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2008年11月 | ARCHIVE-SELECT | 2009年01月

(42)平成3年 第5回世界大会

1.①平成3年(1991年)6月22・23日、大阪府立体育会館で第8回ウェイト制大会が開催されます。  軽量級に川上元宗・長友優典・福田達也・岡本良之・戸田直志、中量級に塚原典寿・今西俊彦・川本英児・岡本徹・外智博・加藤丈博・田口恭一、重量級に江口芳治・上原淳・小笠原和彦・杉山文宏・黒澤浩樹・市村直樹・田村悦宏・廣瀬武之が出場しました。

②軽量級・・・長友が決勝に進みましたが、山本健策選手に負けて準優勝となります。

③中量級・・・準々決勝で岡本に勝った川本と加藤が準決勝に進みます。  川本は準決勝で、加藤は決勝で園田直幸選手に敗れます。  川本は3位、加藤は準優勝でした。

④重量級・・・黒澤・田村が準決勝に進みます。  準々決勝で佐伯健徳選手に一本勝ちした黒澤は準決勝で七戸康博選手と対戦し、試し割り判定負けし、4位となります。  再延長の途中で左手薬指の骨が見えるような脱臼をしても、そのまま戦っていたということで話題になりました。  田村は、2年前のこの大会の決勝で技有りを取られた七戸選手から、逆に前蹴りで技有りを取って初優勝を遂げます。

2.①平成3年11月2~4日、東京体育館で第5回世界大会が開催されました。  第22回全日本大会優勝の増田章、ウェイト制入賞の加藤丈博・川本英児・田村悦宏・黒澤浩樹が出場します。

②Aブロック・・・川本は4回戦でラウル・ストリッカー選手に敗れました。  5回戦でそのストリッカー選手に判定勝ちした黒澤は準々決勝で八巻建志選手に体重判定勝ちし準決勝に進みます。

③Cブロック・・・田村は1回戦でイサク・マシニニ選手に体重判定負けします。  加藤は4回戦でラース・ビョルストラップ選手に延長3回判定負けしました。

④Dブロック・・・増田は準々決勝で石井豊選手に延長1回判定勝ちし準決勝に進みます。

⑤準決勝戦・・・黒澤は緑健児選手に体重判定負け、増田はジャン・リビエール選手に判定勝ちしました。

⑥3位決定戦・・・黒澤がジャン・リビエール選手に判定勝ちし、3位となります。

⑦決勝戦・・・増田が緑健児選手に体重判定負けし、準優勝となりました。

3.明日から冬休みに入ります。  

今年も多くの方々にお世話になりました。  本当にありがとうございました(感謝)。 

新年は5日にお目にかかります。  よいお年をお迎えください。

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半藤一利先生『幕末史』

1.11月13日のブログで半藤一利先生の話を取り上げました。  先週末、半藤先生が書かれた『幕末史』(新潮社刊)を読みました。  抜粋し、番号を付けて紹介します。

『①日中戦争のはじまった昭和12年に小学校に入学してから6年間、そして昭和18年に入学して大日本帝国が降伏するまでの中学校3年間、まさしく戦前の皇国史観、正しくは「薩長(さっちょう)史観」によって、近代日本の成立史を徹底的に仕込まれました。  つまりは〝官軍(かんぐん、薩摩藩・長州藩・土佐藩など)〟〝賊軍(ぞくぐん、徳川幕府・会津藩・水戸藩など)〟の史観です。  (中略)  これから私が延々と皆さんに語ることになります幕末から明治11年までの歴史は「反薩長史観」となることは請合(うけあ)いであります。  (中略)

②高杉晋作のたった一人の反乱、名演説に感動して「よし、俺も一里行って一里の忠を尽くそう」と立ち上がったのが伊藤俊輔、のちの伊藤博文でした。  率いる力士隊はわずか16人ですが、隊長がそういうならと、高杉と一緒に萩城下に乗り込むことに決めます。  すると少しずつ共鳴する人が増え、遊撃隊も加わりました。  結果的には総勢60余人が、その日のうちに下関の代官所を襲撃、占領して自分達の陣地とし、船を三隻確保して、いよいよダメのときは逃げる準備もして、ここから長州藩に革命(革命などという言葉はありませんが)を起こす勢いで叛旗(はんき)を翻(ひるがえ)したのです。  「60余人」の人数ははっきりしていないのですが、考えてみますと60人というのは面白い数で、キューバのカストロさんが革命を起こして成功した時に率いていたのが61人なんです。  人間というのは60人も集まればある程度のことができるのかなと思わないでもありません。  (中略)

③後年、陸軍と海軍ができた時も、賊軍藩出身者はかなり疎外(そがい)されました。  (中略)  鈴木貫太郎さん(海軍大将、終戦時の内閣総理大臣)は賊軍の関宿(せきやど)藩出身です。  (中略)  その人が海軍に入って、なんと、三度もやめようかと思ったのです。  理由は三度ともあまりにひどい賊軍出身者ゆえの差別のためなんです。』

2.半藤先生のルーツは越後(えちご)長岡藩です。  長岡藩は戊辰(ぼしん)戦争において官軍に抵抗し、城下全体が焼け野原となった賊軍です。

ちなみに私の父方の祖父の祖先は徳川家の家臣で、明治維新によって静岡県沼津市に移住しました。  ですから私も賊軍の末裔(まつえい)ということになります(笑)。

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三浦豪太さん『カブトガニ』

12月10日のブログに続き、登山家・スキーヤー、三浦豪太さんの『探検学校』(日経新聞夕刊・毎週土曜日連載)12月20日分から抜粋し、番号を付けて紹介します。

『①(前略)  ビーチの手前には川がある。  仕方なしに川沿いに迂回(うかい)してみると、そこは湿地帯だった。  すぐに引き返せばよかったのだが、湿地帯の先には住宅街が見えている。  

②最短距離を進もうとそのまま足を踏み入れた。  すると少しずつ泥が足に絡みつき、ヒザのあたりまで埋まった時点で次の足が踏み出せなくなった。  底なし沼のようにずぶずぶと体が沈み始め、身動きのとれなくなった僕をパニックが襲う。  

③とその時、目の前を大きなカブトガニがスイスイと泳いでいくではないか。  カブトガニは体重を広い面積に分散しているので沈まない。  

④僕は即座に、自分も面積を広げようと上半身を泥につけて平らになってみた。  すると何と浮かぶではないか!  

⑤体中泥まみれになりながらも腹ばいになって元来た道へ戻り、窮地を脱した。  パニックに陥りかけながらも、気を落ち着かせてカブトガニの性質を見極められたことで九死に一生を得た。  危険な状況下でこそ、冷静な判断と発想の転換が生死を分けると実感した体験でもあった。

⑥それにしても〝生きた化石〟に命を助けてもらうとは。  2億年の間、姿を変えずにいてくれたカブトガニに僕は頭が上がらない。』

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新将命さん『リーダー』

1.今朝の朝日新聞に新将命(あたらし・まさみ)さんの取材記事が載っていました。  新さんは、およそ半世紀近く外資系企業を生き抜き、社長職を3社、副社長職を1社経験してきたそうです。  抜粋し、番号を付けて紹介します。

『①仕事がどれだけできるようになっても尊敬されるリーダーであるとは限らない。  それを新さんはこう例えた。  「意見は時たま異なっているけれど、ついていきたい上司がいる。  逆に、言っていることは間違っていないけれど、どうも心を許せない上司もいる。  何が違うのか。  それは信頼できる人間力を備え、また部下の自己実現を考えているかどうかの差です」  (中略)

②「仕事とは、自分も部下も幸せになって、会社や社会に貢献すること。  誰もが自己実現へ向けて歩けること。  だから面白い。  いいリーダーになって、引っ張っていきましょうよ」』

2.また新さんは、縦軸にマインド(人間力)・横軸にスキル(仕事力)をとって、仕事人を次の4つに分類しています。

①人財・・・マインドもスキルも高い人。

②人在・・・スキルは高いがマインドが低い人。  仕事力はあるが、自らが動く追随タイプ。  日本企業の仕事人の8割がこれ。

③人材・・・マインドは高いがスキルが低い人。  やる気は高いが仕事はさっぱりの新卒者。

④人罪・・・マインドもスキルも低い人。

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(41)平成2年 第22回大会

1.①平成2年(1990年)6月2・3日、建て替えられた大阪府立体育会館で第7回ウェイト制大会が開催されます。  軽量級に戸田直志・今西俊彦・川上元宗・佐野光哉、中量級に田口恭一・外智博・鈴木義和・桜沢正大・大賀雅裕、重量級に廣瀬武之・小笠原和彦・江口芳治・滝田巌・市村直樹が出場しました。

②軽量級・・・準々決勝には進めませんでした。

③中量級・・・準々決勝まで勝ち進んだ田口がその後も順調に勝ちあがり、初優勝を遂げます。  第1回軽量級チャンピオンの大賀が育てた田口が城西二人目のウェイト制チャンピオンとなりました。

④重量級・・・江口・滝田が準決勝に進みます。  準決勝で江口は優勝した岩崎達也選手に合せ一本負け、滝田は角田信朗選手に技有り判定勝ちしました。  滝田は決勝で岩崎選手に判定負けし準優勝、江口は3位です。

2.①平成2年12月1・2日、こちらも新装成った東京体育館で第22回全日本大会が開催されました。  第21回大会入賞の田村悦宏・増田章・川本英児・滝田巌、ウェイト制入賞の田口恭一・江口芳治、支部内選抜試合優勝の廣瀬武之、過去の実績で黒澤浩樹が出場します。

②Aブロック・・・田村は4回戦で岩崎達也選手に延長2回判定負けしました。

③Bブロック・・・滝田は3回戦で阿部清文選手に試割り判定負け、江口は4回戦で内山武盛選手に試割り判定負けします。

④Cブロック・・・田口は4回戦で八巻建志選手に判定負け、廣瀬・黒澤は2日目に進めませんでした。

⑤Dブロック・・・川本は4回戦で南豪宏選手に延長2回判定負けします。  増田は決勝まで進み、緑健児選手と対戦します。

⑥決勝戦・・・試合は再延長戦にもつれ込みました。  増田86キロ・緑選手70キロで体重差が10キロ以上あるので、引き分けだと緑選手の体重判定勝ちになります。  終了間際に増田の右上段回し蹴りが技有りとなり、念願の初優勝を遂げました。  城西にとっては大西・黒澤に続き三人目となる全日本チャンピオンの誕生です。

よい週末を!

  

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工藤美代子さん『霊感』

1.ノンフィクション作家の工藤美代子さんが12月16日の日経新聞夕刊に『初対面で見抜かれた霊感』という話を書かれています。  抜粋し、番号を付けて紹介します。

『①ときどき、もうずっと昔に死んでしまった人の姿を街で見掛けたり、家の中に誰か知らない人がいる気配を感じることがある。  だが、そんな話を他人にすれば気味悪がられるだけだから、あんまりしない。

②ところが、たった一人だけ、私の不思議な体験を初対面で見抜いた人がいる。  川端康成先生の奥様の秀子夫人だ。  鎌倉のお宅に奥様を訪ねたのは、昭和47年のことだった。  初対面の挨拶(あいさつ)がすむと、奥様はじっと首を傾(かし)げて私の顔を見た。

③「失礼ですが、あなた、身辺にときどき変なことが起きません?」と尋ねられた。  (中略)  正直にその話をすると奥様は頷(うなず)かれた。  「やっぱりねえ、思ったとおりだわ。  あなたはあの世の人が寄って来やすいのよね。  でも、そういうときは、これを上げますから、読み上げて『私は何もしてあげられないからどうぞお帰りください』っていえばいいのよ」  そういって奥様は般若心経を一冊下さった。

④あれから35年以上が過ぎたが、私はなんだか、あの世の人たちを追い払うのも悪いような気がして、その経文を唱えたことは一度もない。  ただ、今もずっと大切に持ち続けている。  優しくて、鋭い眼差(まなざ)しだった奥様の思い出として。』

2.昨夜は、法政大学同好会の昭和54年設立当初から数年間のメンバーに招待されて品川に行きました。  おいしいお酒と食事をごちそうになり、その上にプレゼントまでもらいました。  30年近く前の「紅顔の美少年たち?」も、今ではすっかり「おっさんの集まり」になっていました(笑)。

野村・伊藤・成瀬・湯城・坂本・土屋・皿山・吉田・三浦・勝又、ありがと~(感謝)!

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西郷隆盛・勝海舟・吉田松陰と『孟子』

①安政5年(1858年)12月、西郷隆盛は薩摩藩によって奄美大島に島流しにされます。  奄美大島の竜郷(たつのごう)に西郷が住んだ家屋が残っており、そこに明治29年(1896年)になって建てられた石碑の内容は勝海舟が書いたそうです。  その中に次のような文章があります。  

『天のその人に大任をくださんとするや 必ずまずその心志(しんし)を苦しめ その身を窮乏すと 

まこと成る哉(かな)この言(げん) 唯(ただ) 友人西郷氏に於いてこれを見る』

②この文章の前半部分は『孟子(もうし)』の本文にあります。  

③『吉田松陰一日一言』(致知出版社刊)の12月14・15日の項で吉田松陰が安政6年(1859年)4月に野村和作(後の子爵・野村靖)に送った手紙を紹介しています。   その中にも同じ文章が引用されています。  引用した文章全文の現代語訳が載っているので紹介します。

『天が重要な任務をある人に与えようとする時には、必ずまずその人の心や志を苦しめ、その体を疲れさせ、その肉体を飢え苦しませ、その衣食を乏しくして困らせ、また、こうしようという意図とは違うようにするものである。  これは、天がその人の心を発奮させ、性格を辛抱強くして、これまでできなかったこともできるようにしようとするための試練である。』

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小川宏さん『心に残るいい話』

『小川宏の心に残るいい話』(小川宏著 清流出版)という本を毎日一項ずつ読んでいます。  今日読んだ『K先生』という項を抜粋し、番号を付けて紹介します。

『①戦争中、学校が焼失したため卒業式が行われなかったところが多かった。

②戦後30年経った昭和50年(1975年)、卒業証書がもらえなかった生徒にスタジオに集まってもらった。  そのとき、Kという先生の思い出話になった。  このことは事前の取材で予想していた。

③先生は宿題をしてこなかった生徒に一本のムチを与え「先生の腕をぶちなさい」と言ったという。  生徒達は、初めは面白がって先生の腕をたたいた。  先生の左手は真赤にはれあがった。  今度は右腕を出した。  そのうち生徒たちは「もうぶてない」と泣き始めた。  先生は「この腕のはれは皆さんの心といっしょに直ります」と、静かな口調で言った。

④「あの先生は戦死したと聞いているが・・・」ということで、〝仰げば尊し〟がスタジオに流れはじめた。

⑤そのとき、スタジオの隅のカーテンが開かれた。  そして、白髪になったK先生がその姿を現した。  大の男たちが、恩師を取り囲んで泣き始めた。  私はモモをつねってそれに耐えた(このシーンを見ておられた森繁久弥さんがもらい泣きされ、ある本に書いてくださった)。』

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鳥飼重和先生『鳥飼日記』

8年ほど前、公認会計士の本郷孔洋先生から招待されて、弁護士の鳥飼(とりかい)重和先生との隅田川花火の宴席に飛び入り参加させていただいたことがあります。  鳥飼先生のブログ『鳥飼日記』の12月13日分を、長文ですが抜粋し、番号を付けて紹介します。

『①「鳥飼日記」は、当初は、1,2ヶ月で終わらせる予定のものであった。
ところが、それを息子が熱心に読んでいることを女房から聞いた。
そのときから、息子の将来役に立つことを書き残しておこうと思うようになった。
一種の遺言書のような気持になって書くことも多くなった。
            
②人間には、強いタイプの人と弱いタイプの人がいる。
鳥飼日記は、弱いタイプの人向けのものを書いた。
私も、息子も、弱いタイプの人間だからである。
もともと、強いタイプの人は、ブログを読んで影響を受けるはずもない。
           
③強いタイプは、意志が強く、自分で決めたことは無理なくやりぬくタイプである。
こういうタイプの人は、意志強固で、努力を努力と思わない強さがある。
こういう人たちは、比較的スムーズに社会的に成功するのは容易だ。
ただ、強いタイプというだけでは、大成するかには疑問がある。

③弱いタイプは、意志がそれほど強くないタイプであり、実行力に問題がある。
だが、自分の弱さを自覚し、それを知恵や他の人の協力で乗り越えられる。
人間の本質や自然の摂理を利用することで幸福や成功することができる。
他人の弱さも分かるため、個人的な意味では幸福を得やすいタイプである。

④本当に強い人間なら、縁起を担ぐ必要はない。
強い意志と実行力で、どんな困難でも乗り越えることができるからである。
ところが、弱い人間は、困難に出会うと実行力が鈍ったり、迷ったりしがちだ。
そういうときに、縁起を担いだり、知恵を用いて、困難を乗り越えることになる。

⑤しかも、弱い人間は、弱い人間なりの工夫で、幸福や成功に恵まれることができる。
そのための考え方を述べたのが、鳥飼日記である。 (中略)

⑥日頃から、息子に、自分の考えと力で、世の中を生きることが人生だと伝えてきた。
親の財産や力を当てにする人生は、つまらないぞ、と言ってきた。
自分の考え方ひとつで、自分の納得のできる人生を創れるし、そのほうが人生として楽しいのだと、言ってきた。  (中略)
            
⑦後は、ブログでは書けなかった、残り20%の部分を伝えるだけである。
これは、これから、必要に応じて伝えればいいことであるから気楽である。
息子へ財産を残そうとする人が多いが、息子に生きるときの考え方を遺す、つまり、一種の考えることの遺伝子を遺す方が良いのではないだろうか。
         
⑧これは、万人が平等に子孫に伝承できることでもある。
日頃思うのであるが、財産や事業を残す人だけに遺言書が必要なはずがない。
財産も事業も残さなくても、人生を生きてきた以上、親の遺伝子たる遺言を遺せる。
実際、子供にとって重要なのは、生きる遺伝子ではないだろうか。

⑨その遺伝子が、後世の人々の無限の能力を刺激し、人類の進歩に貢献する。
日記を残す現在の心境からは、そんな気がする。
今の世相は、人間の考える遺伝子を忘れ、財産という有限なものに制約されている。
精神的な奴隷制度は残っているのかもしれない。』

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相田みつをさん『娑婆』

1.毎日読んでいる携帯サイト『相田みつをの心ー今日のことば』のテーマは『娑婆(しゃば)』でした。  紹介します。

『娑婆

娑婆とは忍土
忍土だから
たえしのぶところ
この世は苦娑婆
楽娑婆とは
いわない』

2.相田みつをさんの解説も番号を付けて紹介します。

『①忍土(にんど)とは、この世のことです。  娑婆とか忍界(にんかい)ともいいます。  それが現実社会だというのです。

②私達が毎日生きている現実社会は、どこへ行ってもガマンすることばかりです。  自分の思いのままになることなど一つもありません。

③電車に乗れば人波にもまれるし、職場に行けば様々な人間関係に気をつかいます。  気をつかうということは、それだけ自分を抑えてガマンをすることです。

④極端な言い方をすれば、人は朝から晩まで、人と人との間に立って、四方八方に気をつかいながら生きているんです。  人と人との間にしか生きられないから〈人間〉なんですね。  人間、一人では生きられないんです。

⑤様々な人間関係の煩わしさを避けて、人ひとりいない山の奥へはいれば、そこにはそこの厳しい〈忍土〉が待っているのです。』

暮れもいよいよ押し迫ってきましたね。  よい週末を!

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柳家花緑さん

『落語家はなぜ噺を忘れないのか』(柳家花緑(かろく)著 角川SSC新書)を読みました。  抜粋し、番号を付けて紹介します。

『(1)落語家という商売をしていると、よくこんな質問をされます。  「これだけたくさんの噺(はなし)を覚えるのは、さぞ大変でしょう。  いったい、どんなふうにして覚えてるんですか?  どうして忘れないのですか?」  (中略)

(2)私は、祖父である五代目柳家小さんに弟子入りした15歳の春から37歳になる現在までに、145本のネタを覚えました。  (中略)  実はこの145本のすべてが高座で使えるわけでもないのです。  (中略)

(3)今回整理してみると、だいたい次の3つのグループに分類できることがわかりました。

①いつでも高座にかけられるネタ・・・24本
②2~5回さらえば(軽めの稽古をすれば)高座にかけられるネタ・・・72本
③高座にかけたことはあるが作り直す必要があるネタ・・・49本
(中略)

(4)①を選ぶときにポイントとなったのは、一つには自分の中で噺がしっかり固まっているかということ。
  (中略)  どのような情景の中で物語が進み、登場人物はどんなキャラクターで、どういう気持ちで台詞(せりふ)を吐いているか。  それらがお客さんに最も伝わるにはどういった演出がベストか。  そこまで構築できていてはじめて、「いつでも」高座で披露できると言えるのです。  (中略)

(5)②は簡単にいえば稽古が足りていないもの。  私がもっと勤勉で、たとえば少しでも空いた時間に「今日は寝る前に、あの噺をそらんじておこう」なんてことを続けていれば、①に昇格する噺です。(中略)

(6)③は①②とはちょっと性格が違います。  正直、現段階において私の中では死んでいるネタなのです。  前座から二つ目を経て真打になるまでのどこかで覚えて、一度は高座にかけたことがあるものの、その後長年ほったらかしになっている状態といいましょうか。  ②の72本でさえ手をつける時間がない今、なかなか手を出しにくくなっているネタの面々です。』

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三浦豪太さん『登山と優れた決断力』

登山家・スキーヤーの三浦豪太さんが毎週土曜日の日経新聞夕刊に「探検学校」というエッセイを書かれています。  12月6日のテーマは「登山と優れた決断力」でした。  抜粋し、番号を付けて紹介します。

『①先日、世界的なアウトドアメーカーであるザ・ノースフェイスの創立者ケニス・ハップ・クロップさんとお会いしたとき、決断力の大切さを物語るこんな実話を聞いた。

②クロップ氏の友人にウィッタカー兄弟という米国人の双子がいる。  (中略)  2人とも身長2メートルを超える巨体でバイタリティーのかたまり。  一流の登山家かつ経営者だ。

③その2人が北米最高峰のマッキンリーを登山中に、足を骨折して動けなくなった登山家を発見した。  けが人は高山病の肺気腫も併発している様子で、早急な下山が必要と判断した彼らはすぐに無線でヘリコプターを要請。  気圧の低い高所では離着陸が困難だと渋るパイロットを説き伏せた。

④ところが、けが人を乗せていざ飛び立とうとすると、地面が近いため十分な揚力がないのと、けが人の加重分とで機体が浮き上がらない。  そこでウィッタカー兄弟は大胆な行動に出た。  ヘリコプターの両脇に立って2人で着地用そりの部分をつかむと、機体を持ち上げて思いっきり谷に向かって投げ込んだのだ。

⑤すると谷から吹き上げる風と落ちるスピードで揚力を得て、ヘリコプターは飛び立った。  クロップ氏が彼らに「大丈夫という確信があったのか?」と聞くと「ない。  でも何にもしなければ、けが人は確実に死んでいただろう」と答えたという。』

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ジョン・レノン『イマジン』

1.昨日は歌手のジョン・レノンの命日でした。  1980年12月8日、ニューヨークの自宅ダコタ・ハウスに奥さんのオノ・ヨーコさんと外出先から戻り、リムジンを降りた直後に射殺されたのです。  

2.1971年にジョンが発表した「イマジン」は私の好きな曲の一つです。  昨日の日経新聞朝刊の「春秋」の欄で「イマジン」を取り上げていたので、抜粋し、番号を付けて紹介します。

『①「想像してごらん」で始まり平和への願いを静かに歌った曲「イマジン」。  歌手ジョン・レノンが書いた26行の原詩を、作家で音楽家の新井満さんが270行の散文詩へと意訳した本がある。  (中略)

②「本来は非常にエゴが強く、プライドが高い人だった」。  この本に収められた対談でオノ・ヨーコさんが夫ジョンをそう振り返る。

③だがこの曲を作ったときには、才能を見せびらかそう、聴く人を驚かそうという気持ちが全然なかったという。  「フッとエゴを捨てた」瞬間、長く人々の心をとらえる歌が生まれた。  (中略)

④「イマジン」は20世紀の歌だが、21世紀にはさらに価値が高まっていく」と新井さん。  平和の歌が輝きを増すのは悲しい話でもある。

⑤ジョンの歌を愛する歌手の忌野清志郎さんも、独自に意訳した詞で「イマジン」を歌い継ぐ。  「21世紀になったら世界が平和になると思ったのに、ますますひどくなる。  ジョンが生きていたら今の状況をどう思うんだろう」。  近年のステージで彼はそう語っている。』

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組手技術

1.昨日、一般部審査会の組手審査の後で「組手技術」、特に「受け返し」について話をしました。  もう一度、整理・確認するために今日のブログのテーマとしました。

2.組手技術とは・・・「組手において相手を倒すための体の使い方」をいいます。  相手を倒すためには、相手の構えやバランスを崩す必要があります。  ただやみくもに突いたり蹴ったりしても、相手によけられたり、場合によっては返されたりして、相手を倒すことはできません。  したがって「組手技術」とは「崩し→攻撃」の構造を持っています。  つきつめて言うと、「組手」とは「いかに相手を崩すか」「いかに相手に崩されないか」の攻防なのです。  ですから、「最初から(両手の)ガードが低い・すね受けをしない」などは、相手にとって「崩す必要のない、攻撃しやすい対戦者」ということになります。

3.崩し・・・相手を崩すには次の3つの方法が考えられます。
(1)コンビネーション(連続攻撃)・・・自分の突きや蹴りで相手を崩して、突きや蹴りにつなぎます。   フェイント攻撃で崩すこともコンビネーションに含まれます。

(2)受け返し・・・相手の突きや蹴りを受け崩して、自分の突きや蹴りにつなぎます。  相手が攻撃に来るときには、相手の構えやバランスは、最初に構えた状態からは崩れているので、その崩れを利用します。  例えば、相手が蹴ってきた時は、軸足一本で立っているのですから、蹴る前の二本足で立っていた状態よりはバランスが当然悪くなっており、そこを利用するのです。

(3)カウンター・・・相手の突きや蹴りを受けたり、よけたりすると同時に、自分の突きや蹴りを当てます。  相手が攻撃に来るときの、相手の構えやバランスの崩れを利用することは、受け返しと同じ理屈です。

4.組手技術の習得・・・次のいくつかの稽古があります。
①攻撃の技術の習得・・・一つ一つの突きや蹴りを正しい形で反復し、体に覚えこませます。

②受けの技術の習得・・・相手の一つ一つの突きや蹴りに対する受けを正しい形で反復し、体に覚えこませます。  この時大事なことは、何かの突きや蹴りを受けられない、ということが無いようにすることです。  下段まわし蹴りで言えば、前足外側・前足内側・奥足外側・奥足内側と4種類の蹴りがありますが、すべてを受けることができなければダメです。

③「崩し→攻撃」の技術の習得・・・各種の「コンビネーション」「受け返し」「カウンター」を正しい形で反復し、体に覚えこませます。  ここで大事なことは「正しい形」と「反復」です。  「正しい形」は指導員がチェックしたり、自ら鏡でチェックします。  「反復」については自動的・無意識に動けるように、つまり、クセになるまで繰り返す必要があります。

④スパーリング・・・お互いに突きや蹴りを当て合わないことを前提に、①②③、特に③が相手との攻防の中で正確にできるようになるためのトレーニングです。  スパーリングでできないものは、反復が足りないのですから、もう一度①②③の稽古に戻る必要があります。

⑤試合や審査会における組手・・・お互いに突きや蹴りを当て合うことを前提に、①②③、特に③が相手との攻防の中で正確にできるようになるためのトレーニングです。  スパーリングではできるが、組手ではできないということもありえます。  この場合も、より一層の反復のために、もう一度①②③の稽古に戻る必要があります。



    

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(40)平成元年 第21回大会

1.①平成元年6月10・11日、大阪市中央体育館で第6回ウェイト制大会が開かれます。  軽量級に原将弘・川上元宗・今西俊彦、中量級に岡本英樹・川本英児・田口恭一・篠彰彦・岡本徹・五来克仁・塚原典寿・大賀雅裕、重量級に田村悦宏・滝田巌・江口芳治・田邊英明が出場しました。

②軽量級・・・第3・5回大会3位の今西が準々決勝で山本健策選手に判定勝ち、準決勝では第4回大会3位の津田久義選手に左上段回し蹴り一本勝ちし決勝に進みます。  決勝では山根誠治選手と延長3回を戦い、惜しくも敗れました。

③中量級・・・川本だけが準々決勝に進みましたが、優勝した三明広幸選手に延長3回判定負けします。

④重量級・・・優勝した七戸康博選手に滝田が準決勝で判定負けで3位入賞、田村が決勝で下段回し蹴りの技有り判定負けで準優勝でした。

2.①平成元年12月23・24日、両国国技館で第21回全日本大会が開かれます。  ウェイト制で入賞した田村・滝田・今西に加え、増田・黒澤・川本が出場します。

②Aブロック・・・田村がブロック決勝で20回大会準優勝の石井豊選手に判定勝ちします。

③Bブロック・・・黒澤が体重判定負けした第20回大会6位のフセイン・サディカマル選手に、川本が延長2回判定勝ちし、ブロック決勝に進みます。  ブロック決勝では第20回大会優勝の桑島保浩選手に再延長で下段回し蹴りの技有りを取られ敗れました。

④Cブロック・・・滝田が4回戦でウェイト制中量級優勝の三明選手と当たり、延長2回判定勝ちします。  ブロック決勝では八巻建志選手に判定負けしました。

⑤Dブロック・・・今西が準々決勝でウェイト制重量級優勝の七戸選手に合せ一本負けしますが、増田はブロック決勝で七戸選手に試し割り判定勝ちし、準決勝に進みます。

⑥準決勝・・・田村は本戦で桑島選手から下段回し蹴り技有りを奪い判定勝ちしました。  増田は八巻選手に延長戦で敗れます。

⑦決勝・・・田村は八巻選手に3回目の延長戦で判定負けします。

3.前年の第20回大会では1人の入賞者も出せませんでした。  今回は優勝こそ逃したものの、田村が準優勝・増田が4位・川本が5位・滝田が7位と4人が入賞しました。  また、田村・川本・滝田は大賀が指導する三軒茶屋分支部の選手です。  私1人が指導していた段階を過ぎて、目指していた集団指導体制(「チャンピオン製造工場」)がやっと見えてきました。  その意味では、城西にとって大きな転機となる大会でした。

4.明日・明後日は審査会です。  また、明日のKー1には洪太星・エヴェルトン・テイシェイラが、日曜日のトライアルリーグには渡辺理想・清水賢吾が出場します。  貝沼先生が大活躍ですね(笑)。  

よい週末になりますように!

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福沢諭吉伝説

『福沢諭吉伝説』(佐高信著 角川学芸出版刊)を読みました。  「第八章 福沢精神の体現者、松永安左衛門」から抜粋し、番号を付けて紹介します。

『①“電力の鬼”と呼ばれた松永安左衛門は師の福沢を「意地の人」だと語る。  

②(松永の著書)『人間 福沢諭吉』の中で、松永は、大きな意地に生きる人を大人物といい、小さな意地にとらわれる人を小人物というと規定する。  大人物は常に大きく意地を通し、小人物はいつでもつまらぬ意地に躍起になるというのである。  

③そして、「大意地、大人物論」から見ても、福沢は大物中の大物であったとし、こう続ける。  「小藩下士としての意地、新進洋学者としての意地、開国文明論者としての意地、独立自尊の民間大教育者としての意地等々、とにかく、福沢先生の六十年の生涯には、こうした意地が、終始一貫、つよく張り抜かれた跡(あと)のうかがわれるのは明らかである」

④もちろん、福沢の意地は「凡人凡下の個人的な些事(さじ・・・取るに足らないわずかばかりのこと)」に対するものではなく、すべて、「社会的、国家的、もしくは人権的な大事」に対するものだった。』

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代々木ゼミナール・西谷昇二先生

1.『何があっても、生きてろよ。』(西谷昇二著 サンマーク出版刊)を読みました。  西谷先生は代々木ゼミナールの英語講師です。  著者紹介によると「約20年間にわたりトップ講師として君臨し続けるカリスマ№1講師」だそうです。

2.本書中の「Chapter4[成功論]」から抜粋し、番号を付けて紹介します。

『①ある先生のおかげで苦手な科目が好きになった、あるいは逆に嫌いになった。  そんな経験を持つ人は多いのではないか。  ある科目の好き嫌いは、本人の本質的なところから来ているというより、教え方に大半の責任があると僕は思う。  (中略)

②講師は、あくまで手助けであり、彼が成績を上げてくれるわけではない。  極論を言うと、「先生がいなくても自分一人でも上げてやるぞ」という気持ちがベースにないと、うまくいかなくなる可能性は高い。  たとえ短期的には成績が上がっても、その講師がいなくなると急に成績が下がるということにもなりかねない。  (中略)

③高額な塾や家庭教師が手取り足取り教えた結果、生徒に依存心が育ってしまい、目的の大学や高校には入れたものの、そこでの成績はがた落ち、そのあとの人生で苦労するということがよく起こる。  結局高い授業料を払って学んだのは、依存心だったわけだ。

④講師や導いてくれる人は、触媒に過ぎない。  技術の裏づけがあるのは当然だとして、やる気を起こさせ、英語なら英語の面白さを教えてくれ、それは広く可能性に満ちた世界に通じる門を開く鍵なのだと教えてくれる。  よい導き手とは、そういうものだと思う。  (中略)

⑤いい教師がいて、なんとかしてくれるだろうと思った瞬間から、依存心が起こりはじめている。  どんな運命でも自分で切り開くという気持ちが大切だ。』

3.空手修行においても、依存心には注意する必要がありますね。

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石原慎太郎さんと賀屋興宣さん

1.『私の好きな日本人』(石原慎太郎著 幻冬舎刊)を読みました。  10人の日本人を取り上げていますが、『巨きなリアリスト 賀屋興宣』の項が特に面白かったです。

2.以下は本書に記載された略歴です。

『かや・おきのり(1889~1977)
広島県生まれ。  東京帝国大学法科大学政治学科卒。  大蔵省に入る。  近衛内閣の蔵相などを経て1941年、東条内閣の蔵相となり、戦時経済を取り仕切った。  そのため戦後A級戦犯となり、終身禁錮刑を宣告され服役。  55年仮釈放。  58年、正式赦免(しゃめん)後に自民党公認で総選挙に立候補し、衆議院議員となって復権。  池田内閣の法相などを務め、長きにわたって活躍。  72年、政界から引退。』

3.本文から抜粋し、番号を付けて紹介します。

『①確かにあの頃、かって大官僚といわれながら政治家に転じ大政治家となった人物が何人かいたものだ。  賀屋さんにせよ、岸信介、椎名悦三郎といった能力だけでなしに高い教養も備え魅力も備えた人物たちの大人物たる所以(ゆえん)は、賀屋さんの言葉にあったように、官僚としての彼らの仕事の前にいつも軍部という非合理を押し通す難敵があっての苦労の末に違いない。  (中略)

②賀屋さんと知り合ってからある時、東京裁判の非合法性について質(ただ)したら、「なあに、人間というものは誰しもいびつなものですからね。  だから、あれでもし日本があの戦争に勝っていたら、日本人の方がもっととんでもない裁判をやっていたに違いありませんぜ」肩をすくめながらいっていた。  そして、「まあ、あの裁判は私への勲章みたいなものだと思っていますがね。  こんな国が、あんなアメリカやイギリス相手に三年間も戦争できたのは私の財政のお陰ですよ」  からからと笑っていったものだった。  (中略)

③巣鴨時代を振り返っての述懐として、「監獄というのは人間観察には格好な場所ですな。  巣鴨にはA級戦犯はわずかに二十何人でしたが、B級C級が千数百人いました。  (中略)  しかし戦争中の地位はA級に比べて低くても、はるかに高潔(こうけつ)な人物が大勢いました。  むしろA級の中に、これが当時あんな高い位にいたかと思うような下らぬ、いやしい手合いが何人もいましたね」』

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IKKOさん『我慢』

1.11月4日のブログで、第40回全日本大会での城西支部出場選手のテーマは「我慢」だった、ということを書きました。

2.昨日の朝日新聞で、美容家のIKKOさんの「我慢」についての談話が載っていました。  抜粋し、番号を付けて紹介します。

『①現代は昔に比べて美やファッションの情報が本当に多くなりました。  だから若い人のセンスはよくなっている。  けれど美にかかわる業界でステップアップできない人も増えているのです。

②なぜだか分かりますか?  それは成長するための「我慢」ができないからです。

③才能やセンスは、磨かなければ仕事に生かせないのです。  そのためには先輩に教えを受けてステップを上がっていかなくてはならない。  自分の常識の範囲内では考えられないような異なった価値観も、ぐっと「我慢」して飲み込まなければならない。  自分の理屈や常識がすべてでは、もうそこから成長することはできないのですね。

④覚えておいて欲しい。  一つのステップを上がる時には、一つの「我慢」で乗り越えるということを。』

3.どんな分野であれ、ステップアップするには「我慢」が必要ですね。

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2008年11月 | ARCHIVE-SELECT | 2009年01月