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極真会館の道徳教育

1.梅原猛著作集13『現代を生きる』(小学館)を読みました。 「自序」から抜粋し、番号を付けて紹介します。

『①もう一つ、私はこの巻で教育と道徳の問題についてふれている。  (中略)  しかしオウム真理教などの事件が起こり、いままで考えられなかったような青少年の犯罪が増加する中で、私も道徳の問題に強い関心をもたざるをえなくなった。  (中略)

②  ドストエフスキーは、ヨーロッパの道徳はすべてキリスト教に由来しているので、キリスト教が信じられなかったら道徳も確固たる基盤を失うと考える。  しかし日本においてはいったいどうなっているのか。  (中略)

③私は江戸時代においては、道徳はやはり宗教によって与えられていたと思う。  儒教というものを宗教と考えれば、武士階級の宗教はやはり儒教であった。  そしてそのような儒教的な道徳によって武士は厳しくおのれを持した。

④しかし庶民階級の道徳は儒教道徳ではない。  それはやはり寺子屋で教えられる仏教の道徳であった。  ほとんどの日本の仏教がそうである大乗仏教では、やはり自利利他ということを最高の教義としてもつ。  この自利利他の精神を寺子屋で僧は子供たちに教えたのであろう。  (中略)

⑤ところが明治以後、学校教育の制度ができて、教育が僧侶の手を離れ、学校教師の手に任せられた。  そして学校で道徳教育は修身として教えられたが、その修身教育なるものはほとんど仏教思想ではなく、国家主義と儒教との混同した、はなはだ無味乾燥なものであったといってよい。  このような精神にもとづいて「教育勅語」がつくられた。  (中略)

⑥そうして近代的天皇教というものがつくられたが、そこでの道徳は儒教でも仏教でもなく、はなはだ根の浅い国家主義思想であった。  (中略)  しかしそういう修身道徳は日本の国家主義の思想であるといって、戦後、マッカーサー司令部によって禁止された。  それゆえ今日、道徳は学校教育においてまったく教えられていない。

⑦家庭において道徳が教えられるかというと、家庭においては、よい学校にいき、よい会社に就職しようとするような知恵は与えられるが、道徳についてはほとんど教えられない。  (中略)

⑧よい教育を受け、よい大学に入り、よい会社に就職した人間も道徳心がほとんどなく、さまざまな犯罪を犯す。 彼らには、真に日本を愛し、真に人類のことを憂える心がまったく欠如している。  (中略)

⑨森前首相の「今の日本にも教育勅語が必要である」という発言は、日本には何らかの道徳的基準がない、そういう基準を日本がもたねばならぬという意味なら私は賛成であるが、その道徳が天皇の言葉によって与えられ、それがまったく従来の日本の仏教などの精神を受け継いでいないことに対しては反対である。

⑩今もう一度、日本は伝統に目覚め、仏教を中心に儒教やキリスト教の道徳までを総合して一つの道徳を創出すべきではないだろうか。』

大山倍達総裁が掲げた極真会館の理念は「頭は低く、目は高く、口を謹んで心広く、孝を原点として他を益す」です。  「孝を原点として」は儒教的ですし、「他を益す」は仏教的ですね。  梅原先生が⑩で言われている、「道徳の創出」そのものだと思います。


2.昇級審査会などで、少年部によく次のような話をします。

「空手を続けさせてもらっているのも、審査会を受けさせてもらっているのも、すべて皆さんのお父さんやお母さんのおかげです。  ぜひ、ご両親に関する感謝の気持ちを忘れないで下さい。」  

「道徳」もはじめは、身近な人に対する「感謝」の気持ちからです。

道徳教育という面でも、極真会館の果たすべき役割は、とても大きいと思います。


3.最近の指導員ブログでも以下の記述を見つけました。

①8月9日 中川先生(落合道場)

「本日の落合道場では先日の審査会で昇級した子供達に新しい帯を渡しました。
空手を続けさせてくれる両親にきちんと感謝の言葉を伝えてこれからも次の帯に向けて頑張っていこう!!」

②8月11日 林先生(府中道場)

「本日、審査会の帯がやっと届きました。
首を長くして待っていた皆さんに新しい帯と賞状を渡しました。凄く嬉しい顔をしていました( ^ω^ )
おめでとうございます!感謝の気持ちを忘れずに!」

③9月15日 亘先生(吉祥寺道場)

「ここ最近になって、多くのお友達が新しく入会してくれています!
その為、稽古には白帯の子供達の参加が多く活気溢れる稽古となっています。
道着が届き、嬉しそうに着ていました!(^_^)
お迎えにきたお父さんお母さんに、きちんと道着のお礼が言えていたので感心しました!」

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非認知能力

1.『小さな会社 ランチェスター式 「儲ける戦略」』(栢野克己著 コスミック出版)を読みました。  その中に伊藤清隆さんの講演録が載っています。  伊藤さんが経営する会社は、子供向けスポーツ教室では日本一だそうです。  『勉強ではなく「非認知能力」』の項から抜粋し、番号を付けて紹介します。

『①「認知能力」はIQとかいわゆる偏差値、まあお勉強のほうですね。  「非認知能力」というのは勤勉性とか、意欲とか、やり抜く力とか、思いやり、忍耐力。  人間的な力ですね。  最近、「非認知能力が高い人ほど年収が高い」というデータがようやく出てきたんです。

②今までは、イイ大学に入って偏差値が高い大学に入って、イイ会社に入って、そっちのが良いとみんな思ってましたが、違うことが立証されたんです。  (中略)

③そのかわり、例えば「生き抜く力」がある、成功している社長さんとかは。  生き抜く力って「非認知能力」、どうやって身に付けるかと言えば、実は幼少期。  小学校6年生くらいまでにつけておかないと、えらい目になりますよという話。  (中略)

④今ですね、ご存知のように、特に日本の男の子がみんなゲームですよ。  ゲームばっかりじゃ終わりですよ。  耐性がなくて。  お勉強とゲームばっかりやって中学入りました、いい高校入りました、ところが途中でポキント折れて不登校になりましたとか引きこもりとか。  (中略)

⑤そういう人はみんな、非認知能力が低いんですよ。  そんなものは屁でもないと思わないと。  会社で求められるのはそうじゃないですよね。  起業する人なんかもこちらのほうが高いですね。  勤勉性、『やりぬく力 グリット』とかいう本が出ていましたけど、決めたらやる根性みたいなもんですね。  (中略)

⑥まぁそういった、大きく言えば、社会に出ていく、社会で成功する力っていうのが非認知能力。  これがある人が、一番身に付けやすいのはスポーツだと私は思っています。  スポーツをやる中で、子どもの頭で考えさせる。  その習慣付けをしていくと。  (中略)

⑦そうやって1年2年3年ぐらい経つと見違えるように。  体型ももちろん変わりますし、モジモジくんが、「ハイ!  なんとか君並んで」って、やってるんですよ。  つまり、非認知能力っていうのがつくんです。  これはもう、実感として、すげえなぁスポーツって。』


2.『認める。  励ます。  勇気づける。』の項からも抜粋し、番号を付けて紹介します。

『①そのかわり、すぐ辞めちゃいますから、辞めないようにやるのが大事。  それは、褒めて認めて励まして勇気づける。  要はあんまり叱ったりしない。  何でもいいから認める。  励ます。  勇気づける。  その連続で、もう3年は通わせないとダメなんです。

②「そんな1年や2年通ったって身につかないです」ってお母さんにはっきり言います。  で、6年生まで通わせる。

③「塾に行ってもいいけど、ウチにも来てください。  社会的な成功がしたいなら。  したいんでしょ?  あなたのお子さんが途中で引きこもりとかになってもいいんですか」と。』


道場に通う少年部も、体力だけではなく、非認知能力が身についているのだと思います。

我々指導者も、そういう意識で少年部に接する必要がありますね。  

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いじめと「空気」

前回は、『「超」入門 失敗の本質 日本軍と現代日本に共通する23の組織的ジレンマ』(鈴木博毅著 ダイヤモンド社)を紹介しましたが、今回は同じ著者による『「超」入門 空気の研究 日本人の思考と行動を支配する27の見えない圧力』(ダイヤモンド社)です。  『空気の正体06 すべてのいじめは「お墨付き」を得て始まる』から抜粋し、番号を付けて紹介します。

『①いじめで「空気」はどんな役割を持つのでしょうか。  ほとんどの加害生徒側は、いじめを始める際に「クラスの空気をさぐる」つまり、「クラスの前提をさぐる」行動をしています。

②いじめの発端は、加害側の生徒が被害者となる生徒を軽く小突く、言葉で一方的におとしめるなどの行為から始まります。  そのとき、誰からも反論がなく、先生にも怒られなかったとき、加害側の生徒は「ここまでは大丈夫」というクラスの〝小さな前提〟を一つ確かめたことになるのです。

③いじめに関する著作を複数持つ、社会学者の内藤朝雄氏の『いじめの構造』には、加害者側の生徒が、クラスの空気を読む様子をほうふつとさせる描写があります。

『加害少年たちは、危険を感じたときはすばやく手を引く。  そのあっけなさは、被害者側も以外に思うほどである。  損失が予期される場合には、より安全な対象をあらたに見つけだし、そちらにくら替えする。』

④最初のいじめで、担任の教師が「そのような行為は絶対に許さない!」という確固たる態度と反応で臨むとき、そのクラスの空気(前提)を知ってなりを潜めます。

『「自分が損するかもしれない」と予期すると迅速に行動をとめて様子を見る。  そして「石橋を叩き」ながら、少しづついじめを再開していく(中略)。  ほとんどすべてのいじめは、安全確認済みで行われている。』

⑤担任の先生が初期のいじめを放置すると、このクラスは「いじめが許容されている」、と生徒全体が感じます。  クラスの前提(空気)で倫理の基準が変わってしまうという意味では、教室の一君である先生から、〝いじめがお墨付きを得てしまった〟とも言えます。  

⑥山本七平氏は『「空気」の研究』で、戦犯の行動、リンチなどの特殊な状況下で「倫理観が狂った」者たちが〝あの状況下では仕方なかった〟と述べる現象を「状況倫理」として説明しています。  そして、日本社会の空気が最終的には、状況倫理に結びついてしまうのだと指摘しました。

⑦この構造は、まさに日本の教育現場の「いじめの現実」に如実に現れています。  『いじめの構造』には、加害生徒が、被害者の子どもの苦しみを微塵も感じていないそぶりと、被害生徒の自殺のあとも、反省や憐憫の情をまるで持たない様子が描かれています。  (中略)

⑧この事件では、生徒のいじめに先生も参加してしまったことが指摘されています。  共同体の前提をつくるのがうまい加害生徒がいることで、「被害者をいじめることでクラスが楽しむ」という狂気の前提を誘導的につくられてしまったのでしょう。  (中略)

⑨まともな良識を備えている大人から見ると、加害生徒たちの倫理観は、狂気と呼びたくなるようなおぞましいものです。  しかし、次の条件が揃うと、日本の共同体・組織では倫理の崩壊が進行してしまうのです。

⑩日本の集団が状況倫理に陥るとき
・共同体の前提(空気)が管理されず、その集団が隔離されて存在しているとき
・一君として空気(前提)を管理する者から、お墨付きを得たと感じられたとき
・異なる共同体を貫き共有されるべき、社会正義が確立されていないとき

⑪学校の教室は、ある意味で外界から隔離された空間であり、空気に影響を受けやすく、悪賢い者がいれば、自分に有利な状況倫理を生み出すことができてしまいます。

⑫もちろん、状況倫理だからいじめは仕方がないというわけではありません。  一人の生徒を無残な死に追いやる行為は、絶対に許すわけにはいかないはずです。

⑬学校の教室では、先生が空気を正しく支配する役割を放棄したら終わりです。  「これをやっても叱られない」 「あれをやっても問題ない」、悪意ある生徒がそのように解釈を始めると、クラスの空気(前提)はとたんに悪化の一途をたどります。

⑭さらに「あの生徒をいじめても問題は起きない」 「先生からも叱られない」とわかると、ある種のお墨付きを得た形になり、特定の被害生徒へのいじめがより気安いものになってしまう。  それにより、いじめに加担する生徒が増える可能性も高まります』

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