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一万時間の訓練

1.『老いと記憶』(増本康平著 中公新書)を読みました。  「はじめに」から抜粋し、番号を付けて紹介します。

『①アメリカの神学者ラインホルド・ニーパー(1892~1971)の次の言葉をご存じでしょうか。

神よ、
変えることのできるものについて、それを変えるだけの勇気をわれらに与えたまえ。
変えることのできないものについては、それを受け入れるだけの冷静さを与えたまえ。
そして、変えることのできるものと、変えることのできないものとを、
識別する知恵を与えたまえ。(大木英夫訳)

②この言葉は、「平静の祈り(Serenity Prayer)」とも呼ばれ、さまざまな場所で引用されています。  生活、仕事、健康状態など、私たち自身や私たちを取り巻く環境には、変えられることと変えられないことがあります。  この言葉にあるように、変えられることと変えられないことの見定めは、私たちが何を目標とし、その目標をどのように達成すればよいのかを考えるうえで極めて重要になります。』


2.同書の「何かをはじめるのに遅すぎるということはない」の項からも抜粋し、番号を付けて紹介します。

『①クランプ教授らは、高齢になっても活躍するピアニストが多いことに着目し、若年と高齢の熟年のピアニストとアマチュアのピアニストに対して、㋑一般的な認知課題と㋺ピアノの鍵盤を用いた音楽課題を実施しました。  その結果、音楽の熟達者、初心者にかかわらず、㋑一般的な情報の処理速度は加齢による低下が認められました。

②しかし、㋺音楽課題ではアマチュアのピアニストでは加齢による低下が認められたのに対して、熟練のピアニストでは加齢による低下が認められませんでした。

③また、高齢のピアニストの技能の程度には、直近10年の計画的な練習量が影響していました。  この結果は、長年の練習によって熟練化した技能は、計画的な練習を行うことで高齢期でも維持されることを示しています。

④車の運転は多くの人が獲得する技能の一つですが、教習所に通い始めたばかりの時は、アクセルとブレーキの位置でさえも意識しなければなりません。  そのため、エンジンをかけてサイドブレーキを下ろし、左右前方を確認し、ゆっくりとアクセルを踏む・・・・・・というように車を発進させるだけでも前頭葉に依存したワーキングメモリが働きます。

⑤しかし、運転に慣れて、これらを意識せずにできるようになると、運転中の脳活動にも変化が生じ、線条体といった、高齢者でも機能の低下が小さい部位が活動するようになります。

⑥熟練者とされるだけの技能の獲得には一万時間の訓練が必要となると言われています。  一万時間は途方もない時間のように思えますが、1日3時間で10年程度です。

⑦平均寿命が80歳を超えていることを考えると、退職した後でも何か新しいことにチャレンジし、その分野のエキスパートになることは可能なのです。』

⑥・⑦から高齢の入門者は大歓迎ですし、③からは私たち指導者も計画的な練習を行って技能が低下しないようにしなければなりませんね。


3.今日7月7日は、故・大西靖人の誕生日です。  毎年、七夕になると思い出します。  1957年生まれですから、生きていれば62歳でした。

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大きな声を出すこと

(1)先週の日曜日は昇級審査会でした。  少年部の審査会は、まず「(返事や気合いで)大きな声を出すこと」から始めます。  
審査会の最後のあいさつで、次のような話をしました。

「①最近、さまざまな事件(刃物による無差別殺傷事件や高齢者ドライバーによる人身事故など)が報道されています。  そのような事件・事故に遭遇した場合を考えると、大きな声を出すことは、とても大切です。  

②人間というのは予期しなかった事件や災害に遭った場合、往々にして何もできずに固まってしまい、動けなくなることがあるからです。  それを防ぐには、周りがびっくりするような大きな声を出すことです。  大声を出すことは、自分や周りの人がその危機的状況から逃れるきっかけになります。

③単に空手の攻撃の威力を増すという意味だけでなく、日常生活の危機管理の観点からも、道場内で大きな声を出すことは大切です。」


(2)2017年1月29日の私のブログで、(1)に関連することを次のように取り上げました。

『「震度7の生存確率」(仲西宏之・加藤和彦著 幻冬舎)を読みました。  本書から抜粋し、番号を付けて紹介します。  

1.「正常性バイアス・麻痺」

①突然、大災害に直面して最善の行動をとるのは大変難しいことです。  多くの人は固まって動けなくなります。  (中略)  なぜ凍りついて動けなくなるのでしょうか。  その理由を災害心理学者のジョン・リーチは人間の脳の働きで説明しています。  

②人間は、通常の習慣的な行動をとる時には「刺激→反応」を意識せずに自動的に行なうようにできていますが、通常とは異なる事態に直面すると、この「刺激→反応」システムの調整がうまく機能しなくなるので、
・何もできなくなる人 70~75%
・我を失い泣き叫ぶ人 15%以下
・落ち着いて行動できる人 10~15%
になるといいます。  心理学者が「正常性バイアス」と呼ぶ状態です。

③震度7の地震に襲われると、人間は激しい揺れで物理的に動けなくなるだけでなく、人間の脳に備わっている機能が働き心理的にも動けなくなる可能性が高くなります。  (中略)  

④ところが物理的・心理的な原因以外にも人が動けなくなる理由があります。  それは、「麻痺」と呼ばれる状態に陥ることです。  アマンダ・リプリーの『生き残る判断 生き残れない行動』(光文社)では「特定の状況下では、炎上している飛行機、沈没しかけている船、また急に戦場と化した場所などでも、多くの人はまったく動きを止めてしまう。」と報告しています。  (中略)

⑤それでは、大災害に直面した時に起こる麻痺から抜け出すためにはどうすればよいのでしょうか。  リプリーは事前の準備とリーダーシップと言っています。  (中略)

⑥十分な訓練を受けた客室乗務員が避難時に乗客に向かって金切り声を上げるのは、リーダーシップを発揮するためと理解されていますが、それだけではありません。  大きな声を出すことで、乗客の知覚麻痺状態をさえぎることができるのです。


2.「常に状況のシミュレーションを行なう癖をつける」

発災の瞬間を生き延びるためには、

①その瞬間、動けなくなる可能性が高いこと
②麻痺を解くために大きな声を出すこと
③大きな声を出しながらゴブリン・ポーズ(災害時にしゃがみ込む基本姿勢)をとること
④「三角形の空間」※を瞬時に見極めること
・車の場合:ボンネット付近(フロント・タイヤの中心から少し後ろ)
・屋内:頑丈な柱の近く
⑤電車に乗車中の場合には、つり革などをしっかりつかみ倒れないこと

これらを瞬間的にできるようにし、自力移動と自由移動を頭に浮かべます。

こうした基本行動をとることを理解できたら、発災の瞬間のシミュレーションを行います。  事前の準備は発災の瞬間の麻痺を生きのびるためにも重要です。

※「三角形の空間」については2011年4月19日の私のブログ(タイトルは『三角形の救命スポット』)で取り上げました。』


(3)空手の稽古を通して、危機管理に関する次のような能力を磨いていく必要があります。

①瞬間的に、自分自身が危機的状況にあることを察知できる。  「道場訓」の「機に発し、感に敏なること」が大切です。

②事件・事故に遭遇した場合に「麻痺」に陥ることなく、そこから素早く逃げることができる。

③「麻痺」に陥らないためにも、危機的状況においても「周りがびっくりするような大きな声」が出せる。


(4)普段の生活で、周りがびっくりするような大声を出したら「変な人」だと思われますが、極真の道場では、大きな声で返事をしたり、気合いを入れたら、指導員の先生にほめてもらえます(笑)


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武道家の楽観性

前回紹介した哲学者・武道家の内田樹先生の別の対談集を読みました。  『善く死ぬための身体論』(集英社新書)という本で、対談相手はヨーガ指導者の成瀬雅春先生です。  内田先生の「まえがき」から抜粋し、番号を付けて紹介します。

『①僕の合気道の師匠である多田宏先生と成瀬先生との対談を聴きに行った時です。  帰途、五反田まで歩く道筋で、多田先生に「成瀬先生って、本当に空中に浮くんでしょうか?」と伺ってみたら、多田先生がにっこり笑って「本人が『浮く』と言っているんだから、そりゃ浮くんだろう」とお答えになったのが僕の腹にずしんと応えました。

②なるほど。  武道家は懐疑的であってはならない。  そんな命題が成立するのかどうかわかりませんけれど、何を見ても、何を聴いても、疑いのまなざしを向けて、「そんなこと、人間にできるはずがないじゃないか」というふうに人間の可能性を低めに査定する人間が武道に向いていないことはたしかです。

③でも、実際にそのような「合理的」な人は武道家の中にもいます。  そういう人は筋肉の力とか、動きの速度とか、関節の柔らかさというような、数値的に表示できる可算的な身体能力を選択的に開発しようとする。  でも、実際に稽古をしている時に僕たちが動員している身体能力のうち、数値的に表示できるものはたぶん1パーセントにも満たないんじゃないかと思います。

④していることのほとんどは、中枢的な統御を離れて、自律的に「そうなっている」。  いつ、どこに立つのか、どの動線を選択するのか、目付はどこに置くのか、手足をどう捌くのか、指をどう曲げるのか・・・・・・などなど。  ただひとつの動作を行うにしても、関わる変数が多すぎて、そのすべてを中枢的に統御することなんか不可能です。  (中略)  淡々と稽古を積んでゆくうちに、そういう「賢い身体」がだんだんでき上ってきます。

⑤武道の稽古においては、「こういう能力を選択的に開発しよう」ということができません。  だって、「どういう能力」が自分の中に潜在しているかなんて僕自身が知らないから。  あることができるようになった後に、「なんと、こんなことができるようになった」と本人もびっくりする。  そういうものです。  (中略)

⑥そのどこに向かうのかわからない稽古の時に手がかりになるのはただひとつ「昔、こういうことができる人がいたらしい」という超人たちについてのエピソードです。  そのような能力の「かけら」でも、もしかすると自分の中には潜在的にあるのかもしれない、修業を積んでいるうちに、思いがけなくそういう能力が部分的にではあれ発現するかもしれない、それだけが修業の手がかりになります。  

⑦そういうわりと楽観的でオープンマインデッドな修業者と「そんなこと、人間にできるはずがない。  そういうのは全部作り話だ」と切って捨てる「科学主義的」な修業者では、稽古を10年20年と重ねてきた後に到達できるレベルが有意に変わります。  

⑧どんな異能であっても、「そういうことができた人がいる」という話は受け入れる。  「そういうことって、あるかもしれない」と思う。  そして、どういう修業をすれば、どういう条件が整うと、「そういうこと」ができるようになるのか、その具体的なプロセスについて研究し、実践してみる。  

⑨だって、それによって失われるものなんて何もないんですから。  自分の中に潜む可能性を信じようと、信じまいと、日々の稽古そのものに割く時間と手間は変わらない。  だったら、「そういうことができる人間がいる」と信じたほうがワクワクするし、稽古が楽しい。  人間の潜在可能性についての楽観性と開放性は武道家にとってかなり大切な資質ではないかと僕は思います。』

人間の潜在可能性を信じて、今朝も立禅でした(笑)

  

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