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明察力

渡部昇一先生のご子息・渡部玄一さんが書かれた『明朗であれ 父、渡部昇一が遺した教え』(海竜社)を読みました。

「第六章 家族」の中に、前回紹介した『レトリックの時代』(渡部昇一著 講談社学術文庫)の「まえがき」からの引用があります。  抜粋し、番号を付けて紹介します。

『①自分の「意見」を述べるに当たっては、必ずその主張の要旨を、郷里の方言になおして口の中で言ってみる。  そして亡き母が生きていたとしたら、それに納得してくれるかどうかを深夜自分に問うてみるのだ。  母は形式的な学校教育という点ではゼロに等しかったが、きわめて明らかな知をもった人で、物の核心をまっすぐにみることができた。

②戦争前、高度国防国家の話を聞いたあとでは、「これ以上軍人の威張る世の中にするのだろうか」とつぶやき、戦後高名な経済学者の言うことを聞いては「この人は本当にロシアに住みたいと思っているのだろうか」とつぶやき、極端な社会主義の解説を聞いては、「もう一度配給制度にするつもりだろうか」とつぶやいた。

③これらは自分の無学を自覚している田舎の老婦人の声にならない、憂いのこもったつぶやきであった。  私はその側にいたから、そうした低いつぶやきを聞くことができた。

④私がドイツ留学中に母は亡くなったが、母の生きている間、学校教育は比較にならないほど多く受けている自分のほうが、明察の点ではついに母を超えることができなかった、という記憶をもつ。

⑤そして母のような人を説得できない理屈や意見は述べるまいと心に誓っている。』

「明察」とは「その場の事態・事情などを明確に見抜くこと」です。

私の周りにも「明察力が高い人」がいます。  いわゆる「地頭(じあたま)が良い人」です。

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李登輝さん「武士道」

前回に続き、李登輝さんを取り上げます。  李さんが書かれた『「武士道」解題』(小学館文庫)から抜粋し、番号を付けて紹介します。

『武士道』の解説本です。  『武士道』は1900年に新渡戸稲造が英語で書きました。  新渡戸は1901~2年に台湾総督府において、台湾における糖業発展の基礎を築くことに貢献しています。

『①かって、私は台北郊外の聖なる山・観音山に妻と孫の3人だけで登ったことがあります。  深い霧に包まれて一寸先も見えないような中で峻険な山道を、一歩また一歩と足元を踏みしめながら登っていって、ふと気が付くと、私はいつの間にか頂上に立っていました。

②突如、一陣の風が吹いてきて、一望千里の視野が開けてきました。  足元を見ると、1メートル四方の切り立った岩の上にいる自分に気がついたのです。  観音山の頂上にはたったそれだけの広さしかなく、一歩でも足を滑らせたら最後、奈落の底に転げ落ちてしまうのです。

③そのとき私は、1つの天啓のような不思議な気持ちに包まれました。  「1人なのだ。  たった1人なのだ。  誰も助けてはくれない。  生きるも死ぬも、自分1人で立っていかなければならないのだ」

④それ以来、私も、新渡戸稲造先生が喝破された人間社会の「横の関係」を全く気にしないようになりました。  すなわち、世間の誤解や非難など気にならないようになったのです。  総統時代も、あの観音山の頂上に立ったときの気持ちでやってきました。

⑤(1999年にドイツの放送局のインタビューで)「特殊な国と国との関係」(台湾と中国の「二国論」)という言葉が、突如私の口を衝いて迸り出たときもそうでした。  一国の指導者たるものがそんな言葉を使えば、いったいどんなことが起きるか、私にもそれははっきりとわかっていました。

⑥しかし、私を立たせているのは私だけしかいないのだ。  また、台湾を立たせているのも台湾だけなのだ。  究極的には、誰が助けてくれるわけでもないという思いのほうがはるかに強かったのです。

⑦新渡戸稲造先生の心の中に最後まで去来していたのも、そのような思いであったに違いない、と私は固く信じて疑いません。  なぜなら、それが「武士道」の発露だからです。

⑧だからこそ、改めて、日本の方々にも言いたいのです。  「もっと自信をもって、自らの意志で、決然と立ってもよいのではないですか?  なぜなら、あなたがたこそ、『日本の魂』の真の継承者なのだから」と。  (中略)

⑨「いま、そこにある危機」ではありませんが、目の前にあることを、1つずつ誠実に、自己の良心と信念だけに基づいてやり抜いていく。  結局、それ以外にはないのです。』

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李登輝さん「急がば回れ」

台湾の李登輝さんが7月30日にお亡くなりになりました。  本省人(台湾生まれの人)初の中華民国総統です。  戦中の京都帝国大学に入学され、親日家としても知られていました。

1.吉崎達彦さん(双日総合研究所 チーフエコノミスト)のブログから抜粋し、番号を付けて紹介します。
    
『①7月30日に李登輝さんがお亡くなりになった。  国葬の様子が放送されていたが、蔡英文さんの後に、馬英九さんも献花していた。  この二人は、いずれも李登輝さんに見いだされて政界入りした。  そして二大政党の総統になった。  李登輝さんこそが、台湾における「ザ・ファウンディング・ファーザー」である。 (中略)  

②立派な仕事を残した偉大な人が、晩節を汚さず、最後まで周囲に惜しまれつつ天寿を全うする、ということはめずらしいものだ。  習近平やプーチンは、さぞかしうらやましく感じることだろう。  当人たちはそれがわかっているからこそ、見苦しくジタバタするわけであるが。  (中略)

③2002年と2004年に日米台三極対話で台湾に行った。  そのときに李登輝さんの講演を聴く機会もあったし、事務所を訪問することもできた。  3か国の出席者がいるので、会話はいつも英語であった。

④あるとき、李登輝さんが英語で思い出話をしている最中に、突然、怒り出した。  そして、「あの人たちはケシカランですよ!」となぜかそこだけ日本語になった。  ああ、この人の母国語は日本語なんだ、と思い知らされた瞬間であった。  

⑤ちなみに李登輝さんの「思い出し怒り」は、自分が総統だった時代に国防部のサボタージュに手を焼いたことであった。  そこは昔の国民党(中国共産党との内戦に敗れ、1949年に中国大陸から台湾に移転した)で、「心は大陸にあり」という部下が多かったのであろう。

⑥いろんなことを聴いたけれども、いちばん「らしいなあ」と感じたのは李登輝さんのこのセリフである。

「大きな目標があるときに、私はまっすぐそこへ向かって進むことはない。  かならず遠回りをする」

⑦こういう大人の知恵は、21世紀には流行らないのかもしれない。 まあ、政治の世界から大人が少なくなっているので、仕方がないことなのだろう。  「その他大勢」の一人であったが、偉大な人の謦咳に接することができたことは、われながらまことにラッキーなことであった。  合掌。』


2.上の⑥の李登輝さんのセリフは年を取ってくると、よく分かります。  若いときは、どうしても性急に物事を進めようとしがちです。  

『李登輝秘録』(河崎眞澄著 産経新聞出版)から、関連する記述を抜粋し、番号を付けて紹介します。

『(1)①1996年8月14日の重要会議で「中国投資に過度の注意が向いて、間接的に台湾の国際競争力の衰退を招いている」と指摘した。

②李はさらに、翌9月14日に企業経営者に向け、その指摘を「戒急用忍(急がず忍耐強く)」と説いて、ブームに乗った対中進出の急拡大を戒めた。  その後、対中投資審査は厳格化され、1件あたりの投資額は上限が5千万ドルに制限された。

③ただ、李が訴えた「戒急用忍」は、台湾からの対中投資の禁止を意味するものではなかった。  このあとに「行穏致遠(慎重に進め)」と続く。  (中略)

④「台湾の経営者には急がば回れ、中国より台湾で投資しなさいと言いたかった」と李は当時を振り返った。


(2)①2000年の総統選で李は国民党候補に連戦を出馬させる。  結果的に連は落選したが、1992年7月の取材で、本省人の連を後継者に考えている、と打ち明けていた。

②(取材した産経新聞・台北支局長)吉田は「頑固一徹な設計主義者」と李を評した。

③後継者のみならず、90年代の早い段階で総統直接選の導入など、李は何年も先の青写真を描いていた。

④誰よりも忍耐強く、時期を待って実践躬行(理論や信条などを、自身の力で実際に踏み行うこと)するのが李のスタイルだった。』



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