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宿無し弘文

前回はマイク・タイソンの師、カス・ダマトを取り上げましたが、今回はアップル創業者のスティーブ・ジョブズが師事した禅僧のはなしです。  『宿無し弘文 スティーブ・ジョブズの禅僧』(柳田由紀子著 集英社インターナショナル)から抜粋し、番号を付けて紹介します。  内容は、1993年にオーストリアにある山奥の禅堂での乙川弘文(おとがわこうぶん)禅師の法話からです。

『①私は、危篤状態だったポールという人物を病院に訪ねた足で、ここ、オーストリアに来ました。  こちらに着いてから、彼が亡くなった知らせを受けたのですが、ポールがもう苦しまないですむと思うと、安らかな気持ちにさえなっています。

②ポールは、いささか風変わりな子を養子に迎えていましてね。

③20年ほど前でしたか、あれは私が、カリフォルニア州のロスアルトスに住んでいた頃のことですが、真夜中にその子が、私たち夫婦の自宅を訪ねて来たんです。  裸足で長髪、髭ぼうぼう、ジーパンは穴だらけ。  (中略)

④私には真剣さが伝わったので、夜中に2人して街まで出かけました。  1軒だけ開いていたバーに入りカウンターに腰かけると、誰もが我々をじろじろ見てね。  だって、とにかく彼の服装はひどかったんですよ、ふふ。

⑤「悟りを得た」と彼が言ったので、私は、「証拠を見せてくれ」  すると彼は困ったように口ごもって、「まだ見せられない」

⑥そんなことで、その夜はお開きになったのですが、1週間後、彼がまた裸足でやって来て、「これが悟りの証拠だ」と、そうですね、横幅40センチ、縦幅20センチくらいの金属板を出したのです。

⑦私は、そこにチョコが並んでいるのかと思ったのですが、パーソナルコンピュータのチップと呼ぶんですか、あれは。  今思えば、あの金属板の板が、アップルコンピュータの始まりだったんですね。  でも、あれが悟りの証拠と言えるのかなぁ?  ふふ。

⑧彼は、しばしば私に「僧侶にしてくれ」と頼むのですが、ダメだと答えています。  なぜって、彼自身も認めているように、とても悪い修行者ですから。  摂心(禅宗で、一定期間ひたすら座禅に専念すること。  接心とも書く)をしないんですよ。  聡明すぎるのでしょうか、1時間以上の座禅ができないんです。

⑨しかし、何よりうれしいのは、彼の娘、リサが、私のことをゴッドファーザーだと思ってくれていることです。  リサは、私が訪ねるといつも駆け寄って来て日本語で話しかけてくれるのですよ。』

本文中に「弘文が公にスティーブの話をするのはとっても珍しい、というか、これ1度じゃないかな。」とあるように、弘文禅師は生前、自分からスティーブ・ジョブスの話はしなかったようです。

「師弟は三世(さんぜ)」という言葉があります。  師弟の間は、前世・現世・来世の三世にわたる深い因縁でつながっているという意味です。

カス・ダマトとマイク・タイソン、乙川弘文禅師とスティーブ・ジョブズ、どちらの出会いも偶然ではなく、必然だったんでしょうね。

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カス・ダマトとマイク・タイソン

元・ライトヘビー級世界チャンピオンのホセ・トーレスが、カス・ダマト(1908~85)門下の弟弟子であるマイク・タイソンについて書いた『ビッグファイト、ビッグマネー』(山際淳司訳 竹書房)を読みました。  「第四章 出会い」から、抜粋し、番号を付けて紹介します。

『①ひと昔も、ふた昔も前のことだ。  ボクシングの指導者、コンスタンチン・ダマトはまだ若くて、短気なマネージャー兼トレーナーだった。 かれはニューヨークの南ブロンクスで育った。

②カス・ダマトは22歳のときにはすでに白髪となり、片目しか見えず、そのうえ色盲という状態だった。  32歳になったころから、その原因についてついにかれは語らなかったが、臭覚、味覚、視覚、聴覚が衰え始めた。

③ダマトはほんの子供のころにボクシングにほれこみ、かれの言葉を借りれば「ストリート・ファイター」となっていた。  12歳の時に、自分の倍の年の大人と喧嘩をし、顔を何かで殴られた。  そのために彼は片方の目の視力を失った。

④22歳の時に、カスはジャック・バロウと共にエンパイア・スポーティング・クラブを創立し、若いボクサーを育てはじめた。  3人の世界チャンピオン、フロイド・パターソン(元・ヘビー級世界チャンピオン)、ロッキー・グラシアーノ(元・ミドル級世界チャンピオン)、そして私、ホセ・トーレスをはじめとするボクサーたちがそこから出た。  フロイドや私がダマトにゼロから育てあげられたのも、まさしくそこだった。

⑤カスは1930年年代の中頃にアメリカ軍に入隊し、ボクシング・コーチとなった。  第二次世界大戦直前に除隊された時は、軍曹だった。  カスはあまり背が高いほうでもなく、強健でもなかった。  たくましい首にのった頭にはわずかに白髪が残っているだけだった。

⑥カス・ダマトは独立独歩の孤高の人だった。  自分の考えを執念ともいえる頑固さで守り通した。  その根本的なボクシング哲学は、高い次元においては、リング上の勝敗を決するのは肉体のメカニズムではなく精神力であるというものだった。

⑦カスは何度もくりかえしていった。  「ボクシングでは人間性と創意が問われる。  勝者となるのは、常に、より多くの意志力と決断力、野望、知力を持ったボクサーなのだ」

⑧そんなころ、1979年、マイク・ジェラルド・タイソンは初めてカス・ダマトと会った。  それはまた、私がタイソンと会った年でもある。

⑨カスは私がプロボクサーであった11年間(1958~69)を通じてマネージャーをし、私を世界ライトヘビー級チャンピオンに育て上げてくれた。  その後もかれは、二人の若いチャンピオン、ウィルフレッド・ベニテス(元・スーパーライト級、ウェルター級、スーパーウェルター級の3階級世界チャンピオン)とエドウィン・ロザリオ(元・ライト級、ジュニアウェルター級の2階級世界チャンピオン)を含めて、数百名の若いボクサーのトレーニングを手伝ってきた。

⑩しかし、子供のころからずっと育てたボクサーはまだいなかった。  1979年2月のある寒い朝、カスは一人の若いボクサーのことで夢中になっている様子だった。  (中略)  やってきたのは力強い顔をした少年だった。  カスはその少年の頭にそっと手を置くと、私にいった。  「この子がマイク・タイソンだ。  ボクシングに対する興味と希望を捨てさえしなければ、いつかヘビー級の世界チャンピオンになる子だよ」

⑪ヘビー級にしては背が低く(5フィート6インチ)、ボクサーにしては筋骨たくましく(186ポンドで、ほとんど脂肪はなく筋肉の塊だった)、荒々しいルックスのわりに内気なようだった。  マイクはその時13歳にもなっていなかったが、すでにかなりの件数の犯罪を犯していた。』

それから7年9か月後の1986年11月22日、タイソンは史上最年少(20歳5か月)で世界ヘビー級チャンピオンとなります。 ところが、カス・ダマトは前年の11月4日に亡くなっているため、 残念ながら見届けることができませんでした。

外出自粛が続いていますが、本を読むには最適の環境です。  

「与えられた環境条件の中でできるだけのことをする」というのは、私の生活信条の一つでもあります。

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啐啄同時

『稽古の思想』(西平直著 春秋社)を読みました。  著者は京都大学教育学研究科教授で、専門は教育人間学・死生学・哲学です。  「啐啄同時」の項から抜粋し、番号を付けて紹介します。

『①師匠と弟子の関係を見る。  その極限的な場面を、稽古の思想は、禅に倣って「啐啄同時」と呼ぶ。

②「啐(そつ)」は卵の中の雛が内側から殻をつつく音。  「啄(たく)」はその変化に気づいた親鳥が、出てくる先を示すように、外側から殻をつつく音。  殻を破る者とそれを導く者との絶妙なタイミングである。

③禅でいえば、弟子の中に機が熟して悟りが開けゆく、その機を逃さず、師が教示を与え導くことと説明される。

④親鳥は卵を暖めながら「機」をうかがっている。  いよいよ近くなると、くちばしで外側からコツコツと叩く。  それを聴いた雛は、その音を頼りに、コツコツ返してくる。  それを繰り返す中で上手になってゆき、雛鳥は自分の力でカラを割って出てくる。  親鳥の叩くのが強すぎれば殻を破ってしまう。  逆に、弱すぎれば雛を導くことができない。

⑤放っておくのでもない。  教えすぎるのでもない。  先回りしすぎることのない、抑えの利いた心配り。  ということは、その弟子特有のペースを知っていなければ、そのタイミングがつかめない。  早すぎもせず、遅すぎもしない。  「その時」を逃さず、絶妙の機を逃さない知恵である。

⑥こうした知恵は「わざ(スキル)」ではない。  意識的・計画的に実行できるものではない。  ところが、こうした知恵は、ただ待っていても身に付かない。  やはり工夫する必要がある。  ある種の試行錯誤を重ねる中で、そのタイミングを見る「眼」を育てる。

⑦しかしその眼は、意図的に利用することはできない。  あくまで、その時々の弟子との関係性の中で、生じてくるしかない。』

41年間の指導者生活の中で、私のアドバイスが選手の状態とたまたまマッチして、その選手が急激に強くなった、という経験があります。  同じことを言うのでも、タイミングは重要ですね。

なお、『啐啄同時』については、2008年3月4日のブログでも取り上げています。

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