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経営から野球を学ぶ

アメリカ大リーグ、アナハイム・エンジェルスの大谷翔平選手を取り上げた『道ひらく、海わたる』(佐々木亨著 扶桑社文庫)を読みました。  大谷選手の出身校・花巻東高校の佐々木洋監督に関する記述から抜粋し、番号を付けて紹介します。

『①国士舘大学を卒業後に神奈川県の強豪校でのコーチ経験を経て地元の岩手県に帰った佐々木監督が、私立高の花巻東高校に教員として赴任したのが1999年4月のことだ。  (中略)  晴れて野球部監督に就任したのが2001年のことである。  (中略)

②「監督になりたての頃は選手の個性を潰してしまっていたと思います。  それぞれの可能性に気付かずに」  佐々木監督は悔いるのだ。  

③そして、こう言葉をつなげる。

「同じような投げ方のピッチャーや、同じような打ち方のバッターを育てようとしていました。  要するに『型にはめた野球』をやっていた。  練習もそうです。  たとえば冬のオフシーズン。  みんながみんなシステマティックな練習メニューを流れ作業のようにこなしていた時期がありました。  それぞれの良さや個性を潰してしまっていることに気付かずに。  その失敗と反省から、「個」を生かさなければいけないんだと思いました。」

④それぞれの特徴を知り、その力を生かす指導の大切さ。  そのためにも、指導における「カスタマイズ」が必要だと感じるようになった。  (中略)

⑤きっかけは、監督就任4年目の2004年、秋季大会での1つの負けだった。  就任2年目、3年目と、県大会ベスト4までチームを導き「甲子園もすぐそこだ」と感じていた矢先のことだ。  花巻地区予選で、県立の進学校である花巻北高校に敗れた。  (中略) 地区予選で敗退したときは「クビを覚悟した」のだという。  (中略)

⑥「監督を続けさせてもらえるチャンスをいただきました。  そのときに思いましたね。  指導者として、何かを見直せ、何かが間違っているよと、神様が教えてくれているんだ、と」

⑦それまでの指導を振り返り、変化を求めた佐々木監督は、大学時代に出会い、考え方や生き方を教えてくれた恩師をグラウンドに招いて「変わる」きっかけを見つけようとした。

⑧「そのとき、恩師に言われたんです。  野球のことばかりを考えているからダメなんだ、と」

⑨当時はまだ、マネジメントにおけるドラッガーなどという言葉なども現代のように広まっていない頃だ。  そんな時代に「経営からいろいろ学んだ方がいい」と助言された。

⑩それ以前から、佐々木監督は独自の考えから野球に関わる講演会やメーカーのトレーニング講義に足繁く通っていた。  バッティングの技術本も読み漁っていた。  そのすべてを、恩師からの助言をきっかけに一切やめた。

⑪分厚い経営書を読み、一般の会社を訪ねるようになった。  そこから得た情報や思考は、野球に通ずるものばかりだった。  経営から野球を学ぶ。  その考えは今、指導者としての佐々木監督の根底にある。  (中略)

⑫もちろん、チーム全体で守備や打撃に特化した練習をすることはある。  守備力が落ちていると思えば、徹底的にその課題を1つ1つ潰していき、チームとしての守備の精度を上げることがある。  (中略)

⑬しかし、佐々木監督は選手を育て、チーム力を上げるためのアプローチとして、あくまでもそれぞれの「個」に光を照らし続けるのだ。  1人1人の特徴を生かし、力を底上げすることこそが、本当の意味でのチーム力になると信じている。』

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宿無し弘文

前回はマイク・タイソンの師、カス・ダマトを取り上げましたが、今回はアップル創業者のスティーブ・ジョブズが師事した禅僧のはなしです。  『宿無し弘文 スティーブ・ジョブズの禅僧』(柳田由紀子著 集英社インターナショナル)から抜粋し、番号を付けて紹介します。  内容は、1993年にオーストリアにある山奥の禅堂での乙川弘文(おとがわこうぶん)禅師の法話からです。

『①私は、危篤状態だったポールという人物を病院に訪ねた足で、ここ、オーストリアに来ました。  こちらに着いてから、彼が亡くなった知らせを受けたのですが、ポールがもう苦しまないですむと思うと、安らかな気持ちにさえなっています。

②ポールは、いささか風変わりな子を養子に迎えていましてね。

③20年ほど前でしたか、あれは私が、カリフォルニア州のロスアルトスに住んでいた頃のことですが、真夜中にその子が、私たち夫婦の自宅を訪ねて来たんです。  裸足で長髪、髭ぼうぼう、ジーパンは穴だらけ。  (中略)

④私には真剣さが伝わったので、夜中に2人して街まで出かけました。  1軒だけ開いていたバーに入りカウンターに腰かけると、誰もが我々をじろじろ見てね。  だって、とにかく彼の服装はひどかったんですよ、ふふ。

⑤「悟りを得た」と彼が言ったので、私は、「証拠を見せてくれ」  すると彼は困ったように口ごもって、「まだ見せられない」

⑥そんなことで、その夜はお開きになったのですが、1週間後、彼がまた裸足でやって来て、「これが悟りの証拠だ」と、そうですね、横幅40センチ、縦幅20センチくらいの金属板を出したのです。

⑦私は、そこにチョコが並んでいるのかと思ったのですが、パーソナルコンピュータのチップと呼ぶんですか、あれは。  今思えば、あの金属板の板が、アップルコンピュータの始まりだったんですね。  でも、あれが悟りの証拠と言えるのかなぁ?  ふふ。

⑧彼は、しばしば私に「僧侶にしてくれ」と頼むのですが、ダメだと答えています。  なぜって、彼自身も認めているように、とても悪い修行者ですから。  摂心(禅宗で、一定期間ひたすら座禅に専念すること。  接心とも書く)をしないんですよ。  聡明すぎるのでしょうか、1時間以上の座禅ができないんです。

⑨しかし、何よりうれしいのは、彼の娘、リサが、私のことをゴッドファーザーだと思ってくれていることです。  リサは、私が訪ねるといつも駆け寄って来て日本語で話しかけてくれるのですよ。』

本文中に「弘文が公にスティーブの話をするのはとっても珍しい、というか、これ1度じゃないかな。」とあるように、弘文禅師は生前、自分からスティーブ・ジョブスの話はしなかったようです。

「師弟は三世(さんぜ)」という言葉があります。  師弟の間は、前世・現世・来世の三世にわたる深い因縁でつながっているという意味です。

カス・ダマトとマイク・タイソン、乙川弘文禅師とスティーブ・ジョブズ、どちらの出会いも偶然ではなく、必然だったんでしょうね。

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カス・ダマトとマイク・タイソン

元・ライトヘビー級世界チャンピオンのホセ・トーレスが、カス・ダマト(1908~85)門下の弟弟子であるマイク・タイソンについて書いた『ビッグファイト、ビッグマネー』(山際淳司訳 竹書房)を読みました。  「第四章 出会い」から、抜粋し、番号を付けて紹介します。

『①ひと昔も、ふた昔も前のことだ。  ボクシングの指導者、コンスタンチン・ダマトはまだ若くて、短気なマネージャー兼トレーナーだった。 かれはニューヨークの南ブロンクスで育った。

②カス・ダマトは22歳のときにはすでに白髪となり、片目しか見えず、そのうえ色盲という状態だった。  32歳になったころから、その原因についてついにかれは語らなかったが、臭覚、味覚、視覚、聴覚が衰え始めた。

③ダマトはほんの子供のころにボクシングにほれこみ、かれの言葉を借りれば「ストリート・ファイター」となっていた。  12歳の時に、自分の倍の年の大人と喧嘩をし、顔を何かで殴られた。  そのために彼は片方の目の視力を失った。

④22歳の時に、カスはジャック・バロウと共にエンパイア・スポーティング・クラブを創立し、若いボクサーを育てはじめた。  3人の世界チャンピオン、フロイド・パターソン(元・ヘビー級世界チャンピオン)、ロッキー・グラシアーノ(元・ミドル級世界チャンピオン)、そして私、ホセ・トーレスをはじめとするボクサーたちがそこから出た。  フロイドや私がダマトにゼロから育てあげられたのも、まさしくそこだった。

⑤カスは1930年年代の中頃にアメリカ軍に入隊し、ボクシング・コーチとなった。  第二次世界大戦直前に除隊された時は、軍曹だった。  カスはあまり背が高いほうでもなく、強健でもなかった。  たくましい首にのった頭にはわずかに白髪が残っているだけだった。

⑥カス・ダマトは独立独歩の孤高の人だった。  自分の考えを執念ともいえる頑固さで守り通した。  その根本的なボクシング哲学は、高い次元においては、リング上の勝敗を決するのは肉体のメカニズムではなく精神力であるというものだった。

⑦カスは何度もくりかえしていった。  「ボクシングでは人間性と創意が問われる。  勝者となるのは、常に、より多くの意志力と決断力、野望、知力を持ったボクサーなのだ」

⑧そんなころ、1979年、マイク・ジェラルド・タイソンは初めてカス・ダマトと会った。  それはまた、私がタイソンと会った年でもある。

⑨カスは私がプロボクサーであった11年間(1958~69)を通じてマネージャーをし、私を世界ライトヘビー級チャンピオンに育て上げてくれた。  その後もかれは、二人の若いチャンピオン、ウィルフレッド・ベニテス(元・スーパーライト級、ウェルター級、スーパーウェルター級の3階級世界チャンピオン)とエドウィン・ロザリオ(元・ライト級、ジュニアウェルター級の2階級世界チャンピオン)を含めて、数百名の若いボクサーのトレーニングを手伝ってきた。

⑩しかし、子供のころからずっと育てたボクサーはまだいなかった。  1979年2月のある寒い朝、カスは一人の若いボクサーのことで夢中になっている様子だった。  (中略)  やってきたのは力強い顔をした少年だった。  カスはその少年の頭にそっと手を置くと、私にいった。  「この子がマイク・タイソンだ。  ボクシングに対する興味と希望を捨てさえしなければ、いつかヘビー級の世界チャンピオンになる子だよ」

⑪ヘビー級にしては背が低く(5フィート6インチ)、ボクサーにしては筋骨たくましく(186ポンドで、ほとんど脂肪はなく筋肉の塊だった)、荒々しいルックスのわりに内気なようだった。  マイクはその時13歳にもなっていなかったが、すでにかなりの件数の犯罪を犯していた。』

それから7年9か月後の1986年11月22日、タイソンは史上最年少(20歳5か月)で世界ヘビー級チャンピオンとなります。 ところが、カス・ダマトは前年の11月4日に亡くなっているため、 残念ながら見届けることができませんでした。

外出自粛が続いていますが、本を読むには最適の環境です。  

「与えられた環境条件の中でできるだけのことをする」というのは、私の生活信条の一つでもあります。

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