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残酷すぎる成功法則

『残酷すぎる成功法則』(エリック・パーカー著 橘玲監訳 飛鳥新書)を読みました。 第1章「成功するにはエリートコースを目指すべき?」から抜粋し、番号を付けて紹介します。

『1.①(前略)  ハーバード大学ビジネススクールの研究者ゴータム・ムクンダは、それまでの研究成果に一貫性がなかった理由は、リーダーが根本的に異なる二つのタイプに分かれるからだと分析した。

②第一のタイプは、(イギリスの元首相)チェンバレンのように政治家になる正規のコースで昇進を重ね、定石を踏んでものごとに対応し、周囲の期待に応える「ふるいにかけられた」リーダーだ。

③第二のタイプは、正規のコースを経ずに指導者になった「ふるいにかけられていない」リーダーで、たとえば、会社員を経ずに起業した企業家、前大統領の辞任や暗殺により突然大統領職に就いた元副大統領、あるいはリンカーンのように予想外の状況下でリーダーになった者などを指す。  (中略)


2.①ゴータム・ムクンダとリーダーシップの理論について話を交わしたのち、誰もが知りたがっているあからさまな質問を投げかけてみた。  「人生でもっと成功するために、この理論をどう役立てたらいいでしょう?」  

②二つのステップがある、と彼は答えた。  まず第一に、自分自身を知ること。  

③あなたがもし、ルールに従って行動するのが得意な人、首席だったり成績優秀で表彰されたことがある人、「ふるいにかけられた」リーダーなら、その強みに倍賭けするといい。

④自分を成功に導いてくれる道筋があることをしっかり確認しよう。  実直な人びとは学校、あるいは、明らかな答えや既定のコースがある場所で功績をあげられるが、決まった道がないところでは、かなり苦戦することになる。  調査によると、失業したとき、彼らの幸福度は、そこまで実直でない人びとに比べ、120%低下するという。  道筋がないと迷子になってしまうからだ。

⑤どちらかというと規格外で、アーティストなど「ふるいにかけられていない」タイプだったら?  その場合、既存の体制に従おうとしても、成果が限られるかもしれない。  それよりは、自分自身で道を切り開こう。  リスクをともなうが、それがあなたの人生だ。  (中略)


3.①自分のタイプと強みを知ったら、次はどうすればいいか?  第二のステップとして、ムクンダは「自分にあった環境を選べ」と語った。  (中略)  

②調査によれば、あなたが「ふるいにかけられた」医師だろうが、「ふるいにかけられていない」破天荒なアーティストだろうが、どの〝池〟を選ぶかが極めて重要だ。  ハーバード・ビジネススクールのボリス・グロイスバーグ教授は、ウォールストリートの敏腕アナリストたちが競合会社に転職すると、トップアナリストの座から転落することに気がついた。  なぜか?

③一般に、専門家の能力はもっぱら本人の技能によるものだと考えられ、環境の力は見過ごされがちだ。  例えば、専門家本人が周囲の内情を知り尽くしていること、彼らを支えてくれるチームの存在、一緒に働くうちにつくり上げた簡潔な伝達法、などといった要素だ。  

④それを裏づけるように、グロイスバーグは、花形アナリストが(自分一人だけでなく)自らのチームを率いて転職した場合、そのままトップの業績を維持していることを発見した。  

⑤私たちが〝池〟を賢く選択すれば、自分のタイプ(ふるいにかけられた/かけられていない)、強み、環境を十二分に活用でき、計り知れないプラスの力を生み出せる。  これこそが、仕事の成功に直結するものだ。  しかも、こうした自己認識は、あなたがその気になればどんな場所でもプラスの力を生み出すことができる。』

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継続 ひたすら継続

1.7月7日のブログで『老いと記憶』(増本康平著 中公新書)を取り上げました。  その中で、「熟練者とされるだけの技能の獲得には一万時間の訓練が必要となると言われています。  一万時間は途方もない時間のように思えますが、1日3時間で10年程度です。」という文章がありました。


2.今回のテーマも「10年間の継続」です。  6月30日の日経新聞・日曜特集インタビュー記事「My Story」は北方謙三先生でした。  北方先生が仕事場の机の前で日本刀を持っている一面写真の右下に直筆で、サインとともに「継続 ひたすら継続」と書かれています。  

北方先生には、菊澤院長から20年以上前に紹介されたのですが、昨年の40周年パーティーにもサプライズ・ゲストとして登場していただきました。

「一途な青春 はるかなり」というタイトルの「My Story」から抜粋し、番号を付けて紹介します。

『①大学を受験する。  文学部志望だったが、父親は「男なら天下国家を論じるべし。  さもなければ理工系に行け」とにべもない。  「オヤジに言わせると、小説家は人間のクズ。  まず貧乏で食えない。  弱いくせに酔っ払い、ケンカする」。  父は外国航路の船長だった。  (中略)

②1970年、22歳での純文学作家デビュー。  新潮の編集長に「君は大江健三郎以来の学生作家。  天才だ」と言われ、その気になった。  しかし、新作をいくら持っていっても、ことごとくボツ。  次こそはと期待した作品も三島由紀夫の切腹があり、関連原稿を入れるために押し出された。  「5年もたつと気付きますよ。  天才じゃないな、って」

③結局、10年間に書いた100本のうち、掲載されたのはたった3本。  持ち込み仲間の中上健次さんや立松和平さんらを大きく下回る採用率だった。  肉体労働のバイトで生活をつないだ。

④転機は集英社のある若手編集者との出会いでもたらされた。  文芸誌にぽつぽつと載った作品をまとめて本にしないかというのが用件だった。  ただ、話は思わぬ方向に進む。  「あなたはこんな暗い話を書いている場合じゃない」  エンタテインメント作家への転身の勧めだった。

⑤81年発行の「弔鐘はるかなり」で単行本デビューする。  容疑者を射殺し刑事の職をおわれた主人公が、事件の謎を追うハードポイルドだ。  そこからウソのように注文が舞い込み、2、3年で10冊ほどの書下ろしを出版する。  「月刊北方」の始まりだった。  「中上は文学をやるために生まれてきた男。  では自分の進むべき道はどれか。  それは物語で人の心を揺り動かすことだと思った」。  (中略)

⑥物語はいくらでもあふれてきた。  そして10年間、純文学を書き続けてきたことで、「月に千枚書いても文章は乱れなくなった」。  もがいていた時代に、父がかけてくれた言葉がある。  「10年、同じ場所でじっと我慢していられたら、何かが出てくるもんだ」。  そのときは「『作家はクズ』って言ってたくせに、ふざけんじゃねーやと思ったんですけどね」。』

何ごとも10年間継続すれば、それなりに成果を得ると思います。  そう言えば、大山倍達総裁もよく「石上十年」とサインされていました。


3.昨日は、極真会館の友好団体の全日本空手道連盟の理事、糸川まさあき先生の総決起大会に行ってきました。  本日投票の参議院選挙・比例代表(全国区)に自民党から立候補されています。  当選されることを祈っています。

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粋に生きる

1.過去私のブログで、萩本欽一さんの著書や言葉を三回取り上げています。  今回は『人生後半戦、これでいいの』(萩本欽一著 ポプラ新書)の「第五章 最後まで挑戦したい ~粋に生きるための心構え~」から抜粋し、番号を付けて紹介します。

『①ある日、商社に勤めていた兄貴が「会社を辞めてちょっと商売やりたいんだ、金、出してくれないかな」って言ってきたことがある。  飛ばされたんだなってピンときました。  地方に転勤=左遷=退職っていう図式が見えた。  だけど、誰かを見返そうとして商売を始めても、失敗するのは目に見えている。  「失敗することに金は出さない」って断りました。

②それからこうも言いました。  「細かいことはわからないけど、みんなそうやって腹を立ててやめていくんじゃないの?  そのときに腹を立てなかった人が、今社長をやっているんだと思うよ。  だから、飛ばされたと思わない方がいいんじゃない?  将来活躍してもらうために、健康になってもらいたくて空気のいい田舎に転勤させようっていう、社長の粋な計らいなんじゃないの?」

③結局兄貴は、定年まで会社にいて、のちに関連会社の社長までやりました。  その時の社長がどう思っていたか、本当のところはわからない。  だけど大事なのは、「粋な計らいだ」って思ったこと。  何事も悪く受け止めるより、よく受け止めた方がいいというのかな。  何かを言われた時に「でも」と」返すより「なるほど」と言っている方が、僕はいいような気がする。

④嫌なことにどう対処するか。  そこに、その人の粋さは出ますね。  粋な人は、嫌な去り際にしないし、嫌な分かれ方をしない。  相手とまだ付き合いを続けたいなら、目の前の嫌なことを、最後には感動して泣けるいい物語にするきっかけになるような言葉を発したいものだよね。』


2.別のところで萩本さんは次のように書かれています。

『ぼくが若い頃は、周りには粋な大人が多かった。  その人たちを見て、粋な言葉を使えるのが大人なんだ、と教わった。  あの頃は江戸っ子がまだ生きていたんですね。  今は粋な言葉を話す大人がいないし、どこにも〝粋〟が見当たらない。  政治家も、損か得かの言葉しか言わないし。  なんだか残念だね。』

私が1971年に極真会館に入門したとき、総本部の委員長は壮年部の今村栄一三段でした。  不動産業や旅館業を営む実業家で、アメリカ製の大きな自動車に乗っていらっしゃったのが印象に残っています。

とても粋な方で、私も大変可愛がっていただきましたが、大山総裁が亡くなられてから何年もたたないうちに亡くなられました。  

今の私ぐらいの年齢だったように思います。  今村委員長に比べると、私はまだまだ〝野暮〟だな~(笑)

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