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アイゼンハワー

私が尊敬する歴史上の人物の一人がD・D・アイゼンハワーです。  第二次世界大戦時の連合国遠征軍最高司令官で、ナチス・ドイツ占領下にあったフランスのノルマンディーへの上陸作戦を指揮したことで有名です。  のちに第34代アメリカ大統領に選ばれました。  その人がらについて、過去のブログで取り上げています(https://masatoshiyamada.blog.fc2.com/blog-entry-1183.html)。

最近、アイゼンハワーに関する映像・文章を3つ見たので紹介します。

1.映画『ノルマンディー  将軍アイゼンハワーの決断』・・・プライム・ビデオ


2.『ヨーロッパ十字軍 最高司令官の大戦手記』(D・D・アイゼンハワー著 朝日新聞社 1949年12月15日発行)

本書から抜粋し、番号を付けて紹介します。

『①1944年9月1日から3ヶ月間、私は大部分の時間を前線視察に費した。  戦線は広がる一方だったので、視察にはなかなか時間がかかったが、これは非常に有益であり、時間と努力を償って余りがあつた。  私は司令官たちを各本部に訪ね、膝を交えて個人的に語り合い、また部隊全体の気分を知ることが出来た。

②あるとき私は、前線陣地に足を止め、第29歩兵師団の数百の将兵と語り合っていた。  立っているところは泥でツルツルすべる丘だった。  しばらく話をして立ち去ろうとしたところ、泥にすべってスッテンコロリところんだ。  周りからドッと笑い声が起つた。  この笑い声から私は戦争中を通じてこれほど兵隊と打ちとけた会合は他にはなかったと信じている。

③私はたびたび友だちから前線訪問をやめるようにすすめられた。  彼等は、私が自ら話しかけることの出来るのは結局ごく少数の兵隊だけではないかといったが、これはもっとも至極である。  けれどもこれらの訪問が私を疲らせるだけで、なんら重要な意味はないという言分には承服し兼ねた。

④私は第一にこれ等の訪問によって兵隊たちの本当の気持をつかむことが出来ると考えた。  どんなことでも私は彼等に話しかけた。  私が好んで持ち出した質問は、特定の小部隊が歩兵の戦闘で何か際立つた新しい策略を使ったことがあるかどうか、というようなことであった。  私はその後も、兵隊たちが私の話に答えてくれる限りは、何事についても話しかけたのであつた。

⑤古くから言い慣わされている言葉に「丸裸の戦野」というのがある。  これは戦場を見た者ならだれにも実感のこもった表現である。  渡河作戦のように、異常な戦術的活動の集中を必要とする場合を除いて、前線地帯の戦野に立つ感情は何ともいえぬ淋しさなのだ。  そこにはほとんど何ものも見えない。  

⑥友軍も、敵も、兵器も、軍隊が戦っている瞬間、突如として視野から消え去ったように思える。  誰もがみな非常な淋しさに襲われ、動いたり、姿を見せたりすれば、瞬時に死が訪れるという人間的な恐怖心のとりこになってしまうので抑制力を失ってしまう。  こうした戦場こそ指揮官に対する信頼、戦友愛が完全に現われる舞台なのである。

⑦私自身の力ではこの方面に大した働きは出来なかった。  だが私は、兵隊が金ピカの将官に話しかけることも出来るのだと知っていれば、将校をこわがるようなこともなくなるだろうと思った。  また私の前線視察のやり方を将校たちが見れば、彼等が部下を知り、友愛感を抱こうとするようになることもあり得るのであった。  いずれにしろ私は戦争中、前線訪問をやめなかったし、兵隊たちと話をしないことは、私にとって有害無益であった。

⑧あるときアフリカで、ある前線部隊の兵隊が私に、補給部隊にはあり余るほど行きわたっている板チョコレートが、自分たちのところにはちっとも来ないという不平をのべた。  私は部隊長にその理由をただしたところ、彼は再三再四要求したけれども、その都度輸送の方法がないという返事で断られているということだった。

⑨私はすぐに後方に電話をかけて、前線の航空隊や各部隊にこれらの物品が行きわたらないうちは、補給部隊にも一本のキャンディ、一本の煙草も配給してはいけないと命令した。  そうしたら驚くほど短時間の中に、彼等の要求が直ちに実現したとの喜ばしい報告を受けとった。』

過去ブログでも紹介しましたが、末端の兵士にまで気を配るアイゼンハワーの人がらには感動します。


3.『歴史群像』2022年10月号・・・特集『アイゼンハワー 平凡な軍人はいかにしてトップに上り詰めたのか』

抜粋し、番号を付けて紹介します。

『①輝かしい経歴の前段階には、不遇の「下積み時代」が存在していた。  希望する部署に進めず、上司のパワハラに苦悩し、階級は1920年から1936年まで16年間、少佐に留まっていた。  当時はおそらく誰一人として、この少佐がたった8年後に元帥という軍の最高位へと昇進するとは想像しなかっただろう。  (中略)

②歴史的に見たアイゼンハワーの最大の功績は、ヨーロッパがヒトラーとナチスの支配下に置かれた状況を打ち砕く、西側連合軍の反攻作戦をすべて成功に導いたことだった。

③野戦部隊の指揮を一度も実戦で経験していないというハンデを負い、戦間期には昇進と無縁の地味な役割を演じたアイゼンハワーだったが、第二次大戦における輝かしい成功の要因を分析すれば、その「下積み時代」に蓄積した、幅広い分野での知識と実務経験が大いに役立っていたことがわかる。

④彼は、参謀将校に必要な各種能力をこの時期に磨きつつ、戦車の構造や運用法、大規模な兵站管理の要点と限界、戦略と作戦の連関構造などについての理解を深めていた。  また、コナー(階級は当時最高位の陸軍少将)とマーシャル(大将、陸軍参謀総長)という二人の師から、大局的な判断の下し方を学び取った。』

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ダルビッシュ投手

昨日まで西湖で合宿でした。  東京に比べると涼しいとはいえ、稽古やイベントが盛りだくさんで、皆さんお疲れだと思います。

かっての少年部が成人して参加してくれていたりして嬉しかったです。  いずれにしても、指導員・道場生の皆さん、お疲れさまでした。

世界一になったWBC日本代表の栗山英樹監督が書かれた『栗山ノート2』(光文社)を読みました。  第2章「自修す」から抜粋し、番号を付けて紹介します。

『1.①侍ジャパンのキャンプインを前に、オリックス・バファローズの宇田川のコンディションが上がってこないとの連絡がありました。  彼は22年シーズンに1軍デビューを飾った選手で、シーズンオフの過ごしかたがつかめていなかったのかもしれません。  あるいは、1軍で投げられるようになってすぐに侍ジャパンに選出されたことに、戸惑いを覚えていた可能性もあったでしょう。

②それでいて、やることは多いのです。  投手の彼は、WBCの使用球に慣れておく必要があります。  2月1日にスタートしたオリックスのキャンプでは、中嶋聡監督が「こんな状態でなにが侍ジャパンだ!」と、強い言葉で背中を押してくれていました。   本人はもがき苦しみながらもコンディションを上げて、我々のキャンプに合流してきました。  ただ、なおも苦しみの真っただ中にいたのでしょう。

③18日にダル(ダルビッシュ有)がブルペンに入り、若手投手陣がズラリと並んで見学していたそのとき、宇田川はトレーニングルームにこもっていました。  その日の練習後に取材に応じると、「正直、気後れというか」と、チームに馴染めていないことを匂わせていました。

④そんなときに、ダルが監督室のドアをノックしてきたのです。  「監督、お願いがあります。 宇田川の今日のピッチング、見ていましたよね。  良くなってきましたよね。  監督からその良かったなという感じを、話してあげてもらえませんか。  いまの状況を考えれば、そういう言葉が大きな意味を持ちます」  (中略)

⑤ダルの貴重な助言を受けて、私は宇田川に声をかけました。  本人は「まだまだ緊張感が大きいのですが」と申し訳なさそうに話していましたが、「何とかします」という言葉にはそれまでとは違う力強さが込められていました。  


2.①宮崎キャンプでのダルは、一切の見返りを求めていませんでした。  グラウンド上で多くの選手とコミュニケーションを取り、休日には食事会を開いて交流を深めました。  

②投手陣が集まった食事会は、「宇田川会』と名付けられました。   調整に苦しんでいた宇田川を励ますためであり、「自分がチームを勝たせる」という当事者意識を植え付けるためだったのでしょう。

③オフの食事会は、野手の選手とも行なわれました。  ダルの心配りとしてメディアでも取り上げられましたが、実は宿泊先でも彼のアイディアからコミュニケーションが深まっていきました。

④新型コロナウイルス感染症の対策として、大人数での食事は同じ方向に机を並べて黙食、というスタイルが取られてきました。  ここでダルが、「これだと話ができないので、大きな丸テーブルをいくつか置くように変えられませんか」と聞いてきたのです。  基本的な感染症対策を続けつつ、食事中も野球の話ができる環境を作ると、やはりコミュニケーションが活発になりました。

⑤宮崎キャンプを終えて、京セラドームでの強化試合に臨んだ際にも、ダルの気配りを目の当たりにします。   京セラドームはオリックスの本拠地で、所属選手のグッズが売られています。  そこで、チームマネジャーに頼んで宇田川のキーホルダーを買ってきてもらい、写真付きでツイッターに投稿しているんです。


3.(栗山監督からダルビッシュ投手への言葉)

親愛なるダル!

このチームになぜあなたが必要なのかを、様々な場面で説明させてもらいました。  

宮崎キャンプでは初日から一切の壁を作らず、若い選手たちのなかへ飛び込み、伝えるべきことをしっかりと浸透させつつ、10歳以上も年齢が下の選手に質問をして、新たな感覚や思考に触れ、自分の進化の糧にしていく姿勢を見せてもらいました。

宮崎キャンプの初日から決勝戦を終えたあの夜まで、感謝の思いを胸いっぱいに抱えて君を見ていました。

報われることを一切求めず、無私の心でチームに尽くしてくれたその姿は、人間としての魅力に溢れていました。』


「経営者感覚を持て」という言葉があります。  

社員でありながら、社長だったらどう判断し、どう行動するだろうという視点でいつも働いてたら評価も高くなるし、本人の実力もどんどん上がっていきます。  また、いつ経営者になったとしても上手くやっていくに違いありません。

そして、経営者感覚を持った社員がいると、経営者は大変助かります。

WBCでのダルビッシュ投手は、たとえて言えば、一選手でありながら「監督感覚」を持っていたのだと思います。

私も経営者を40年以上やってきていますが、他社を見ても「経営者感覚」を持った社員に出会うことは本当にまれです。


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憧れを超えた侍たち

今年3月に開催されたWBCのドキュメンタリー映画『憧れを超えた侍たち 世界一への記録』を昨日観ました。

1.以下は公式サイトの「INTRODUCTION」の内容です。

『憧れを超えた侍たちの世界一への記録

2021年12月、栗山英樹氏が野球日本代表・侍ジャパントップチーム監督に就任。  誰よりも野球を愛し、選手を愛する指揮官が2023年3月開催「2023 WORLD BASEBALL CLASSIC」へ向け、熱き魂の全てを捧げる日々がはじまった。

目標は「世界一」。

代表選手30人の選考会議から大会直前に行われた宮崎合宿、本大会ベンチやロッカーでの様子、選手の苦悩や葛藤、あの歓喜の瞬間まで完全密着したチーム専属カメラだからこそ撮影できた貴重映像の数々。

己を信じ、仲間を信じ、勝利を信じ、全員でつかんだ世界一。  世界に日本野球のすばらしさを伝えた侍ジャパン。  このチームは最高だ。』

2.空手は個人競技ですが、普段の稽古、試合へ向けての準備、試合当日のアップ・セコンド・応援など、チームとしての要素が多々あります。  チームスポーツという観点から、感銘を受けたことを挙げてみます(若干ネタバレになるかもしれません)。

①栗山監督・・・㋑選考会議の段階から一つ一つコーチ陣に確認を取りながら丁寧に進めていく、㋺一人一人が代表であるという自覚を持たせるために、あえてキャプテンを作らない、㋩本大会中に各コーチ・選手にかけた適切な言葉の数々

②チームリーダーであるダルビッシュ有投手・・・㋑若手の佐々木朗希選手などへのアドバイス、㋺ベンチでも率先して応援に回る

③同じくチームリーダーである大谷翔平選手・・・㋑後輩が活躍すると「さすがやね」と祝福、㋺バッティングでもピッチングでも結果を出して後輩たちを引っ張る、㋩常に、チームのムードが沈まないように皆を鼓舞し続ける

④守備のかなめの源田壮亮選手・・・一次ラウンドの韓国戦で右手小指を骨折したあとも試合に出続け、周りに感動を与える

今、思いつくことを書いてみましたが、不調だった村上宗隆選手の準決勝・メキシコ戦での逆転サヨナラ二塁打、決勝・アメリカ戦最終回2アウトでの大谷vsトラウトのスーパースター対決など、ドラマも満載でしたね。

3.チーム城西にとっても、指導者、コーチ、先輩選手、後輩選手、それぞれの在り方が大変勉強になります。  チーム城西のメンバーは必見です。

野球に興味がなく、WBCもまったく観ていなかったカミさんも隣で泣いていました 笑

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