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子どもが抱きしめられること

1.今回は元・寺田倉庫代表取締役社長の中野善壽さんが書かかれた『ぜんぶ、すてれば』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)からです。  

新聞で見た紹介文に次の文章があり、興味を持ちました。

その生き方の根幹にあるのは「何も持たない」こと。  家や車、時計は持たない。  お酒もタバコも嗜まない。  お金も若い頃から、生活に必要な分を除いてすべて寄付している。

2.「世の中捨てたもんじゃない。  楽観主義でやり直せばいい。」の項を抜粋し、番号を付けて紹介します。

『①これまでの人生を客観的に見つめてみると、わりと僕の人生は「ピンチ」の連続だったかもしれない。

②戦争の真っただ中に生まれ、家庭の事情で祖父母に引き取られて育てられました。  仕事を始めてからも、会社を突然辞めることになったり、日本でのキャリアを捨てて外国で再出発したり。  持っていたものをゼロにして、もう一回やり直すということを繰り返してきた人生です。

③でも、僕自身はピンチという感覚はなかった。  ゼロからまた始めるのは怖くないし、誰かが離れていったとしても人間不信に陥ることはまったくなかった。

④世の中捨てたもんじゃない。  きっと誰かが助けてくれる。  心の底からそう信じられるのは、ひとえに愛情を注いでくれた祖母のおかげでしょう。  叱っても必ずそのあとにぎゅっと抱きしめてくれた。  

⑤子どもは抱きしめられると、本当にうれしいんです。  小学一年生のときに担任だったタカハシタキコ先生も、寂しそうな僕を気遣って、よく放課後に一分間抱っこしてくれた。

⑥そういう愛情の伝わりは、一生残るんです。  おかげで、人懐っこく、誰に対しても心を開ける性格になりました。』

私の母親も幼くして父を亡くし、祖父母に引き取られて育てられたそうです。  2月6日が誕生日で、93歳になりました。  現在は老人ホームでお世話になっており、今週の火曜日にも面会に行ってきました。  まだまだ元気で、ありがたいです。

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明石家さんまさんと師匠

1月5日のスイッチインタビュー(NHK・Eテレ)の出演者はサッカー日本代表の森保一監督と明石家さんまさんでした。  さんまさんが師匠の笑福亭松之助さんについて、禅僧の内山興正老師に師事していたという話をされていました。

興味を持ったので『草や木のように生きられたら』(笑福亭松之助著 ヨシモトブックス 2016年初版)を読みました。  抜粋し、番号を付けて紹介します。

『1.①わたしはいまも彼(さんま)に週に一本、手紙を出していますが、それには訳があります。  弟子・師匠といっても西と東に別れてしまっていては会話をすることもままなりません。   弟子・師匠というものは名前の上だけのことではない、師匠の考え方を少しでも理解してこそ、弟子と師匠であるとわたしの経験上そう思っていましたので、手紙を出すことにしたのです。

②手紙は週に二本くらい出したこともあります。  内容は、わたしが読んだ本で感動したことや、彼の仕事に参考になること、禅の話の手紙でした。  

③東京へ行ってしばらく経ったころでしたか、ある週刊誌の「わたしの宝物」という欄に、彼がわたしからの手紙を「宝物」として掲げている写真が一ページを飾っていました。  それを見て、わたしは「有り難いこと(有ること難し)だ」と思いました。  師弟の関係が保たれているのを感じました。

2.①なにかの用事で奈良にある彼の家へ行ったことがありました。   お父さんがわたしにこういいました。  「さんまは、いま師匠が死ねといったら、死にますよ」

②それを聞いて「こんなヤクザな師匠をそれ程までに思っていてくれるのか」と思いました。   わたしは師匠の五代目松鶴のことを思い出していました。  口数の少ない師匠でしたが、師匠とはなにか通じるものがあったように思っていたからです。

3.①あるときわたしの気の迷いから、吉本をやめようと思って彼にそのことを伝えますと、「やめるのはいけません。   前に師匠が 『あるがまま』と教えてくれたではありませんか。  やめようというのは、我が計らいではありませんか」といいました。  この言葉にギャフンといわされました。

②「負うた子に教えられて浅瀬を渡る」というのはこのことでしょう。   「あるがまま」というのは親鸞聖人の「自然法爾(じねんほうに)」ということです。   こんな言葉が即座に出るくらいに、わたしの手紙を読んでいてくれたのです。  教えたわたしが忘れ、教えられた彼が教えてくれる、こんな師弟はどこにもないぞ、そう思いました。

4.①(『荘子』を読んで)人は皆それぞれ考え方の違いがあって、生きているのだということを知りました。  これがわからないうちは、人も皆同じ考えだと思っていましたから、なぜ、わたしのいうことがわからないのだと思ったりしたこともあります。

②これがわかってからは、人様に自分の考えを押しつけることはなくなりました。  もちろん聞かれればそれに答えることはしますが、わたしの考えが相手に通じるかどうかは不明なのです。

③だから、さんまにもわたしは参考文献を書き写したものをそのまま送るようにしていました。  つまり「人間が一億人いれば、一億の考え方がある」ということです。  自分の意見を通そうとするとそこに争いが起こるのです。  

5.①さんまは倅にいったそうです。  「自分が歳をとったら、師匠の家しか帰るところはない」  こんな人間は現代には珍しいと思います。   「帰るところはここしかない」、これは仏法です。  また一つ彼に教えられました。』

うらやましいような師弟関係ですね。

私のブログのタイトルは『私の読書録・備忘録』です。  自分自身のための読書録であり備忘録ですが、テーマを取り上げる際には家族(カミさんと娘)や指導している選手にも伝えたいと思って書いています。

また、上の4.③同様に参考文献を書き写したものがほとんどです。  私のコメントはなるべく書かないようにしています。  理由は、その内容に関する私の解釈を押し付けたくないからです。


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アイゼンハワー

私が尊敬する歴史上の人物の一人がD・D・アイゼンハワーです。  第二次世界大戦時の連合国遠征軍最高司令官で、ナチス・ドイツ占領下にあったフランスのノルマンディーへの上陸作戦を指揮したことで有名です。  のちに第34代アメリカ大統領に選ばれました。  その人がらについて、過去のブログで取り上げています(https://masatoshiyamada.blog.fc2.com/blog-entry-1183.html)。

最近、アイゼンハワーに関する映像・文章を3つ見たので紹介します。

1.映画『ノルマンディー  将軍アイゼンハワーの決断』・・・プライム・ビデオ


2.『ヨーロッパ十字軍 最高司令官の大戦手記』(D・D・アイゼンハワー著 朝日新聞社 1949年12月15日発行)

本書から抜粋し、番号を付けて紹介します。

『①1944年9月1日から3ヶ月間、私は大部分の時間を前線視察に費した。  戦線は広がる一方だったので、視察にはなかなか時間がかかったが、これは非常に有益であり、時間と努力を償って余りがあつた。  私は司令官たちを各本部に訪ね、膝を交えて個人的に語り合い、また部隊全体の気分を知ることが出来た。

②あるとき私は、前線陣地に足を止め、第29歩兵師団の数百の将兵と語り合っていた。  立っているところは泥でツルツルすべる丘だった。  しばらく話をして立ち去ろうとしたところ、泥にすべってスッテンコロリところんだ。  周りからドッと笑い声が起つた。  この笑い声から私は戦争中を通じてこれほど兵隊と打ちとけた会合は他にはなかったと信じている。

③私はたびたび友だちから前線訪問をやめるようにすすめられた。  彼等は、私が自ら話しかけることの出来るのは結局ごく少数の兵隊だけではないかといったが、これはもっとも至極である。  けれどもこれらの訪問が私を疲らせるだけで、なんら重要な意味はないという言分には承服し兼ねた。

④私は第一にこれ等の訪問によって兵隊たちの本当の気持をつかむことが出来ると考えた。  どんなことでも私は彼等に話しかけた。  私が好んで持ち出した質問は、特定の小部隊が歩兵の戦闘で何か際立つた新しい策略を使ったことがあるかどうか、というようなことであった。  私はその後も、兵隊たちが私の話に答えてくれる限りは、何事についても話しかけたのであつた。

⑤古くから言い慣わされている言葉に「丸裸の戦野」というのがある。  これは戦場を見た者ならだれにも実感のこもった表現である。  渡河作戦のように、異常な戦術的活動の集中を必要とする場合を除いて、前線地帯の戦野に立つ感情は何ともいえぬ淋しさなのだ。  そこにはほとんど何ものも見えない。  

⑥友軍も、敵も、兵器も、軍隊が戦っている瞬間、突如として視野から消え去ったように思える。  誰もがみな非常な淋しさに襲われ、動いたり、姿を見せたりすれば、瞬時に死が訪れるという人間的な恐怖心のとりこになってしまうので抑制力を失ってしまう。  こうした戦場こそ指揮官に対する信頼、戦友愛が完全に現われる舞台なのである。

⑦私自身の力ではこの方面に大した働きは出来なかった。  だが私は、兵隊が金ピカの将官に話しかけることも出来るのだと知っていれば、将校をこわがるようなこともなくなるだろうと思った。  また私の前線視察のやり方を将校たちが見れば、彼等が部下を知り、友愛感を抱こうとするようになることもあり得るのであった。  いずれにしろ私は戦争中、前線訪問をやめなかったし、兵隊たちと話をしないことは、私にとって有害無益であった。

⑧あるときアフリカで、ある前線部隊の兵隊が私に、補給部隊にはあり余るほど行きわたっている板チョコレートが、自分たちのところにはちっとも来ないという不平をのべた。  私は部隊長にその理由をただしたところ、彼は再三再四要求したけれども、その都度輸送の方法がないという返事で断られているということだった。

⑨私はすぐに後方に電話をかけて、前線の航空隊や各部隊にこれらの物品が行きわたらないうちは、補給部隊にも一本のキャンディ、一本の煙草も配給してはいけないと命令した。  そうしたら驚くほど短時間の中に、彼等の要求が直ちに実現したとの喜ばしい報告を受けとった。』

過去ブログでも紹介しましたが、末端の兵士にまで気を配るアイゼンハワーの人がらには感動します。


3.『歴史群像』2022年10月号・・・特集『アイゼンハワー 平凡な軍人はいかにしてトップに上り詰めたのか』

抜粋し、番号を付けて紹介します。

『①輝かしい経歴の前段階には、不遇の「下積み時代」が存在していた。  希望する部署に進めず、上司のパワハラに苦悩し、階級は1920年から1936年まで16年間、少佐に留まっていた。  当時はおそらく誰一人として、この少佐がたった8年後に元帥という軍の最高位へと昇進するとは想像しなかっただろう。  (中略)

②歴史的に見たアイゼンハワーの最大の功績は、ヨーロッパがヒトラーとナチスの支配下に置かれた状況を打ち砕く、西側連合軍の反攻作戦をすべて成功に導いたことだった。

③野戦部隊の指揮を一度も実戦で経験していないというハンデを負い、戦間期には昇進と無縁の地味な役割を演じたアイゼンハワーだったが、第二次大戦における輝かしい成功の要因を分析すれば、その「下積み時代」に蓄積した、幅広い分野での知識と実務経験が大いに役立っていたことがわかる。

④彼は、参謀将校に必要な各種能力をこの時期に磨きつつ、戦車の構造や運用法、大規模な兵站管理の要点と限界、戦略と作戦の連関構造などについての理解を深めていた。  また、コナー(階級は当時最高位の陸軍少将)とマーシャル(大将、陸軍参謀総長)という二人の師から、大局的な判断の下し方を学び取った。』

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