑)。

村上・・・くじけそうになったときに、どうやって自分を励ましてこられたんですか?  (中略)

澤田・・・僕は失敗の連続ですから。  (中略)  明るく振る舞うんですよ。  トップが暗くなると、会社全体が暗くなります。  逆に、トップが明るいと、問題が起きて大変だけれど、この会社は明るいんじゃないか、と思います。  ですから、問題が起きたときこそ、絶対に明るくすべきだと思います。  中国に失意泰然(しついたいぜん)という言葉がありますが、失意のときこそ、泰然自若(たいぜんじじゃく)にやる、と。  これで必ず良くなります。  難しいことはやっていません。』

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江原啓之さん『疾風に勁草を知る』

『ことたま』(江原啓之著 徳間書店刊)の『疾風(しっぷう)に勁草(けいそう)を知る』の項から抜粋し、番号を付けて紹介します。

『①「疾風に勁草を知る・・・激しい風によって、初めて強い草が見分けられるように、困難に遭(あ)って、初めてその人の意志の強さ、人間としての真価がわかるというたとえ。」

②私がカウンセリングを通して一番気の毒だと思ったのは、大きな試練に見舞われている人ではなく、むしろ、大きな挫折を知らない人。  彼らは試練によって磨かれていない分、弱いのです。

③物質主義的価値観の目で現世を見れば、社会的地位のある親を持ち、経済的に恵まれた家で育ち、優秀な学校に進学し、一流だといわれる会社に就職した人が幸せということになります。

④けれど、物質的な条件が満たされている人ほど、えてして強風に弱いものです。

⑤試練のないまま一生を送ることができれば問題はないのですが、そんな人はまずいません。  なぜなら、試練のない人生には学びがない。  学ぶことがなければ、現世に生まれてくる必要がないからです。』

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2009年03月 | ARCHIVE-SELECT | 2009年05月