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加山雄三さん

昨年引退した加山雄三さんが、今月の朝日新聞連載『語る 人生の贈りもの』に登場しています。  7月27・28日分全文に番号を付けて紹介します。

『1.《人気絶頂だった1970年、おじが経営する神奈川・茅ケ崎のホテルが倒産する》

①おじさんが、うちのおやじと俺の名前を貸してくれ、みたいなことを言うので、書類の上では会社の経営に参加してるようになってたけれども、実際は参加してなかった。

②でも、倒産するってときに、おじさんの居場所もわからなくなっちゃってさ。  借金は全部おれに取り立てが来たんだ。  負債は23億円だった。  その後、17億~18億円ぐらいでホテルは買収されたけど、それでもとんでもない額の借金が残った。

2.《巨額の負債でイメージに傷が付き、仕事は激減した》

①騒がれる前に、おれはアメリカに逃げたんだ。  ロサンゼルスで1週間64ドルっていう安いアパートを借りて住んでいた。

②それで、かみさん(松本めぐみさん)と結婚するんだ。  結婚するならこの人しかいないと。  愛していたんだね。  かみさんも「私がいなきゃこの人駄目だな」と思ってくれたそうだ。

③このままアメリカでアルバイトをして食っていくこともできると思ったんだけど、やっぱり空洞がね、心に出来たまんまなんだ。  そのまんま、ほったらかしには出来ないなっていう気持ちになった。  日本へ帰って、おれはちゃんと正面を切って勝負してみる、と。

④帰国して、結婚会見を開いたんだ。  会見に来た記者さんが厳しくてね。  「これからやり直して、一生懸命頑張りますから」と何度も言うんだけど、罵倒されるんだ。  「甘い、甘い」って。

⑤この年はおふくろも亡くなって、本当につらい時期だった。  仕事がなくなったけど、それでも生きていかないといけないから、頑張って稼ごうとした。  借金と税金の支払いがしんどくてね。  1カ月に30万円稼いでも、ほとんど手元には残らない。  食べるものにも困ってね。  「ごはんを食べなきゃ死んじゃう」と税務署に言いにいったんだ。

3.《多額の負債を抱え、稼ぎのほとんどは差し押さえられた》

①「せめて最低限の生活費だけでも認めて欲しい」と、税務署に行ってお願いしたんだ。  「ご飯が食べられなくて死んだら、借金が返せなくなるでしょう?」って。  そうしたら「死んだら保険が下りますから」とかすごいことを平気で言うんだ。

②「生きているうちになんとかしたいから、収入の30%ほど残るように認めていただきたい」と何度もお願いしにいって、ようやく認めてもらった。

③一つの卵をかみさんと2人で分け合って、卵かけご飯を食べていた。  それでも卵かけご飯はうまいからね。  食べられるだけありがたいなと思っていた。

④酒を飲んで酔っ払って、岩とか立ち木に思いきり拳を突き立てて、血だらけになったこともあった。  そうやって荒れることもあったけど、それでも、ある程度冷静でいられたのはおやじ(俳優の上原謙さん)を見ていたからだな。

⑤おやじが隆盛を極めて、落っこってくるのを見てたから、山を上がったら下りてくるのは当たり前だよなって思っていた。

⑥チヤホヤされて人気が上り坂のときはみんな寄ってくるし、駄目だと思ったらすぐ去っていく。  それもおやじを見ていて分かっていたし、自分がそうなっても、人間そんなもんだよな、と思った。  そんな状況でも黙って一緒にいてくれたかみさんは、やっぱり偉いよなと思う。  感謝してるし、今でも頭が上がんないよ。

4.《圧雪車にひかれて重傷を負ったり、後にスキー場の経営が頓挫したりと、苦難も多い人生だ》

①人生、苦しいことが99%、幸せは1%ぐらいだと。  それぐらいに思っておくのが大切だと思う。  つらいときがない人間はいない。  誰しも苦しい時期はある。  人生ってそういうもんだ。  

②でも、周りのせいにするのは簡単だけど、やっぱり考えて反省しないといけない。  人間、悪いときが大事なんだよな。』

加山さんは私が10代前半にあこがれたスターでした。  昨年もステージ映像を見ましたが、とても85歳とは思えないキレイな年の取り方をされています。

「一つの卵をかみさんと2人で分け合って、卵かけご飯を食べていた(3.③)」なんていうことがあったんですね。

4.①の「人生、苦しいことが99%、幸せは1%ぐらいだと。  それぐらいに思っておくのが大切だと思う。  つらいときがない人間はいない。  誰しも苦しい時期はある。  人生ってそういうもんだ。」という言葉に感銘を受けました。

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「ピンチの法則」五ヵ条

人生66年も生きてくると、ピンチに見舞われることが何度かありました。  そんな時に必ず取り出して読んだ本が、『朝は夜より賢い』(邱永漢著 実業之日本社)で、副題は「私の体験的ピンチ脱出法」となっています。  

著者の経済評論家・作家の邱永漢(きゅうえいかん)先生は2012年に亡くなられましたが、30代の頃、先生の主催する『邱友会』に出席させていただき、ご指導を受けていた時期があります。

私のブログで過去にも取り上げた『「ピンチの法則」五ヵ条』の項から抜粋し、番号を付けて紹介します。

『1.(東京)大学を出て故郷(台湾)へ帰り、就職もしないで自分で何とかやって行こうと思ったときには、「いったい、これからどうなるのだろうか」と内心、暗澹たる思いがしたことを今でも記憶している。

2.私の場合はもう一回、香港へ行って同じ思いをくり返すという場面があった。  24歳のとき、私は台湾から政治亡命して香港へ渡り、「金も持たず」 「言葉もわからず」 「学歴も役に立たず」 「就職のあてもなく」 「友達もなく」、また「故郷へ帰ることもならず」異郷にただ一人おっぽり出されてしまった。

3.同郷の知人をたよって居候をきめ込み、約一年間、流浪の明け暮れであったが、このとき心配のあまりベッドに寝ころがったまま一睡もできず、窓が白んでくる体験を何回となくやったし、また目を悪くして、一ヵ月かかって下手糞の英語で「ファーイースト・エコノミック・レビュー」に寄稿をしてやっともらった百香港ドルの中から、眼鏡代に八十五ドルもって行かれたこともある。

4.そのときも先の見込みがまったく立たず、心細い思いをくり返したが、やがてどこからともなく結び目が解けて、次の道がひらけていった。  経済的なピンチについていえば、その後も何回となくくり返したが、似たようなことを何回か経験すると、慣れっこになるというほどではないが、ピンチにも法則があるということにいやでも気がついてくる。

5.「ピンチの法則」とは何かというと、

(1)ピンチというのは人生のリズムみたいなものであるから、周期的に必ずやってくる。  用心して予防策を講じていても、避けることはできない。

(2)ピンチにおちいるときは、身辺におこることがいずれもマイナスに働くから、八方塞がりの感じになる。

(3)ピンチにおちいると、奈落の底にでも落ちるような不安に襲われるが、それは心理的なものにすぎず、必ずどこかで底に足がとどく。  ただし、必ず一定の時間の経過を要する。

(4)ピンチの折返し点は、恐怖におちいって想像したよりもかなり上のところにある。  つまり、人間は自分で考えたところまでは、なかなかおちこまないものなのだ。

(5)ピンチから這い上がるキッカケは、ピンチにおちいる前に考えていたようなことからは生まれてこない。  苦しみにきたえられ、それが薬になってはじめて次の対策が生まれてくるのである。』

今回の新型コロナウィルスの緊急事態宣言が発令されたとき、真っ先に私の頭に浮かんだのは上の(1)です。  でも(4)にあるように「ピンチの折返し点は、恐怖におちいって想像したよりもかなり上のところにある。」と思います。

できる限りの対策はとりますが、「ある意味、得難い経験をさせてもらっている」ととらえ、泰然自若として過ごしていきたいなと考えています。


※追伸

このブログを書き終わった後、城西の指導員ブログおよびfacebookで昨日の『第1回 オンライン稽古』の投稿を見ました。

この大変な時期に、120名の方々に参加していただき、本当に感謝します。

緊急事態宣言の中、我々にできることは限られていますが、指導員一同精一杯努力させていただきますので、ご要望があれば、何でもご連絡ください。



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先崎学九段

プロ棋士の先崎学九段が書いた『うつ病九段』(文藝春秋)を読みました。  著者紹介には次のように書いてあります。  「2017年7月にうつ病を発症し、慶応大学病院に入院。  (中略)  そして一年間の闘病を経て2018年6月、順位戦で復帰を果たす。」  本書の最終部分から抜粋し、番号を付けて紹介します。

『①中学生の時、イジメにあった。  それまで小学校で3年間、内弟子という奇妙な体験をしてこまっしゃくれていた私は、中学校に入るとすぐにクラスで浮いた。  

②おりしも校内暴力の全盛期で、授業中に校庭でバイクが集団で走りまわり、トイレは喫煙防止のために仕切りがすべてなくされるような荒れた学校で、私はまたたく間に不良たちの「かわいがり」の対象となった。  私がどもりだったこともあるかもしれない。

③教師は、今では信じられないことだろうが、将棋のプロになるというのはヤクザになるのと同じくらいにしか思っておらず、まったく相手にしてくれなかった。

④はじめは無視されたり、将棋野郎といわれるくらいの軽いものだったが、当然の成り行きでエスカレートしていった。  半年もたつと教科書を盗まれたり、生徒手帳にバカと書かれて廊下の壁に貼られたりした。  椅子に大きくあざけりのことばが書かれていたこともある。

⑤いじめは学校の中だけでは済まなかった。  ある朝、家の壁に私を中傷する落書きがいくつも描かれていた。  学校へ行こうとすると、母親が黙ってそれを消していた。  いくら拭いても消えないのに、ただ黙ってモップでこすっていた。

⑥私はそれを見て、母親に学校へ行ってくるといったまま将棋連盟に行って、仲間と将棋を指した。  その日は連盟に泊まって、翌日帰ると落書きはさっぱり消えていた。  今に至るまで、このことを母親とはなしたことはない。

⑦私は猛然と記録係をするようになる。  記録係というのはプロ棋士の公式戦の記録をつける仕事で、朝10時からこれをすると学校へ行かなくて済む。  月に十日から十五日くらい記録係をして、できるだけその日は連盟に泊まるようにした。

⑧必然、週に一度も学校へ行かないようになる。  母親は何度も学校から呼び出しをくらい、私も同席させられた。  教師にイジメについて訴えても、そんなことはよくあることだとまったく取り合ってもらえず「学校に来ないとロクな人間になれんぞ」と声高にいわれた。  私はこいつのいうことを聞いたらロクな人間になれないと確信した。

⑨学校生活に比べると将棋界は楽園だった。  先輩たちは温かったし、ひとつの伝統ある世界の一員として扱ってくれた。  なにより仲間と将棋を指す時間は宝物だった。

⑩とはいえ毎日将棋だけにかかわるわけにもいかない。  私はむさぼるように本を読んだ。  学業をしていない分、圧倒的に知識がないのは明らかだった。  ひたすら本を読んで、だから今この原稿を書いている。  (中略)

⑪本を読んで知識を得、現場で勉強して常識を得、(アナウンサーの卵が通う学校に通って)どもりを直して中学時代のつらい経験を克服しようとしてきた。

⑫しかし、心の支えは何といっても将棋だった。  あの落書きをされた日、将棋を指す仲間がいなかったら自分はどうなっていただろう。  記録係をできずに学校へ行くよりなかったら・・・・・・。

⑬棋士になって様々な仕事をし、様々な人に会って臆せずはなせたのも、すべて自分は将棋が強いんだという自信があるからだった。  そう、私は腕一本で人生を切り拓いてきた。  そして今回もうつ病を、ひたすら将棋を指すことで切り抜けた。  

⑭だから大丈夫である。  もしうつ病に対する偏見があっても、将棋の力によって必ず切り抜けられるはずだ。  ベテランだから勝てないなんてことはどうでもよい。

⑮将棋の力であのイジメに勝ったのだ。 それが私の「誇り」である。  くだらない偏見なんてものに負けるわけがない。

⑯今、書いていて分かった。  こんなことを書いているくらいだから、うつはたしかによくなっている。』

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