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2008年09月 | ARCHIVE-SELECT | 2008年11月

(35)昭和60年 第17回大会

1.昭和60年6月9日、大阪中央体育館で、第2回ウェイト制大会が開催されました。  城西からは、軽量級に中江、中量級に三和と大賀が出場します。  中江は準々決勝敗退、三和と大賀は準決勝敗退、という結果でした。

2.11月3日、4日、東京都体育館で第17回大会が開催されます。  私が選手として出場した東京都体育館は、この年を最後に、建て替えられることになっていました。  城西からは黒澤・大賀・小笠原・増田・五来が出場します。  第16回大会はケガのために欠場された、松井館長も今回は出場されます。

3.①黒澤(Aブロック・ゼッケン9番)・・・二連覇がかかっていました。  前年の初優勝時より、パワー・テクニックともアップしており、3回戦以外は、準々決勝まですべて一本勝ちで、勝ち上がります。  

②大賀(Aブロック・ゼッケン19番)・・・前年の第1回ウェイト制大会軽量級は優勝したものの、第16回大会では、城西から出場した4選手の中で、1人だけ入賞を逃しました。  二階級制覇をかけて出場した、第2回ウェイト制大会でも、準決勝で延長判定負けしています。  

組み合わせでは、勝ち上がると、第2回ウェイト制大会の中量級・重量級の優勝者・準優勝者に、次々と当たります。  2回戦は重量級準優勝者に体重判定勝ち(74キロと108キロ)、3回戦は中量級優勝者に延長判定勝ち、4回戦は重量級優勝者に体重判定勝ち(74キロと90キロ)しました。 準々決勝で黒澤に敗れますが、6位に入賞します。

③小笠原(Bブロック・ゼッケン60番)・・・第15回大会準優勝、第16回大会5位入賞の小笠原は、2回戦で再延長・判定負けしました。

④増田(Cブロック・ゼッケン82番)・・・第14回大会8位、第15回大会5位入賞の増田は、城西に移籍してきた、前年の第16回大会には出場していません。  4回戦で合せ一本勝ち、準々決勝で技有り・判定勝ちで、準決勝に進みます。

⑤五来(Dブロック・ゼッケン97番)・・・前年6位に入賞した五来は、3回戦で内山武盛と当たり、再延長・判定負けします。  内山は前年まで城西のメンバーでしたが、選手枠の関係で、全日本大会には出場できませんでした。  故郷の宮崎に帰り、入賞(7位)を果たします。

4.①準決勝第1試合・・・黒澤がブラジルのジェームス・北村選手に、合せ一本勝ちします。

②準決勝第2試合・・・増田が松井館長と当たり、3度目の延長戦で判定負けします。  3位決定戦は不戦勝で、増田は3位でした。

③決勝戦・・・黒澤が松井館長に延長・判定負けします。  松井館長が、初優勝を遂げられます。

大会後に大西と話したら、「松井さんは長期政権になりますね。」と予想していました。  大西の予想通り、松井館長はこの後、三連覇を果たされます。

今日は4時から審判講習会、明日・明後日は、いよいよ第40回全日本大会です。  翌3日「文化の日」は、10時から全国支部長会議、夕方6時から城西の30周年記念パーティーです。

よい週末を。


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田辺聖子先生

1.朝日新聞夕刊の、今週の『人生の贈りもの』という連載インタビューは、作家の田辺聖子先生です。  昨日のタイトルは、『毎日晩酌、毎日バラ色』でした。  抜粋して紹介します。

『ーーー田辺さんのエッセーを読むと、落ちこむことが全然なくて、苦労を苦労と思われないみたいなところが、ある気がするんですけれど

「そんなに、厚かましくないわよ。  落ちこみますよ。  小説でも、なかなか考えが浮かばないとか、よくあります。  こんな状態で書いてても、あんまりパッとしないなあ、とか考えながら書いていると、『あ、三べん目のやり直しや』ということも、しょっちゅう。  部屋のなかで、『やりましょう、やりましょう、さあ、やりましょう』なんて、自分で大声で、歌ってやってます。」  (中略)

ーーー色紙に「まいにち ばらいろ」と書かれますね

「あの言葉を見ていると、なんか幸せになるでしょ。  やっぱり、言魂(ことだま)っていうだけあってね。  魂を持っています。  匂いとかね、波動を発してますよ。  ものすごくきれいな言葉を使って、みんなが美しく元気が出て、ほかの人にちょっと親切にしよかって気が起きたりする。  ちょっとでええねん。  せっかくのきれいな優しい日本語だから。  新しい筆なんかおろして、なるべくきれいに書いて贈るの。  ああ楽し。」』

2.数年前に、日経新聞の連載『私の履歴書』を、田辺先生が書かれている時期がありました。  印象に残っている記述があります。  次のような内容だったと思います。

『子どもの頃、よく自宅に借金取りが来た。  ある年末、借金取りが取立てに来たので、家族全員(母親と兄弟姉妹?)で息を潜めて、居留守を使っていた。  しばらくすると、借金取りがあきらめて帰って行った。

その途端、家族の誰からともなく、笑い声が起きた。  本当に悲惨な状況になると、なぜか笑いが起きるという、不思議な体験をした。』

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宇津木魂

1.シドニー五輪(銀メダル)、アテネ五輪(銅メダル)のソフトボール日本代表監督、宇津木妙子(うつぎたえこ)さんが書かれた、『宇津木魂』(文春新書)を読みました。  

2.シドニー五輪の開催年である、2000年1月、台湾で2週間かけて行った、強化合宿について書かれた項を抜粋し、番号を付けて紹介します。

『①この台湾・高雄合宿の激しさは、選手たちの間で、今も伝説になっているほどです。  選手たちにとっては、文字通り地獄の日々だったかもしれません。  (中略)

②選手をここまで追い込むのは、私にとっても一種の賭けでした。  こんなに激しい練習を、なぜするのか。  「根性」をつけさせよう、と思ったわけではありません。  人間にとって「根性」は大事ですが、それは一回の合宿で、簡単につくようなものではありません。

③たとえば、個人ノックをくたくたになるまでやると、力が抜けた状態になります。  そのときのボールの捕り方が、最高の捕り方なのです。  あるいは、手が痛くなるまでバットを振らせて、初めて力が抜ける。  それがバッティングなのです。  倒れる寸前まで練習を積んで、一瞬で体得する技術があります。  それが絶対に必要なのです。

④まず、自分に勝つ。  自分に勝ったら、チームメートに勝たなければ、ポジションが取れません。  そして、レギュラーポジションを取ったら、今度は相手チームに勝て、と教えました。  激しい練習をひとつひとつクリアして、ようやく結果につながる。  スポーツとはそういうものです。』

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地頭がいい

1.「地頭(じあたま)」を、「Yahoo!辞書」の「大辞泉」で引くと、次のように出てきます。

『①大学などでの教育で与えられたのでない、その人本来の頭のよさ。  一般に、知識の多寡でなく、論理的思考力やコミュニケーション能力などをいう。  「―がいい」  「―を鍛える」

② かつらなどをかぶらない、そのままの髪の頭。  地髪(じがみ)。』

2.私が尊敬する、公認会計士の本郷孔洋(よしひろ)先生が書かれた、10月20日のブログに次のような記述がありました。

『英語で、ブックスマート(Book smart)と、ストリートスマート(Street smart)と言う言葉があります。

前者は学校のお勉強が出来た人、後者は世の中でうまくいく人を言っています。

日本では、後者を「地頭がいい」とも言います。  そんな題名の本もあります。』

3.10年ほど前に、ある経営者が、「学歴利口(りこう)と生活利口」という話をされていました。  次のような内容でした。

『学歴利口とは、一般的に入るのが難しいとされている、大学を卒業した人のこと。  生活利口とは、学歴に関係なく、ビジネスを含む生活全般における、問題解決にすぐれた人のこと。  ビジネスで成果を出すには、生活利口であることが大事。』

ただ、広辞苑・大辞林・大辞泉ともに、「学歴利口」「生活利口」は載っていません。

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頭の上の蝿も追えぬ

1.事務所の机の上に、何冊かの本が置いてあります。  朝、事務所に着くと、パソコンでメールをチェックする前に、それぞれ1項(約1~2ページ)ずつ、読むことにしています。  

2.『ことたま』(江原啓之著 徳間書店刊)もその一つです。  『頭の上の蝿(はえ)も追えぬ』、と題した項から抜粋し、番号を付けて紹介します。

『①日本人はもともと、内観する精神性を持っています。  客観的に自分を見つめて、戒める術(すべ)に長けていました。  ところが、現代はどうでしょう?  今や日本は、一億総評論家時代。  マスコミなどで、連日、有名人のバッシングが、報道されているのが現状です。

②「バッシングの対象となっている人たちについて、どう思うか?」と街頭インタビューする、テレビ番組を観て、びっくりしたことがありました。  「私は絶対に、許しません!」 「本当に、失望してしまいました」などと語る人が、大勢いたからです。

③バッシンングの対象となっている人から、個人的に危害を加えられた、というのならわかりますが、誰かを、許すとか許さないと言えるほど、その人はえらいのでしょうか?  失望したとは、ずいぶん、上から目線の発言だと思います。  失言でバッシングされた、芸能人もいましたが、これまでに失言をしたことがない人、なんているのでしょうか?

④目に余る人がいても、昔の人は「もしかして自分も?」と考え、「自分は気をつけよう」と学びにつなげました。  かっての日本では、人は自分を映し出す鏡だ、というスピリチュアルな考え方が、当たり前だったのです。

⑤たとえ、他人の批判をしてしまっても、「自分の頭の上の蝿も追えないで、こういうことを言うのもね」、と最後は戒めで、悪しきカルマを封印し、言霊(ことだま)のベクトルを、反省へと向かわせていたのです。  (中略)  頭の上の蝿を追える人が少ないのが、現代の実情。  今こそ、この言葉を蘇(よみがえ)らせなくては、日本は、低い波長で埋め尽くされてしまいます。』

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(34)昭和60年 チャンピオン製造工場

1.先週のブログでも書きましたが、昭和60年に入ってから、極真会館の機関紙、『パワー空手』の道場紹介の特集で、城西支部は『チャンピオン製造工場』として紹介されました。  

2.第15回全日本大会(大西靖人優勝、小笠原和彦準優勝)、第1回全日本ウェイト制大会(軽量級で大賀雅裕優勝、中江辰美準優勝)、第10回首都圏交流試合(黒澤浩樹優勝)、第16回全日本大会(黒澤浩樹優勝)、第11回首都圏交流試合(三和純優勝、中江辰美準優勝)と、第3回世界大会以外の主だった大会で、立て続けに、チャンピオンを輩出したからだと思われます。  なお、その当時、全関東大会は、まだ開催されていません。

ただ、実際は、私一人で選手育成に当たっており、『チャンピオン製造工場』というより、『チャンピオン製造職人』と言うほうが、近かったと思います。  

3.昭和60年当時、公認会計士事務所を細々と経営していたものの、私の頭の中には、次の事業プランが膨らんでいました。  

また、昭和56年以降、次のように、道場を開設していきます。

昭和56年・・・立川、  昭和58年・・・国立・八王子、  昭和59年・・・町田・田無・高幡不動・吉祥寺、  昭和60年・・・鷺宮・下北沢・三軒茶屋・昭島、  昭和61年・・・二子多摩川・聖蹟桜ヶ丘・上井草

4.そうなると、いつまでも、私が選手に張り付いて、指導するわけにはいかないので、早急に、指導者を養成する必要がありました。

手元に、昭和61年12月20日発行の、『極真カラテ年鑑・第7号』(講談社刊)があります。  「国内道場紹介」を見ると、城西支部の道場責任者として、次のように、書かれています。

代田橋・・・山田・黒澤・増田・大賀・小笠原・三和、  下北沢・・・山田・清水信明、  三軒茶屋・・・大賀、  二子多摩川・・・大賀、  聖蹟桜ヶ丘・・・江口芳治・横井広行、  高幡不動・・・江口・横井、  八王子・・・江口・横井、  町田・・・三和、  立川・・・大畑義男・横井、  昭島・・・中江、  吉祥寺・・・小笠原、  田無・・・中江、  上井草・・・増田、  鷺宮・・・増田・高橋祐一

5.道場責任者の中の、三和、大賀、小笠原、増田、黒澤、中江、江口の7人は、城西の分支部長として、私と共に、選手育成に当たることになります。  ようやく、目指す『チャンピオン製造工場』が、見えてきました。

ではまた、よい週末を。

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飛鳥山と渋沢栄一

1.昭和53年8月に、東京城西支部をスタートさせたのですが、その頃、田端にある郷田師範の道場で、何度か、稽古させていただきました。  夜の稽古の指導を任されたとき、道場生と一緒に、近くの飛鳥山公園までランニングで行き、皆で野天稽古をしたことがあります。

2.昨日、近くを通ったので、懐かしくなって寄ってみたら、渋沢資料館というものがあることを、初めて知りました。  渋沢資料館には、日本の近代的経済社会の基礎を築いた渋沢栄一(1840~1931年)の91年に及ぶ生涯と、携わったさまざまな事業、多くの人々との交流を示す諸資料を、展示してあります。  入館して、色々な資料を興味深く、拝見しました。

3.資料館が建つ、飛鳥山公園の一角には、渋沢栄一が1879年から亡くなるまで、初めは別荘として、後には本邸として、住んだ「曖依村荘(あいいそんそう)」があります。  住居等主要部分は、1945年4月の空襲で焼失したそうですが、洋風茶室の「晩香廬(ばんこうろ)」と、書庫である「青淵文庫(せいえんぶんこ)」は現存しており、私も見てきました。

4.渋沢栄一の略歴を、番号を付けて紹介します。  渋沢資料館の案内と、ウィキペディアを参考にしました。  

『①1840年、現在の埼玉県深谷市血洗島の、農家に生まれます。  家業の農業、藍玉の製造・販売、養蚕を手伝う一方、「論語」を始め幅広く書物を読む、好奇心旺盛な少年でした。

②幕藩体制に疑問を抱いた青年時代でしたが、一橋慶喜に仕え、後に、慶喜が15代将軍職に就くとともに、幕臣となります。  そして、慶喜の弟・昭武に随行して、パリ万国博覧会へ行き、ヨーロッパ各地を見聞し、新しい世界に目を開きました。

③明治維新後は、最初は静岡藩、後に大蔵省に仕えましたが、自ら経済活動に携わろうと、大蔵省を去ります。  企業を発展させ、国を豊かにするためには、「論語」を拠り所に、道徳と経済の一致を常に心掛けねばならぬ、という「道徳経済合一説」を唱えました。  

④第一国立銀行(現みずほ銀行)のほか、東京ガス、東京海上火災保険、王子製紙、秩父セメント(現太平洋セメント)、帝国ホテル、秩父鉄道、京阪電気鉄道、東京証券取引所、キリンビール、サッポロビールなど、多種多様の企業の設立に関わり、その数は500以上とされています。』

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スティーブ・ジョブズ

筑波大学名誉教授の村上和雄先生が書かれた、『アホは神の望み』(サンマーク出版刊)を読みました。  アップルコンピュータの創始者、スティーブ・ジョブズについて書かれた部分を抜粋し、番号を付けて紹介します。

『①彼の人生は、挫折と波乱続きの、ジグザグ人生です。  彼の母親は未婚の大学院生の、いわゆるシングルマザーで、妊娠中から、自分では育てられないから、生まれたらすぐに養子に出す、と決めていたといいます。

②生まれてすぐ、母親の望みどおり、養子に出され、養親のもとで育つが、せっかく入学した大学を、ドロップアウトしてしまう。  コーラの瓶を集めて、食費をひねり出すような、貧乏暮らしの末に、起業したアップル社は大成功するが、よく知られているように、そのみずから興した会社を、他の経営陣との対立がもとで、追い出されてしまう。

③築き上げてきたものを、すべて失った気がして、しばらくの間は、精神的にどん底をさまよった、といいます。  しかし、やがて、アップルを追い出されたことは人生最良の出来事だった、と感じるようになり、もう一度、一から出直そう、という気持ちを取り戻すことができたそうです。  

④その変化をジョブズは、「成功者であることの重みが、ビギナーであることの軽みに変わったから」と述べています。  それまで構築してきたものを失ったことは、大きなショックであったにはちがいないが、同時にそれは、自分の背中からよけいな荷物を下ろし、そのぶん自由度が増して、人生をリセットすることにつながったというのです。

⑤そして彼は、ピクサーという、新しい映像製作会社を興し、生涯の伴侶(はんりょ)となる女性とも出会います。  やがて再度、アップルに復帰し、世界的なヒットとなる、iMacやiPodなどを開発して、業績不振に陥っていた同社を再成長に導きます。  そうしたことも、アップルをクビになっていなければ、何一つ起こらなかった。  だから、人生には、「ひどい味の薬」が必要なのだ、とも述べています。』

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赤塚不二夫先生

1.『これでいいのだ』(赤塚不二夫著 文春文庫)を読みました。  今年の8月2日に亡くなられた、漫画家の赤塚不二夫先生の自叙伝です。

2.巻末の「解説にかえて」を少年サンデーの担当者だった、武居俊樹さんが書かれています。  抜粋し、番号を付けて紹介します。

『①赤塚は冒頭に、〝おやじとかあちゃんに感謝のココロを捧げるのだ〟と書いている。  

②この本には、赤塚家の家族のことが、主に書かれている。  赤塚家では、夫婦・親子が一つ屋根の下で暮らせた日々は、驚くほど短い。  

③時代=戦争に翻弄され、家族は引き離される。  貧乏と飢えにさらされながらも、一緒に暮らせる日を夢見ている。』

3.赤塚先生が小学校6年生頃の、お母さんについて書かれている部分を、抜粋し、番号を付けて紹介します。

『①かあちゃんは、いつも暗いうちに起き、子供たちに食べさせる、お粥を炊く。  

②そして、出かける前に、必ず僕の枕元にきて、顔をぼくの耳もとに近づけ、小さな声で言うのだ。  「フジオ、行ってくるからね」。  そして、枕元に、毎朝10円置いて出かけた。  

③ささやくような小さな声は、隣で寝ている妹と弟の目を、覚まさないためだ。  同時に、父親のいない一家の長男である、ぼくに〈うちのことは頼んだよ〉、と伝える意味もあったようだ。  さらに、〈この子たちと一緒に、今日も一生懸命生きます〉、と自分自身に言い聞かせる、一種のお祈りであったかもしれない。  (中略)  

④この毎朝の儀式によって、ぼくは無意識に、妹と弟に対する責任感を持つようになったと思うし、よくひっぱたいたかあちゃんの、泣きたくなるほどのやさしさと、細かい心づかいを感じずにはいられなかった。』

3.20年ほど前、大山総裁と一緒に出席させていただいた、ある結婚式に、赤塚先生も新婦側の来賓として、出席されていました。

赤塚先生のスピーチに、大山総裁が大笑いされていたことを思い出します。

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酒井雄哉・大阿闍梨

1.『一日一生』(酒井雄哉著 朝日新聞出版刊)を読みました。  酒井雄哉(さかいゆうさい)大阿闍梨(だいあじゃり)は、『千日回峰(かいほう)行』を2度行っています。  千日回峰行とは、約7年かけて約4万キロを歩くなどの荒行のことです。  成し遂げた者は、大行満(だいぎょうまん)大阿闍梨と呼ばれます。 

2.『ありのままの自分と、しかっと向き合い続ける』と題した項を、番号を付けて紹介します。

『①「生き仏」なんていわれると、ぼくは気を付けないといけないなあと思う。  たまたま、比叡山に来て、比叡山に拾われて、比叡山で行をさせてもらった、っていうだけのこと。  1200年の歴史ある大きな舞台で、行をさせてもらった。  (中略)

②だって、同じことをたった1人で、名もない山でやったのだったら、そんなことを言われるかい?  それなのに、みんなから「仏様」だなんて言われて、そうですか、ってふんぞり返っちゃったら、仏さんは怒るよねえ。  (中略)

③周りの自分への対応が変わると、自分が偉くなったような、気がしちゃう。  それ相応に扱ってくれ、と言い出したりね。  そうなると、おごりが出てくるし、自分の心を磨かなくなる。  現実に今とらわれている世界だけでもって、勝負しようとしてしまうから、表面ばかりが気になるが、人生は、見えている世界だけではないからね。

④自分の地金(じがね)は、自分が一番ようわかっているでしょう。  大事なのは、人からすごいと言われることじゃない。  人間は、金持ちでも貧乏でも、頭が良くてもできが悪くても、だれでもいつかは死ぬ。  死んだら終わり。  だれも変わらないんだ。  大事なのは、今の自分の姿を、自然にありのままにとらえて、命の続く限り、本当の人生を生きることなんだな。』

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(33)昭和59年 第16回大会

1.昭和59年11月3日・4日、第16回全日本大会が開催されました。  城西からは、小笠原・黒澤・大賀・五来の4人が出場します。  大西は、第3回世界大会を最後に選手を引退しました。  また、これまでの実績から優勝候補筆頭と目されていた、松井館長は腰痛のため欠場されます。  春に城西に移籍してきた増田も、写真専門学校に通っており、欠場しました。

2.小笠原(Aブロック・ゼッケン9番)・・・前回大会では準優勝したものの、直後の世界大会は4回戦負けです。  雪辱戦でした。

1回戦・2回戦ともに合せ一本勝ち、4回戦も一本勝ちと順調に勝ち上がります。  準々決勝は、前回大会の2回戦で体重判定勝ちした、木元選手との因縁の対決になりました。  4度の延長戦を戦い、判定負けし、5位に入賞します。

3.黒澤(Bブロック・ゼッケン60番)・・・春の首都圏交流試合で圧倒的な強さで優勝していました。  機関紙『パワー空手』の大会直前号でも、『城西の秘密兵器』というニックネームで、優勝候補の一人として紹介されます。  大西は「先生、今年は黒澤ですよ。」と、予想を立てていました。

3回戦は技有り・判定勝ち、準々決勝・準決勝は合せ一本勝ちで、決勝まで楽々勝ち進みます。  決勝戦は、優勝候補の竹山選手と対戦しますが、優勢に試合を進め、延長1回・判定勝ちで、初出場・初優勝を遂げました。

4.大賀(Cブロック・ゼッケン71番)・・・春の第1回ウェイト制大会・軽量級で優勝しています。

2回戦で技有り・判定勝ち、3回戦も判定勝ちで、4回戦まで駒を進めました。  対戦相手は優勝候補の水口選手です。  延長2回を戦い、試し割り判定で敗れ、入賞一歩手前で涙を呑みました。

5.五来(Dブロック・ゼッケン101番)・・・前年末の首都圏交流試合で、優勝した大賀に続いて、準優勝しています。

2回戦・4回戦と合せ一本勝ちしました。  準々決勝の相手は竹山選手です。  延長1回・判定負けし、6位に入賞しました。

6.4人出場して、2人が入賞、1人が優勝という結果です。  大会後に出た『空手道』という月刊誌には、「3人の入賞者を送り込んだ城西勢の動きは、他の極真勢とは一味違うものを感じさせた。」と書かれていました。

7.大会の直後に行われた、第11回首都圏交流試合でも、三和が優勝、中江が準優勝します。  『パワー空手』の道場紹介の特集で、『チャンピオン製造工場』として取り上げられたのも、この頃です。

よい週末を!

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孫子に学ぶ

『孫子に学ぶ12章』(守屋洋著 角川SSC新書)を読みました。  第2章の『勝算無きは戦うなかれ』から抜粋し、番号を付けて紹介します。

『①中国の長い歴史を見ても、進むことだけを知って退くことを知らないリーダーは、途中で自滅している。  大きく勢力を拡大して天下を取ったリーダーは、いずれも見切り時が早いのだ。  誤解をおそれずにいえば、逃げ方のうまいリーダーが天下を取っているといってよい。

②一例をあげると、例えば『三国志』の曹操(そうそう)である。  (中略)  なによりもかれは、戦が強かった。  そういう能力に物をいわせて、10年足らずのあいだに、広大な中国一帯を支配下におさめている。  かれの戦のやり方は、『孫子(そんし)』の兵法にきわめて忠実であった。  (中略)

③しかし、曹操といえども常勝ではない。  生涯になんどか、かなり手痛い負け戦をしているのである。  (中略) かれの偉いところは、同じ負け方をしていないことだ。  多分、なぜ敗れたのか、敗因を徹底的に分析し、それを教訓として次の戦いに活かしたのであろう。

④さらに彼のすばらしいところは、撤退の見切り時が早かったことである。  対陣して、これはだめだと見きわめると、さっさと撤退して次の戦いに備えた。  (中略)

⑤日本の戦国武将のなかで、もっともよく『孫子』に学んだ1人が甲斐(かい)の武田信玄だといわれる。  その信玄がどこかで、『40歳になるまでは勝つ戦いを心がけよ。  だが、40歳をすぎたら負けない戦いを心がけよ』と、語っているという。

⑥当時の40歳はすでに老境である。  そんな歳になって失敗したら、巻き返しがむずかしくなる。  だから、40歳をすぎたら、失敗しないように慎重にやれということだ。  ちなみに、当時の40歳は今なら50歳といったところかもしれない。』

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有馬頼底老師

1.『無の道を生きるー禅の辻説法』(有馬頼底著 集英社新書)を読みました。  臨済宗・相国寺(しょうこくじ)派・七代管長の有馬老師は、1933年東京生まれで、金閣寺・銀閣寺の住職や、京都仏教会理事長を務められています。

2.本書に書かれている、有馬老師の生い立ちを、番号を付けて紹介します。  

『①私が生まれた有馬家というのは、かの有馬温泉や、競馬の有馬記念ともゆかりのある、大名家・有馬家の分家にあたり、父は男爵、母の実家は、さかのぼれば徳川家康の生みの親につらなる家系、という子爵の家でした。

②私は、学習院の幼稚園の2年目に、思いがけず、皇太子様(つまり今上天皇です)の遊び相手に選ばれ、初等科へと進学します。  ところが、初等科2年の秋に、両親がついに離婚することになりました。  私達3兄弟は、ひとまず九州・久留米にある、有馬家ゆかりの家に預けられ、身の振り方が協議されたのです。  (中略)

③ある日、伯父に、「お前は将来、何になりたい?」と聞かれ、そのころちょうど、一休さんの絵本を読んでいた私は、「一休さんのような人になりたいです」と答えてしまった。  そこで、私は初代久留米藩主・豊氏(とようじ)が、有馬家の菩提寺として建立した寺に、預けられることになったのです。』

3.本書の、『がんとも仲良しになる』の項から、抜粋し、番号を付けて紹介します。

『①あるとき、知り合いがお見えになって、ひどく元気がなかった。  どこか調子でも悪いのかと尋ねると、自分は肝臓がんで、もうじきあきませんのや、とおっしゃった。  こういうとき、下手に大丈夫ですよ、きっと治りますよ、なんていうのは、一番よくない。  (中略)

②ですから私は、「そうか、なら、病気と仲良うしいや」とその方に申し上げた。  するとその方は、私のその一言で、何かが吹っ切れたみたいで、「分かりました!」と帰っていかれました。  次にお見えになったら、えらい元気になっていて、前回会ったときとは別人のようです。  (中略)

③そのうちに、私が大腸ポリープを切除するために入院していると、その方がお見舞いに来てくださった。  (中略)  帰りがけに「管長さん、早く元気になっておくれやっしゃ」 「そやな、あんたも気張ろうな」。  そんな言葉を交わして別れて、それからもう1月しないうちに、なくなったんです。  (中略)  後で、奥様に聞いたら、「にっこり笑って死なはりました」そうです。

④だから、なんでもそう。  気持ちの持ちようです。  心の問題。  今ある現実をどう受け止めるか、です。  落ちこんでいるなら、落ちこんでいる今の自分と、仲良くする。  そうしたらもう、あとは上がってくるしかないわけです。』

4.あるご縁で、何度か、有馬老師に座禅の指導をしていただいたことがありました。  夏の夜明け前の座禅の最中に、眠くなってしまい、老師に「動くな!」と一喝されたことを思い出します(恥)。  

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(32)昭和59年 前半のニュース

第3回世界大会終了後、昭和59年前半のニュースです。

①増田章が移籍入会・・・私が増田を初めて見たのは、昭和55年6月、第2回首都圏交流試合です。  石川支部から出場した増田は、高校生離れした組手で、3位に入賞しました。  増田の全日本デビューは、昭和56年の第13回大会で、2回戦で前年のチャンピオン三瓶選手と当たり、延長3回、惜敗します。  

その後は、第14回大会8位、第15回大会5位、第3回世界大会ベスト16と成績を残し、松井館長とともに、将来のチャンピオン候補と目されていました。

昭和59年春、東京の写真専門学校に入学したのを機に、城西に移籍してきます。

②大賀雅裕が第1回全日本ウェイト制大会軽量級で優勝、中江辰美が準優勝・・・4月、大阪で第1回のウェイト制大会が開催されます。  

大山倍達総裁は、スポーツであるボクシングなどと違い、武道である空手の試合は、体重無差別で行われるべきだ、と常々言われていました。  

一方で、空手をオリンピック競技に入れたい、という長年の夢を持たれていました。  結局、世界各国の国際オリンピック委員(IOC)の賛同を得るには、体重別の試合もやむなし、との考えから、ウェイト制大会が開催されたわけです。

軽量級(70キロ未満)、中量級(80キロ未満)、重量級(80キロ以上)の3階級で行われました。  48名が参加した軽量級には、城西から大賀と中江が出場します。  前年、第15回全日本大会決勝の大西・小笠原戦の再現のように、両者決勝まで勝ちあがり、判定で大賀が優勝します。

③黒澤浩樹が第10回首都圏交流試合で優勝・・・7月28日のブログで書きましたが、昭和58年4月の第8回交流試合に負けたことがきっかけで、黒澤は城西に移籍してきました。  

移籍後の昭和58年秋、支部内の試合に出場し、準決勝で先輩の小笠原には負けたものの、第3位に入賞しています。  しかし、他支部の選手も多数出場する交流試合は、黒澤にとって、1年間城西で稽古してきた成果を試す機会であると同時に、前年の雪辱戦でもありました。 

黒澤は、勝ち進むほどに調子を上げ、3回戦から決勝までの3試合は、すべて1本勝ちします。  特に、下段回し蹴りの威力には、目を見張るものがありました。

秋の3連休です。  

秋といえば、スポーツの秋、芸術の秋、食欲の秋、読書の秋、と色々あります。  

そろそろ、熱燗もいい季節ですね。

よい週末を! 

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薬師寺保栄とマック・クリハラ

池田祥規支部長から借りた、もう1冊の本は『どつかれ者』(薬師寺保栄withライトスタッフ著 小学館刊)です。  抜粋し、番号を付けて紹介します。

『①イメージ・トレーニング・・・(薬師寺)「僕の場合は、だいたい試合の1ヵ月ぐらい前から、イメージ・トレーニングをしましたね。  まず、相手の動きをビデオで見て、完璧に理解する。  (中略)  自分の出すパンチが、思いどおりに相手に当たる最高のケースを、頭の中で連続的にイメージしたんです。  反対に、自分のパンチがなかなか当たらない、または相手の返しのパンチを食らったり、相手の動きの速さについていけない、といった最悪のケースも思い描く。  このように、最高と最悪のケースを、交互に1ヵ月近く繰り返しイメージしていると、そのうちに、対戦相手とすでに1度試合をしたように思えてくる。  (中略)  試合の前日には、あれこれ無駄なことを考えなくなるし、実際の試合でも、相手の動きにすばやく反応できたんですよ。」

②マック・クリハラの3つの教え・・・マックのボクサー育成の基本は、「長所で短所をカバーする」こと。  そして、トレーナーとしてボクサーに指摘することが決まって3つあった。  1つ目は、自分のファイティング・スタイルを変えてはいけないこと。  2つ目は、そのスタイルを改善すること。  3つ目は、新しいものを発見すること。

③勝つための戦略・・・(薬師寺)「マックは、まず事前に対戦相手のビデオなどを見て、その相手に応じた最も効果的と思われる、攻撃パターンや防御テクニックをチェックするんです。  そして、僕の基本スタイルに合わせて、対戦相手用のスタイルを再構築する。  僕は、その再構築されたスタイルを、トレーニングの中で体と頭で覚えるわけですよ。  それは『相手を倒す』のではなく、『試合に勝つ』ことを第一としてつくられていて、時には、ラウンドごとの戦い方まで細かく指示された。」

④休養・・・(マック)「トレーニングを行う際に、トレーナーが選手に対してナーバスにならなければいけないのは、選手の疲労度を見極めることである。  疲労が重ければ、予定していた練習メニューを急遽(きゅうきょ)変更して、肉体的に軽いメニューにするなどの工夫をする。  あるいは、練習の途中でもトレーニングを速やかに中止して、選手に十分な休息を与えることもあろう。  トレーナーは、こういった選手の疲労を見極めることが大切なことであり、それに応じた指示を出すタイミングにも、気をつけなければいけない。」』

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祈りの研究

『祈りの研究』(中村雅彦著 東洋経済新報社刊)を読みました。  中村先生は心理学者ですが、愛媛大学教授時代に、奥四国の神社で修行を積み、「拝み屋」(祈祷師)になったそうです。  また、神職の資格も、持たれています。  本書は、質疑応答の形式で書かれています。  抜粋し、番号を付けて紹介します。

『①ーーー先祖の因縁話としては、先祖に武士がいて、人を斬った因果が子孫に影響している、といった話が多いようですが。

「何百年前の先祖の因縁は、もう関係ないのですよ。  子孫の数そのものも、膨大な数になっていますからね。  (中略)  因果が出てくるのは、せいぜい明治とか大正、この100年くらいの先祖のものです。  (中略)  直近の先祖ほど、影響は強いです。」

②ーーー個々の出来事とは別に、運をよくする生き方などはありますか。

「神仏を信じる、信じないということとは関係なく、その人の強い思いとか信念、それをしっかり持っている人は強運の持ち主が多いです。  それは、強い意識が継続され、ひとつにまとまり、集中するからです。  同時に、どんなことが起きてもくじけない、という精神的な回復力があるから、力を持つのです。  だから、いくら逆風に遭っても絶対にくじけない、負けない、そういう思いを持っている人は、自然と運を呼び込むものです。」

③---神社をはじめとして、聖地や霊地をパワースポットとして、そこに行くこと自体に価値を見出す人がいますが、それについてはどう思われますか。

「もともと、神社が建っている場所がパワースポットを選んでいるものですから、行くだけで元気になれますし、運気もよくなります。  運気と元気は関係しているのです。」

④---楽に成功したい、お金も、地位も、名誉も得て、いい思いをしてみたいと思いがちですが、ある程度、節度を心がけたほうがいいのでしょうか。

「節度は大事です。  (中略)  そして、達成されたときに、ちゃんと満足したという気持ちを、感謝という形で伝えることです。  それがまた、次のさらなる幸運を呼び込むことがあるので、そういう手順で欲求を達成していけば、いくらその欲求が上がっていっても、問題ないわけです。」

⑤---先生のお考えは、いたずらに来世に救いを求めるとか、あきらめるのではなく、精一杯今を生きて、人生をなるべくプラスの方向に向ける、というところにあるのでしょうか。

「いまここに生きていることの、感謝ですよ。  現世だけを考えてしまうと、この世に生まれた意味、生きる意味が、なかなかつかみにくくなる。  けれども、その先に、来世はもちろんある、という考え方です。  だからいま、ここにある自分の命を、欲望をむさぼるためだけの人生にするのではなくて、常に、周りの幸せを願って生きているかどうか、が大事なことです。」』

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辰吉流発想法

池田祥規支部長が、本を2冊貸してくれました。  そのうちの『辰吉流発想法』(辰吉丈一郎著 ベースボールマガジン社刊)から抜粋し、番号を付けて紹介します。  辰吉さんは、元WBCバンタム級世界チャンピオンです。

『①プロローグ・・・ボクには、自分を実験台にして試してきたことが、山ほどある。  ボクシングも、また、そのひとつだろう。  減量しかり、練習しかり。  (こうしたら、どうなるんだろう?)  (ああしたら、違うかなぁ)  考えると、楽しくてしょうがない。  面白くて、いろんなことを試してしまう。

②人にやらされるか、自分でやるか・・・練習の量や質が、問題ではない。  あえて、どちらが大事か、と問われれば質なのだが、量をこなして、体に覚えこませなければいけないものもある。  でも、やはり基本的には、質が大事だ。  さらに、もう一段突き詰めていくと、自分で考え抜いた、練習内容の中にこそ、問われるものがあると思う。  これだけやったからいいだろう、ではない。  自分は、これだけのことを、このぐらいしないと強くなれない、と真剣に考え、取り組んだかどうか、なのだ。

③ボディーブローの心得・・・大久保淳一トレーナーが教えてくれたのが、左フックのボディー打ちだった。  「ジャブを打ったバランスで、左の肘を脇腹に置いて、そのまま真っすぐ、突き出すように出してみぃ。  すくい上げたら、アカン。  真っすぐドーンと、押し込め。  腹に当てるんやない。  内臓に当てろ」

④試合までのコンディション作り・・・ボクは以前、全盛期のマイク・タイソンが、試合前「怖いんだ」と恐怖を訴えて泣いている姿を、テレビのドキュメンタリー番組か何かで見て、ああコイツもそうなんだ、と
思った覚えがある。  あのタイソンが、グッと身近に感じられてものだ。  (中略)

相手はパンチがある。  相手はテクニシャンだ。  相手は強い。  (中略)  「いいや、実際やってみて、ホンマに強かったとしても、俺が練習してきたことに比べたら、たやすいことや。  たかだか、12ラウンド36分間やればいい、だけのことやないか。  オレはこれまで、お前に勝つためだけに、3ヵ月間キッツイ練習してきた。  3ヵ月分のシンドイ思いと、36分間の痛い思い、そりゃ厳しい痛みやろけど、へとも思わんわい。  どっちがツライと思うねん。  練習で泣いた分、試合で笑ったらぁ」

最後の最後は、自己暗示である。  「リング上で、意識のなくなるときもあるやろ。  でも、それがわかった上で、今日のために練習してきたんや。  勝ちを譲るわけにはイカン!」  ボクの場合、こう思ったら、案外耐えられるものなのだ。』  

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五木寛之『遊行の門』

1.先週の金曜日、極真祭のため、京都に向かう新幹線の中で、『遊行(ゆぎょう)の門』(五木寛之著 徳間書店刊)を読みました。  表紙カバーの文章に感銘を受けたので、番号を付けて紹介します。

『①自分には何もない、と感じるときが、人には必ずあるものだ。  自分は誰にも必要とされていない、生きるねうちがない、と、私もかって考えたことがあった。

②しかし、いま私はそういうふうには思わない。  人間は生きている、ただそのことだけでも価値がある。  成功しようと不遇のまますごそうと、とりあえず今日まで生きてきた、そこに意味があるのだ。

③十年生きただけでもえらい。  まして二十年、三十年、四十年と生き続けたことは、大変なことである。  五十年、六十年、それ以上に生きたことは、それだけでも凄いことなのだ。

④いまを生き、なんとか明日も生きようとしている人びとに、心からの敬意を表したいと思う。        著者』

2.土曜日の夜、先斗(ぽんと)町・鴨川沿いの豆腐料理店で、城西の初代師範代だった浜井良明君(現・中部本部長)と、古い弟子で、今は浜井君の会社にいる大坂君と飲みました。  浜井君の会社のベトナム人通訳、アンさん・チャンさんご夫妻も一緒です。

楽しかったこともあり、アンさん・チャンさんに受けたこともあり、大坂君を酒の肴(さかな)にしてしまいました。

オーサカ、いじりすぎちゃってゴメン(笑)。  でも、楽しかったね。

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(31)昭和59年 第3回世界大会

1.第15回全日本大会優勝の大西と、準優勝の小笠原は、昭和59年1月20~22日に日本武道館で行われる、第3回世界大会の日本代表メンバーに、自動的に選ばれました。

2.そもそも大西は、第15回大会を最後の大会にする、と考えていたようです。  また、夏には肝炎で1ヵ月半入院していましたし、2ヵ月前の第15回大会初日に右足親指を骨折していて、体調も完璧とは言えませんでした。  本人も悩んだようですが、結局、世界大会には出場することになりました。

3.大会当日は、30年ぶりの大雪とのことでした。  いつものように、私が車を運転して、会場入りしたのですが、初日帰り道の新宿で、タイヤチェーンを3人で巻いた記憶があります。  また、当時、大西は仕事の関係で大阪に住んでいました。  大会前日は大賀の所に泊めてもらったようですが、あまりに寒かったとのことで、次の晩からは私のマンションに泊まりました。

4.小笠原の大会結果です。

1回戦・・・下段回し蹴り・技あり2つで、合せ一本勝ち。

2回戦・・・下段回し蹴り・技あり、判定勝ち。

3回戦・・・本戦判定勝ち。

4回戦・・・6位に入賞した、イギリスのニコラス・コスタ選手に延長2回、判定負け。

5.大西の大会結果です。

1回戦・・・シード。

2回戦・・・下段回し蹴り・一本勝ち。

3回戦・・・本戦判定勝ち。

4回戦・・・下段回し蹴り・技あり2つで、合せ一本勝ち。

5回戦・・・増田章選手に、延長3回、判定勝ち。

6回戦・・・松井館長に、延長3回、判定負け。  5位入賞。

6.前回の第2回大会で、アメリカのウィリー・ウィリアムス選手が、準決勝で反則負け、という大波乱を巻き起こしていました。  大西は、『自分は一発勝負には強いですから、ウィリーと戦いたいです。』とよく言っていました。  しかし、その願いは叶わず、ウィリー選手は7位に入賞した田原敬三選手に、延長3回判定負けします。

7.土日は、京都で極真祭です。  よい週末を。



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相田みつをの「おかげさん」

携帯サイト『相田みつをの心』の『今日のことば』は「おかげさん」です。  相田みつをさんの解説を、番号を付けて紹介します。

『①「役者冥利(みょうり)に尽きる」とか、「冥加(みょうが)に余る」などと、昔の人はよく言いました。  身に余る恩恵を受けて、感謝することですね。

②冥というのは、暗いという意味です。  暗いから眼に見えない。  暗いから分からない。  自分の分からない所、自分の気が付かない所で、いつのまにか加えられている、仏さまの加護、ご利益、それが冥利であり、冥加です。

③そのことを「おかげさま」と言うんです。  「おかげ」の「かげ」は、暗い蔭のことです。  自分では見えないから、蔭なんです。  よく見える表のことではありません。

④私達が今、ここに生きている、いや、生かされているためには、自分の気の付かない所で、どのくらい冥利、冥加を受けているかも分かりません。

⑤何もかも「お蔭さま」です。  「表さま」じゃないんです。』

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五木寛之先生と帯津良一先生

『健康問答』(五木寛之・帯津良一共著 平凡社刊)を読みました。  作家の五木先生と、医学博士の帯津先生の対談集です。  『笑いは、ほんとうに元気の源か』という項から抜粋し、紹介します。

『五木・・・アメリカの病院で行った調査では、笑うことも、涙することも、ともに人間の自然治癒力を向上させたというんですね。  とくに涙のほうが、笑いよりも、強く、長くつづく結果が出たと報告していたんです。  私は、笑いと同じように、涙の効用を説いてきましたから、ああ、やっぱりと納得するものがありました。  明るく前向きに生きることは大切で、心身にもよいのだけれども、無理することはない。  泣きたいとき、落ち込んだときは、自分の感情のままに、泣いたり、深く嘆息をつけばいいと、私は思うんですよ。

帯津・・・同感です。  深刻な状況にあるガンの患者さんや、家族に対して、「明るく前向きに」という言葉は酷ですよ。  人間は、ほんらい、そんなに明るい存在じゃない。  悲しくて寂しいものだと思うんです。  だから、患者さんたちにいうんですよ。  「人間は悲しくて寂しいものだ、ときめようじゃないか」と。

五木・・・お医者さんにそういってもらえると、患者さんは嬉しいでしょうね。  昔の仏教徒は、人は生老病死(しょうろうびょうし)の苦しみを背負って、泣きながら生まれてきて、泣きながら死んでいくものだ・・・と教えられてきたから、笑え、笑え、嘘でもいいから大声で笑えといわれると、すごく違和感を覚えるらしい。  でも、主治医の先生が、「人間はいずれ死ぬ。  君も私も。  この世はつかの間の旅みたいなもの。  それぞれが、一人ひとりの重荷を背負って、生きていくんだよ」という考えをもっていると、すごく楽になりますね。

帯津・・・ええ。  その寂しさ、悲しさの原点に立って、一歩ずつ、少しでも明るい方向に、歩いていけたらいいんじゃないかと思うんです。  無理に笑うこともなければ、無理に泣く必要もない。  ただ、あるがままにですね。

五木・・・そう、ときどき、あーあ、と長い嘆息をつきながらね。』

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2008年09月 | ARCHIVE-SELECT | 2008年11月