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2008.04.30 Wed
(14)昭和55年 第2回首都圏交流試合
1.昭和55年4月、念願の常設道場を世田谷区の代田橋にオープンし、いつでも稽古できる環境が整いました。
2.6月、第2回首都圏交流試合が、前年末の第1回と同様、城東支部亀戸道場で開催されます。
第1回交流試合でベスト3を独占したため、連覇に向けて期待が膨らんでいました。
3.第1回の結果を浜井識安君に話したところ、石川支部からも選手が参加することになりました。
水口、松下、増田、国本(現・石川支部長)らの選手が出場します。
4.結果は、石川支部の水口、松下、増田の3選手がベスト3を独占します。 第1回・第2回の交流試合は3ブロック制だったので、3選手がリーグ(総当り)戦を行い、優勝・水口、準優勝・松下、第3位・増田となりました。
城西の選手は、鴨志田(現・茨城常総支部長)が1人だけベスト6に残りましたが、前回優勝の大西を含め、完敗です。
満を持して臨んだ試合だけに、ショックでした。
5.石川支部は城西より2年ほど早くスタートしており、水口らの選手は、東孝さん(当時の宮城支部長)の主催する東北大会にも遠征し、上位入賞を果たしていました。
キャリアの差は歴然です。 技術的には突きの連打の有効性を学びました。
6.この時、高校生で第3位に入賞した増田章が、後に城西に移籍して、第22回全日本大会で優勝します。
また、準優勝した松下利男選手が指導する石川県七尾道場の出身者が、現在城西で指導員を務める山辺光英と森善十朗です。
めぐり合わせの面白さを感じます。
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2008.04.28 Mon
川本和久監督
1.4月26日の朝日新聞・別紙『be on Saturday』に、福島大学陸上競技部監督の川本和久さんが、取り上げられていました。 女子短距離を中心に、教え子が次々と日本記録を更新し、卒業・実業団入り後も、福島にとどまり、練習を続けているそうです。 走り幅跳びの池田久美子、400mの丹野麻美、800mの佐藤美保、400mハードルの久保里美らの選手が、北京五輪を目指しています。
2.インタビュー記事から、抜粋して紹介します。
①短、中距離や跳躍では、身体的に日本人は不利だとされます。・・・『人間、出来ない言い訳は、いくらでも考えつくんですよね。 「人種が違う」というのもその1つです。 (中略) 91年に留学して、カール・ルイスのコーチ、トム・テレツさんに、「それは違う。 だれにも100mは100mだ」と諭(さと)されました。 その言葉で、自分に「福島大は地方だから、いい選手が来ないから、練習環境も良くないから」と言い訳をして、甘えていたことに気づきました。』
②女子短距離を中心に、強化してきたのはなぜですか。・・・『ビジネスの世界でもそうでしょうが、成果を出すには、分野を特化する必要があります。』
③趣味や息抜きは?・・・『陸上やってること自体が、楽しいから。 (中略) 選手と陸上であちこち行って、体験を積めるから、こんなに幸せな人間は、いないと思いますね。』
3.解説記事から、抜粋して紹介します。
①池田久美子選手の話。「試合で私の結果が良い時に、先生はその日だけ喜んで、翌日は普通の態度で練習。 悪い時でも、『そんな時もあるさ』と引きずりません」 緻密(ちみつ)でありながら、楽天的な指導者が、内省的で粘り強い、東北人の選手らと融合して「陸上王国」を作り上げた。
②一流アスリートを育てるコーチの仕事は、肉体の動きを、どこまで言語化(げんごか)できるかにかかるとされる。 丹野麻美選手の話。「先生の指導は、ポンとか、ガツーンとか、擬音(ぎおん)が多いのが特徴。 それがよく分かる」 選手に、イメージを短い言葉で、理解させるために、擬音を使うのも効果的だ。
③才能に恵まれたトップ選手を育てるだけでなく、自律意識の高い集団をつくることに腐心(ふしん)した。 川本和久監督の話。「シンデレラを1人作って、二人三脚で結果を出しても、後に何にも残りません。 普遍化(ふへんか)できる技術と指導法を蓄積すれば、ある選手で6年かかったことが次の選手で4年、その次は2年で出来ます。」
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2008.04.25 Fri
度胸
1.経済評論家・作家の邱永漢(きゅうえいかん)先生については、私のブログで何度か紹介しています。
2.昨日の『Q&A ハイハイQさんQさんデス』という、邱先生への質問サイトのテーマは『度胸』についてでした。 邱先生は、第2次世界大戦後の台湾で、反政府運動に巻き込まれ、香港に逃亡するなど、波乱万丈の人生を送ってこられました。 邱先生の「答え」を紹介します。 番号は私が振りました。
『①あなたが想像するほど、私は度胸のいい人ではありません。 心配性でもあるし、細かいことにも、それなりに気をつけます。 ですから、例えば、政府に反対するようなことをやったら、捕まえられて、銃殺にされるというのは、当然予想に入るわけですから、捕まらないように努力するということです。
②私の知っている人の中には、自分は悪いことをしていない、と思っている人もいました。 悪いことではないんですけど、政府から見れば悪い事ですから、そういう人は不用意で、捕まって牢屋に入ったり、銃殺されたりしてしまいました。
③私が助かったのは、政府の目から見たら悪いことをしているんだから、捕まらないように逃げなきゃ、といつも思っていたからです。 露見しそうになった時に、忽(たちま)ち逃げ支度にかかったので、そのおかげで、今日まで、生き伸びたというだけのことです。
④肝っ玉が座っているというよりも、そういうことに対する、認識と予防ができているかどうか、という差じゃないかと思います。 』
3.私も、度胸のある方ではありません。 どちらかというと、怖がりの方です。 現役選手のころ、そんな自分の度胸のなさが、いやだったこともあります。 でも、度胸がないということは、裏返すと、繊細で緻密(ちみつ)ということです。
極真空手の組手試合の攻防は、極めて緻密な動きが、要求されます。 「俺も叩くから、お前も叩け」といった大雑把(おおざっぱ)な動きでは、チャンピオンになることは不可能です。 私の度胸のなさが「城西のテクニック」につながったのかもしれません(笑)。
4.ビジネスの世界でも、会社を長期的に発展させている社長は、大体、怖がりです。 怖いから、倒産しないように、慎重に緻密に経営するわけです。 度胸がよすぎると、短期的には成長するとしても、どこかで、予期せぬ落とし穴にはまる可能性が高いようです。
明日は、大山総裁の命日です(合掌)。 三峯神社で行われる、14年祭に参加します。
よい週末を。
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2008.04.24 Thu
(13)昭和55年 代田橋道場
1.昭和53年8月にオープンした東京城西支部も、昭和54年末までに、227人の入会があり(法政大学同好会を除く一般会員)、茶帯も10人を超え、大西という黒帯指導員も誕生しました。 しかし、稽古は相変わらず、小田急線参宮橋の「オリンピック記念青少年総合センター」で土・日・月曜日の夜、行っていました。
2.また、平日の稽古スペースの確保のため、昭和53年秋より、小田急線南新宿駅近くの代々木小学校の体育館を、週に1度借りていました。 学校行事が優先されるため、曜日は一定ではありません。
冬のある日、7時からの稽古に間に合うように、代々木小学校に行くと、門の前に、生徒が立っています。 学校行事が急に入ったので、今日は体育館を貸せない、とのことでした。
仕方がないので、数十人の生徒とともに、西新宿まで20分ほどかけて歩き、当時の淀橋貯水場の広場(現在は高層ビル群の敷地になっている)で、野天稽古をしました。 石川君(当時、日体大陸上部)などが参加していました。 今となっては、いい思い出です(笑)。
3.そうは言っても、いつまでもジプシー道場を、続けるわけにはいきません。 生徒の全日本大会出場も、そう遠いことではなくなったので、常時稽古できる、常設道場の確保が必要になっていました。 また、生徒からの会費収入も、ある程度の額になってきたので、月ぎめ家賃の負担にも耐えられるめども立ってきました。
4.当時の東京では、月ぎめで賃借する空手の道場がほとんどありません。 イメージが良くないのか、 ビルの持ち主に、空手の道場というと、嫌がられました。
当時の会員で、友人でもあった伊藤さんに手伝ってもらって、城西地区の物件を見て回りました。 なかなかなかったのですが、代田橋の大原交差点近くに、省東自動車というタクシー会社が持つ「大原ビル」が賃貸募集しているのを見つけました。 4階が40坪で、月の家賃が30万円でした。
家賃は10万円台を考えていたので、予算オーバーです。 ところが、地下に、鶏卵の保管場所に貸していたという、倉庫スペースを偶然見つけました。 17坪で、家賃が共益費込みで、15万円程度だったと思います。 結局、そこを借りることにしました。
5.後から分かったのですが、地下で換気が悪く、おまけに地下の浄化槽から、蚊が大量発生します。 狭い・臭い・蚊が多いと、稽古スペースとしては、最悪に近い環境でした。 でも、後にその道場から、大西・黒澤・増田と、3人の全日本チャンピオンが誕生します。
時間借りではない、常設の道場で、いつでもサンドバックを蹴られるようになったことが、とても嬉しかったことを思い出します。 手作りの道場で、壁のペンキは、過去にバイト経験があった大西が塗りました。
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2008.04.23 Wed
余裕
1.4月10日にも紹介した、東洋思想家・安岡正篤(やすおかまさひろ)先生の『安岡正篤一日一言』(致知出版社)の、今日の項のテーマは『余裕』です。 紹介します。
『 「千万人と雖(いえど)も、吾(われ)往(ゆ)かん」と言った孟子(もうし)が、同時に、別面において、「豈(あ)に綽々(しゃくしゃく)余裕有らざらんや」と言って、余裕というものを論じておりますが、こういう乱世になればなるほど、われわれは、余裕というものを持たなければならない。
余裕があって初めて、本当に物を考えることも出来る、本当に行動を起こすことも出来るわけです。
殊(こと)に、善人は神経が細いから、尚更(なおさら)、本当の意味の余裕が必要であります。 』
2.「」内の意味は次の通りです。
「千万人と雖も、吾往かん」・・・自分の考え、行ないが正しいと思ったら、たとえ相手が千万人であろうとも、自分を主張する勇気を持とう、の意。
「豈に綽々余裕有らざらんや」・・・ゆったりと余裕を持っていこう、の意。
3.伸び縮みするゴムも、いつも引っ張ったままでは、いずれ弾力が失われてきます。
自動車のハンドルにも、必ず「遊び」があります。
空手の試合でも同様ですね。
絶対に負けられない、重要な試合であっても、肩の力を抜いて、ある意味楽しみながら戦った方が、良い結果が出るようです。
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2008.04.22 Tue
(12)昭和54年 首都圏交流試合
1.城西支部は昭和53年にスタートしたのですが、その2年前に城東支部が、城西とほぼ同時期に城南支部が、それぞれオープンしています。 それから2~3年のうちに、埼玉支部、栃木支部、城北支部なども開設されました。
2.昭和54年秋の第2回世界大会の後、12月に、城東支部亀戸道場において、第1回首都圏交流試合が開かれました。
当時の全日本大会は、総本部全盛時代でした。
城東、城西、城南ともに茶帯の生徒が増えつつありましたが、全日本に出すにはまだまだ経験が足りません。 そこで、将来の全日本出場を見据えて、若手選手が経験を積む場を設けることにしたのです。
3.支部開設以来1年3か月間、私なりに工夫して教えてきたつもりでしたが、客観的な実力は未知数でした。
結果的には、優勝・大西、準優勝・湯城(ゆうき)、第3位・石川と、ベスト3を城西の選手が独占します。 自分が育てた選手が試合に勝つ、という喜びを初めて体験しました。
この後、首都圏交流試合は全日本選手権への登竜門(とうりゅうもん)となっていきます。
首都圏交流試合の後、指導員確保の必要性もあり、大西を初段にし、城西最初の内弟子指導員としました。
4.後日談があります。
結婚当初、私は南浦和に住んでいました。 昭和54年の年末に、大西を連れて、近くの西川口に住む盧山師範のご自宅に遊びに行きました。
盧山師範から、交流試合優勝のお祝いに、ご自分が優勝された、第5回全日本大会の優勝トロフィーの1つを、大西に下さるということでした。
ところが、頂いたトロフィーのプレートには、第5回ではなく、間違って、第15回全日本大会と書いてありました。
そして、4年後の第15回大会で、大西は優勝することになります。
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2008.04.17 Thu
大横綱・双葉山
1.『横綱の品格』(双葉山著 ベースボールマガジン社刊)を読みました。
双葉山の「69連勝」は、70年間破られない、不滅の大記録となっています。 年2場所制の、1936年1月場所から、1939年1月場所にかけて達成され、この間、5場所連続全勝優勝を飾っています(当時、1場所11日・13日制でした)。
2.本の中の「受けて立つ」という項を紹介します。 番号は、私が振りました。
『①もともと、「受けて立つ」という取り口には、2通りあるように思われます。
②文字通りに「受けて立っ」て、相手を倒すというのは、その1つですが、これは自分と相手との間に、よほどの力の隔(へだ)たりがなければ、不可能なことなのです。 私などの場合では、相手との間に、それほどの力の開きがあったわけではないのですから、それはいわば「できない相談」なのです。
③私の場合、「向こうの声で立つ」・・・「向こうが立てば立つ」、しかし立った瞬間には、あくまでも機先を制している・・・換言(かんげん)すれば、いわゆる「後手の先(さき)」で、立った瞬間には、自分として十分な体勢になっている、そういう立ち合いだったといえましょう。
④以上2つの「受けて立つ」は、外形上、結果的には同じようにみえても、内実的には、確たる差異がひそんでいるのです。 私の「受けて立つ」は、相手との力の違いがさほどなくても、心がけしだいで、できることだと思います。』
3.同様に、「目に頼らぬ」という項を、抜粋して紹介します。
『①相撲の技は、今さら申すまでもないのですが、頭で考えるだけでは駄目なのはもちろんのこと、頭で考えて、それから技が出るというのでも、駄目なのです。 (中略) こうと思った瞬間には、もう技が出ているのでなければなりません。 (中略)
②「心身一如(しんしんいちにょ)」とでもいいましょうか、自分の意識と体とが、一枚になりきるのでなければ、勝ちを制するのはむずかしいのです。
③相手の「隙(すき)」をつかむことは、勝負の上に肝要(かんよう・・・非常に大切なこと)このうえもないことですが、さてその「隙」は、眼で知るのではなく、こちらの体で感得(かんとく)すべきです。 自分の修練が積んでくると、相手の身体的ないし心理的な動きは、ただちに自分の身に感応されるものです。』
4.ちなみに、双葉山は6歳ごろより、右目がほとんど見えなかったそうです。
明日の金曜日から、来週の月曜日まで、ブログをお休みさせていただきます。 次は、22日の火曜日に、お目にかかります。
よい週末を。
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2008.04.16 Wed
野村克也監督
4月7日の朝日新聞夕刊に、楽天イーグルスの野村克也監督が、取り上げられていました。
大見出しは『ぼやきが育む「人間力」』、小見出しは『好調楽天に「情の野球」』となっていました。 抜粋して紹介します。 番号は私が振りました。
『1.心が変われば、態度が変わる
態度が変われば、行動が変わる
行動が変われば、習慣が変わる
習慣が変われば、人格が変わる
人格が変われば、運命が変わる
運命が変われば、人生が変わる
楽天の野村克也監督が、よく口にするヒンドゥー教の教えだという。 (中略)
2.楽天が、開幕前の予想を覆(くつがえ)し、5割に踏みとどまっている(4月15日現在、10勝11敗、勝率4割7分6厘)。
「再生工場」と「新製品工場」がフル稼働している。
山崎武司は、いかにしてよみがえったのか。
「最初は、自分とは合わない人だと思っていた」と山崎は振り返る。 「僕は義理、人情を大切にするタイプ。理論派の野村監督とは、水と油じゃないかって」。
それが違ったという。 「オリックスをクビになって、悔しかったろう。見返してやれ」。 そう最初に、声をかけられた。
さらに「野球は生きるための手段。人生を生きることが、大きな目標」とも言われたという。 これで、山崎の意識が変わった。 「野村さんは、野球がすべての人だと思っていた。それが、人間教育を1番に考えている人だとわかった」 (中略)
3.野村監督の野球は「データ野球」だと言われるが、僕(西村欣也編集委員)は、本当は「情の野球」なのではないか、と思っている。
試合後のぼやきも、それがマスメディアを通して、選手にどう伝わるか、を計算している。』
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2008.04.15 Tue
(11)昭和54年 受けの空手と待ちの空手
1.昨日のブログで、城西の空手は「受けの空手」だと書きました。 誤解があるといけないので、2日続けて、技について書いてみます。
2.昨日、「受け(防御)」の重要性について書きました。 しかし、私は「選手が大成するには、攻撃型でなくてはならない」と思っています。
基本的には、先手先手と、自分から仕掛けていくのが理想です。 ただ、攻防の中で、相手も攻撃してくるので、それはすべてカットして、自分の攻撃を返していきます。
3.実際には、お互いに攻撃しあっている中で、①自分で仕掛けた攻撃で、相手を崩して技を決める、②相手が仕掛けてきた攻撃を受けることによって、相手を崩して技を決める、の両方の動作をするわけです。
自分から仕掛ければ、当然、相手も応戦してきますから、「受け返し」するチャンスも広がります。
お互いに攻撃しあっているにも関わらず、自分だけが的確な決め技を出しているという、一方的な展開に持ち込めるわけです。 もちろん、実際はそう簡単ではありませんが、理想はそうです。
昭和58年の第15回大会で、大西・小笠原が決勝を争い、直後の首都圏交流試合で、ベスト8の内7人が城西の選手だった時期があります。 そのころの状況は、城西勢が受け返しを研究し、それを知らない相手選手が、その戦法にうまくはまったんだと思います。
4.「受けの空手」と「待ちの空手」は違います。 受けの空手は、自分から仕掛けていくため、チャンスを自ら作り出すことができます。 待ちの空手は、自分から仕掛けず、相手の攻撃を待っているため、相手が仕掛けて来なければ、チャンスを作り出すことができません。
第12回大会、第14回大会での私の敗因は、「待ちの空手」になっていたことにありました。 試し割りで負けていることが分かっているにも関わらず、自分から仕掛けて行かずに、相手の攻撃を待っていました。 結果は、再延長や再々延長にもつれ込み、試し割り判定負けです。
5.自分から仕掛ける、攻撃型の選手でなければ、全日本や全世界大会のチャンピオンにはなれません。
そういった意味で、道場では、「受け返し」の研究と同様、「コンビネーション」の研究にも、時間をかけたつもりです。
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2008.04.14 Mon
(10)昭和54年 受け返し
1.試合に勝つためには、精神的な強さは、もちろん必要です。 極真空手の修行を通して、勇気・負けん気・目的意識・我慢・根性・忍耐力といった、精神的な強さを、養う必要があります。 よく言われる「極真魂(きょくしんだましい)」を身に付けるのです。
2.ただ、試合は精神力だけで、勝てるわけではありません。 私は、どちらかというと、身体的な要素を、重視してきました。
身体的な要素とは、技・パワー(筋力)・スタミナ(持久力)です。 試合において、相手選手より技・パワー・スタミナの、すべてがまさっていれば、精神的な要素に頼らずに、勝つことができると思います。
3.私は、極真空手における「技」を「相手を倒すための、正しい体の動かし方」と考えています。
試合ルールにのっとって、突き・蹴りを当てて(決めて)、相手を倒すのです。 しかし、相手も当てられまい、倒されまいとして、当然、防御します。
そこで、相手が防御できないように、相手の構え・体勢・バランスを、崩す必要があります。 つまり、「崩し→決め」という一連の動作が、「技」の根幹(こんかん・・・重要な部分)です。
4.崩しには、①自分から攻撃して崩す「コンビネーション」と、②相手の攻撃を利用して崩す「受け返し」の2つがあります。 相手の攻撃と同時に技を出す「合わせ技(カウンター)」は、「受け返し」の進化したもの、と考えています。
5.極真空手だけでなく、他の格闘技や、球技でも「攻撃」と「防御」があります。 私は、最も大事なのは、防御だと考えます。
野球で言えばピッチャーや守備、サッカーで言えばゴールキーパーやディフェンスが大事です。 そこが弱いと、点を取られるため、結果として、負ける可能性が高まります。
打撃系の格闘技においても「受け」が大事です。 いくら、強い突きや蹴りを持っていても、受けが弱いと、倒される可能性があるからです。
特に、極真空手の試合は、ほとんどトーナメントで行われるので、受けが弱いと、ダメージを残したまま、次の試合を戦わなくてはいけないことにもなります。
6.しかし、一方で、自分が攻撃しないことには、相手に勝つことができません。 そこで、自分は完璧に受ける同時に、相手が攻撃してくるときの構え・体勢・バランスの崩れを利用した、あるいは、相手の攻撃を受けながら崩す、「受け返し」が重要なのです。
7.城西の空手は「受けの空手」です。 「相手の攻撃は、すべてカット(防御)して、自分の攻撃は、的確に、相手の弱い部分に当てる」、これが理想です。 道場を持ってから、その研究に、多くの時間とエネルギーを費やしました。
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2008.04.11 Fri
(9)昭和54年 道場指導
1.私は、昭和49年秋に、初段になりました。 指導員ではなかったので、総本部時代は、もっぱら自分の稽古ばかりしていました。
当時の総本部道場の稽古は、準備運動10分・基本稽古50分・移動稽古および型稽古50分・補強10分・組手20分・整理運動および道場訓唱和10分、といった内容です。
2.総本部の黒帯は、全日本大会では皆ライバルなので、後輩に、組手技術を細かく指導するということはありません。 組手の研究は、各自が自主トレ的に行っていました。
また、ビデオも普及し始めたばかりで、ビデオを見て研究する、といったことは、やっていませんでした。 組手の技術は、道場や大会で、先輩の組手をよく見て、まねをする、といったことが中心でした。
3.自分の道場で、指導するようになって、私は、次のようなことを心がけました。
①自分なりに理解している組手技術を 「 よく見て、学べ 」 ではなく 「 ていねいに、全てを説明しながら教える 」 。
②生徒とともに、組手技術を研究していく。
③次のような理由から、身体に当てないスパーリングを取り入れる。
・お互いに力を抜いたスパーリングをすることによって、さまざまな技の工夫やチェックが容易になる。
・激しい組手をすることに比べ、ケガが少なく、結果として生徒が長続きする。
④最低限の礼儀は必要だが、先生と生徒が気軽に話せるような雰囲気を作る
4.つまり、組手技術を研究する、大学の研究室のようにしたかったのです。 私が指導教授で、生徒が研究員で、一緒になって研究し、試合で研究成果を発表する、といったようにです。
ビデオカメラを購入し、ビデオを使った研究も取り入れました。 今では当たり前のことですが、ビデオの導入は、極真空手の組手技術の向上に、画期的な役割を果たすことになります。
よい週末を。
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2008.04.10 Thu
日用心法
東洋思想家・安岡正篤(やすおかまさひろ)先生の 『 安岡正篤一日一言 』 ( 致知出版社刊 ) の4月8日・9日の項に 「 日用心法(にちようしんほう) 」 つまり 「 日常、用いるべき心がけ 」 が、15項目出ていました。 紹介します。
第1 毎日の飲食を、適正にやっているか。
第2 毎晩、よく眠れるか。
第3 自分の心身に、影響を与えているような、悪習慣はないか。
第4 適当な運動をしているか。
第5 日常生活の出来事に、一喜一憂(いっきいちゆう)しやすくないか。
第6 精神的動揺があっても、仕事は平常通り続け得るか。
第7 毎日の仕事に、自分を打ち込んでいるか。
第8 自分は仕事にどれだけ有能か、自分は仕事に適するか。
第9 現在の仕事は、自分の生涯の仕事とするに足りるか。
第10 仮に、自分の仕事がどうしても自分に合わぬ、自分の生活が退屈であるとすれば、自分の満足は何によって得るか。
第11 自分が絶えず追求する、明確な問題を持っているか。
第12 自分は人に対して親切か、誠実か。
第13 自分の人格の向上に資する ( 役に立つ ) ような、教養に努めているか。
第14 特に何か、知識技術を修めているか。
第15 自分は、何か信仰・信念・哲学を持っているか。
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2008.04.09 Wed
不遇とチャンス
イラストレーターの上大岡トメさんが、3月29日の日経新聞に 『 不遇の時こそチャンス 』 という文章を、書いていました。 紹介します。 番号は、私が振りました。
『 1.先日、仕事の企画が、不採用になってしまいました。
ひそかに気合を入れ、出来上がりも、気に入っていました。 この企画から、いろいろ広げよう、と期待していただけに、ガックリです。
2.私は、物事が実現する前に、いろいろと想像するタイプ。
そういえば、大学受験の時も、本命の国立大を受ける前に、キャンパスライフを、いろいろ考えていました。 スケートボードを買って、広いキャンパス内を、かっこよく滑って、移動しようとか。 でも結果、不合格。 ( 中略 )
3.でも、実際に行った大学の生活は、すごく面白かったし、人生を左右するような出会い ( 配偶者 ) もありました。
こうして思い返してみると、自分の思い通りにいかないときこそ、チャンスがあるのだと思います。
4.3年前に 「 キッパリ! 」 という本が出るまでは、とにかく考えた企画は、軒並み不採用。
日の目を見るのに、何年という月日がたったやら。 絶望的な気持ちに、何度もなりました。
でも、その間に知り合った人々に、今も支えてもらい、一緒に仕事をしています。 ムダなことはないんですよね。
5.だから、今回、仕事がうまくいかなかったことも、神様が、そのあいたスペースに、他の何か違うものを入れるチャンスを、くれたんじゃないかな、と思います。
いろいろ想像したのも、そのままじゃもったいないので、違う形で実現しよう。 新たな人との、出会いもあったし。
6.新しい目標ができたので、いろんな情報を受け取るために、アンテナをたくさん立てるつもりです。 』
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2008.04.08 Tue
(8)昭和54年 ウェイトトレーニング
1.第11回全日本大会で、東孝さんに判定負けして、パワーアップの必要性を、痛感しました。
昭和46年の入会時に、64kgだった体重も、78kgになっていました。 しかし、全日本のトップクラスと戦うには、パワー不足です。
2.道場スペースを借りていた 「 オリンピック記念青少年総合センター 」 のトレーニング施設で、自己流のベンチプレスは、やっていました。 でも、本格的に指導を受けて、ウェイトトレーニングに取り組んだことは、ありませんでした。
3.筋力トレーニングの目的には、最大筋力のアップ ( どれだけ重いものを、持ち上げられるか ) と、筋持久力のアップ ( 一定の重さのものを、いかに数多く、持ち上げられるか ) があります。
柔道や相撲などでは、相手の道着や回しを長時間握ったまま、戦う必要があるので、両方必要です。
しかし、極真空手の試合では、最大筋力のアップに、主眼を置くべきだと思います。
4.西国分寺に 「 アスレチック・セキ 」 という、パワーリフティングのジムがありました。
現在、府中道場をお借りしている 「 パワーハウス 」 の吉田会長をはじめ、パワーリフティングのチャンピオンが、多数在籍されていました。 そこに、お世話になることにしました。
5.その当時、選手が出場できる大会は、全日本大会・全世界大会しかありません。
5月の第11回全日本大会で、入賞できなかったので、11月の第2回世界大会には、出場できません。 次に、私が出場できるのは、翌昭和55年秋の、第12回全日本大会です。
6.結果として、約1年半かけて、本格的に、ウェイトトレーニングに取り組めたのは、良かったと思います。 1年半で、記録と体重が次のように、伸びていきました。
①ベンチプレス 100→137.5kg
②スクワット 130→200kg
③体重 78→83kg
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2008.04.07 Mon
国際親善大会に想う
1.昨日・一昨日は、国際親善大会でした。 城西支部からは、16歳17歳男子+75kgの部に小林大起、女子軽量級の部に宮崎未絵、の2選手が出場しました。
2.大起は決勝戦で、ロシアの選手と当たり、体重判定で負け、準優勝でした。 本線・延長戦とも、副審の旗は2本、大起に上がりましたが、主審のジャッジは引き分けでした。
体重判定では、公式体重となる、朝の計量記録が、93kgと発表されました。 普段の体重が、85kg前後であることを考えると、何かのミスだと思われますが、規則は規則なので、仕方がないと思います。
試合後、大起とセコンドの山辺を呼んで、次のような話をしました。
①計量係りも人間である以上、ミスがありうるので、計量時に、自分でも計量・記入を確認すべきである。
②体重の件は不運だが、そのことを含めて勝負だから、自分が出した結果として受け止める。 人生や勝負には、運・不運がつきものだ。 そして、3月28日のブログにも書いたように、人間万事塞翁が馬ということがある。 この不運は、次の幸運につながるはずだ。
③結果として、負けたことによって、有頂天(うちょうてん)にならずにすみ、その悔しさが、次からのトレーニングの原動力になる。
④神様が 「 もっと強くなれ。 」 と言ってくれている。 たとえ判定になっても、副審の旗が4本上がるように、完璧に勝たなければいけない。 そのためには、技・パワー・スタミナのすべてにおいて、より一層の強化を図るべきである。
技術的なことを少し付け加えると、もう少し、技のバリエーションが欲しいと思います。 せっかく、体が柔らかいのですから、上段の蹴りをもっと生かすべきです。
歴史的に見ると、上段を蹴らない選手が、世界チャンピオンになった例はありません。
3.宮崎は2回戦で、リーチの長いアメリカの選手に、判定負けし、ベスト16でした。 宮崎とセコンドの山辺、上別府さんに、次のような話をしました。
①判定勝ちした1回戦もそうだったが、リーチの長い選手の、ストレート系の突きを、自分の腕を抱え込んで受けていると、仮に、効いていないとしても、審判に対する印象が悪い。 自分も突きを打つか、相手の突きをいなすか、横に回り込むかして、打たせなくする必要がある。 相撲で、突っ張りに対抗する方法と同様だ。
②世界大会で勝つには、もっと試合数をこなす、つまり、経験を積む必要がある。
付け加えて言うと、大起と同様、次のようなことが言えると思います。
①技・パワー・スタミナのすべてにおいて、より一層の強化を図るべきである。
②もう少し、技のバリエーションが欲しい。
4.二人の更なる可能性が見えるだけに、若干、辛口のコメントになりました。
いずれにしても、お疲れ様でした。 ゆっくり休んでください。
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2008.04.04 Fri
賢い身体 バカな身体
1. 『 賢い身体(からだ) バカな身体 』 ( 桜井章一・甲野善紀著 講談社刊 ) を読みました。
著者紹介によると、武術稽古研究会松聲館(しょうせいかん)・館長の甲野先生は、現在では失われた、精妙(せいみょう)な古伝(こでん)の術理(じゅつり)を探求しつつ、武術の研究を行っているそうです。
同様に、雀鬼会(じゃんきかい)・会長の桜井先生は、麻雀(マージャン)の世界で20年間無敗で、 「 雀鬼 」 の異名をとったそうです。
2.両先生の対談集ですが、その中で 「 練習と結果 」 について、語られている部分を紹介します。
『 桜井・・・学び、練習するほうもまた、厳しさ一辺倒では、ダメだと思います。
厳しい練習を厳しくやるような人は、そんなに伸びないんです。 苦しみながら、うんうん言って練習するより、楽しみながら練習したほうが、ずっと伸びます。
みんな、ストイックにがんばってやったほうが、いい結果が出るような、イメージを持っていますけど、逆ですね。
いい結果が出れば、誰でも、楽しい気分になりますよね。 つまり、練習のときから楽しんでやれば、いい結果も生まれやすい、ということです。
もし、練習が大変だなと思ったら、遊び心が持てるような工夫を、あれこれ自分なりにすればいいんですよ。
甲野・・・ ( 前略 ) 同じ内容のことばかりを、同じような形でやるから、ちっとも面白くない。
物事は、変化があるから面白いのです。
変化は、現状を否定するところからも生まれる。 現状を否定することで、新たな感覚が生まれ、新たな世界が見えてくる。
そうなれば、面白くなるから、指導者からごちゃごちゃ言われなくても、どんどん自分から進んで、練習するようになるでしょう。 』
3.明日・明後日は国際親善大会です。 よい週末を。
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2008.04.03 Thu
(7)昭和54年 第10回大会
1.公認会計士試験は、第1次から第3次まで、3回の試験があります。
第1次試験は、大学の一般教養課程を終えれば、免除になるので、私は第2次試験から受験しました。
第2次試験に合格すると、1年間の実務補修と、2年間の業務補助を経て、3年後に第3次試験を受験します。 ですから、私の場合、早ければ昭和56年秋の第3次試験を受けることになります。
昭和54年前半は、1年間の実務補修期間中でした。 週3回、月・水・金曜日の夜、本郷にあった公認会計士協会に通いました。
30年も前のことなので、現在とは、システムが違うかもしれません。
2.昭和54年5月、その年の11月に開催される、第2回世界大会の選抜を兼ねた、第11回全日本大会が行われました。
以前にも書いたとおり、前年の第10回大会の前は、あまり稽古できませんでした。 今回はその後、半年間稽古できたので、ある程度自信を持って、試合に臨むことができました。
3.試合は1日で行われ、64名の選手が出場しました。
トーナメント表を見ると、2回戦で浜井識安君、それに勝つと、3回戦は、やはり同期の東孝さんと当たります。
浜井君の顔面殴打の反則もあり、2回戦は判定勝ちしましたが、3回戦は、逆に判定負けしました。
ベスト16で、世界大会代表枠のベスト8には入れませんでした。
4.この年の10月10日に結婚しました。 公認会計士の福田富雄先生に仲人をお願いし、主賓として大山総裁ご夫妻にも来ていただきました。
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2008.04.02 Wed
新社会人に向けて
1.新聞やテレビで、入社式のニュースを見かけます。 新社会人は、希望や不安の中で、新しい人生の門出を迎えていると思います。
2.最近読んだ新聞記事から、新社会人にとって役に立ちそうな内容のものを、2つ紹介します。
① ( 3月24日 日経新聞 ) コピーライター・糸井重里さんのインタビューより
『 原点に立ち返るべきです。 昔は、建具屋さんに建具を頼むと、ついでに棚もつくってくれました。 人の役に立つのが、働くということ。 文字のない時代から、仕事にはそうした心がありました。
商いをして得をする、それが仕事だという歴史の方が浅いのです。 ( 中略 )
最近、目的意識に合わせたことしかできない人が多すぎます。 何かの役に立つことなど、せいぜい人生の何分の一あるかないか。
役に立たないことの方が多いのです。 ところが、それがまた役に立ったりする。 』
② ( 3月26日 朝日新聞 ) 資生堂元社長・福原義春さんのインタビューより
『 人は、他者とのコミュニケーションの中で生きています。 その要(かなめ)に、一人ひとりの < 文字力 > があります。 ( 中略 )
では、 < 文字力 > はどう養うか。 それは、本や新聞などの < 活字 > に触れること、が一番の近道だと思います。
本は、人類の叡智(えいち)の集積です。 ソクラテスが何十年もかけて、ようやく到達した思想が、本を読むだけでわかるのだから、読まないなんてもったいない。 ( 中略 )
もちろん、本を読まなくたって生活できるし、人生の長さに変わりはありません。 でも僕は、人生においては、クオリティーや豊かさにこだわりたい。 そのためには、文字や活字に触れることが、必要だと思うのです。 』
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2008.04.01 Tue
(6)昭和54年 大西靖人入会
1.昭和53年8月26日に、オープンした東京城西支部は、この年、60人の入会者がありました。 翌昭和54年も167人の入会、と順調にスタートしていきます。
2.私は、昭和46年8月に、極真会館総本部道場に入会しました。 ちなみに、後から本部の入会申込書を見て知ったのですが、私の次が、1日遅れで入会した竹和也師範 ( 極真会館九州本部長 ) です。
3.当時、高校3年生で、大学受験のため、あまり稽古に参加できず、本格的に道場に通い始めたのは、大学が決まった、昭和47年3月からです。
この年の5月に、東孝さんや浜井識安君が入会してきます。 浜井君とは年も一緒で、大変仲良くなりました。
4.浜井君を通じて、後に入会する、弟の浜井良明君 ( 極真会館中部本部長 ) とも親交がありました。 当時、法政大学の4年生だった良明君は、総本部道場に通っていました。 私が支部道場をスタートさせたことを聞いて、師範代を務めてくれるようになります。
5.ある日、良明君から 「 法政大学に 『 実戦空手同好会 』 があるが、一緒に稽古させてもらえませんか。 」 との話がありました。 私は 「 ぜひ参加するように。 」 と伝えました。
そこで、良明君に連れられてやってきたのが、3年生の大西靖人です。 昭和54年の夏前のことだったと思います。
6. 『 実戦空手同好会 』 のメンバーは、法制大学の応援団、空手部、拳法部などをやめた人間で作った右翼団体・義和会が母体となっていました。 まるで、当時はやっていた劇画の 『 花の応援団 』 そのものでした。
見かけはいかついものの、一緒に稽古したり、話してみると、素直な人間ばかりです。 今でも付き合いのある、野村、伊藤、湯城、成瀬、坂本などがいました。
7.結局、4年生の近藤を主将として、 『 実戦空手同好会 』 はそのまま 『 極真会館法政大学同好会 』 に形を変えることになります。
同好会としての入会なので、3月19日のブログに書いた、一般会員の入会記録の中に、大西靖人の名前はありません。
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