fc2ブログ

| PAGE-SELECT | NEXT

スリムクラブ

『なぜ、この芸人は売れ続けるのか?』(中西正男著 マキノ出版)を読みました。  『Episode12 真栄田賢(スリムクラブ)「揺るがぬ相方への親愛」』の項に、琉球大学の後輩だった相方・内間政成さんに関するインタビューが載っていました。  抜粋し、番号を付けて紹介します。

『①内間は、本当に自分に自信がないんです。  自信がないから、舞台に出ると、すぐに「自分じゃだめだ・・・・・・」って思って〝誰かになろう〟としちゃうんです。  たとえば、「ダウンタウン」の浜田さんみたいに強くツッコんでみたり、「フットボールアワー」の後藤さんみたいに技術的にうまいことを言おうとしてみたり。

②コンビを組んでから、毎日「お前でいいんだよ」って、同じことを言いました。  そして、結成から5~6年経った頃になって、それが浸透してきて、少しづつ、少しづつ、内間らしいゆっくりしたしゃべり方が出るようになってきたんです。  (中略)

③そして、はい上がるには「M-1グランプリ」しかない。  ここが一世一代の大勝負。  その思いが、決勝当日、一気に押し寄せてきてしまった。  僕はガチガチに緊張して、余裕が全くなくなってしまったんです。

④そうしているうちに、出番5分前になって、スタジオに向かうことになりました。  ステージ裏に続くエレベーターがあって、そこで極限状態にまでガチガチになっていました。

⑤「これはダメだ」。  さすがにそう思った瞬間、内間がポンと俺の肩を叩いて言ったんです。

「真栄田さん、今までありがとうございました。  僕、本当に真栄田さんに感謝しています。  それを今、どうしても伝えたくて・・・・・・。

僕、ポンコツじゃないですか。  ネタも覚えきれない。  ネタも書けない。  噛む。  緊張する。  本当にポンコツってわかります。  そんな僕が、日本の漫才師の9組にまで選ばれました。  全部、真栄田さんのおかげです。  本当にありがとうございます。

僕が見たところ、真栄田さん、今日、調子悪いでしょ?  実は、僕、今日、絶好調なんです。

だから、僕を見ててください。  僕は真栄田さんが好きだし、真栄田さんのネタが大好きだから、僕は真栄田さんが言ったことで絶対に笑います。  今日はいつも以上に笑うと思います。

だから、真栄田さんは笑っている僕だけを見ててください。  だったら、何も心配することないでしょ?  ここまで連れてきてくれて、本当にありがとうございます。  じゃ、楽しい漫才をやりましょう」

⑥一気に涙が出ました。  今でも、話していると泣いちゃいます・・・・・・。  そして、颯爽とエレベーターに乗った瞬間、あいつ、つまづいてコケたんです(笑)。  一瞬で感動と笑いがやってきて、気づいたら、ふと普段の自分に戻っていたんです。

⑦だから、「M-1グランプリ2010」の映像を見てもらうとわかるんですけど、登場した瞬間、俺、ものすごく笑顔なんです。』

TOP↑

私利私欲がない

2月3日の日経新聞・夕刊の『追想録』は、昨年の10月25日に96歳で亡くなられたライフコーポレーション創業者の清水信次さんについて書かれていました。  番号を付けて紹介します。

『①清水氏をひと言で評するならば、天下国家を憂いながらしっかりとそろばんもはじく「国士」のスーパー経営者だ。  1月26日に都内のホテルで開いたお別れの会はそんな清水氏の人生を表現していた。

②同氏は歴代首相とのパイプを築いてきたが、とりわけ故中曽根康弘氏との友好関係は深い。  会場には「尊縁随縁」(縁を大切にし、逆らうことなく、自然に従っていく)、「人生途中下車が多いが私は最後まで降りない」など、清水氏の心のありようを導いた中曽根氏の直筆の書が存在感を放っていた。

③とりわけ「途中下車」の書は清水氏のお気に入りで、いつも近くに飾っていた。  コピーした書を親しい経営者仲間にも配っていたぐらいだ。  受け取った一人が北海道最大手のスーパー、アークスの横山清社長。  87歳になる横山氏も「自分にとっても奮い立つ言葉」とやはり手元に置いている。  横山氏は選挙にも出馬した清水氏を「政治の中枢に近い方が仕事をしやすいと考えていたのだろう」と評す。

④派手な政治活動に対して、経営者としては手堅かった。  1961年に大阪府豊中市にライフ1号店を出店するが、同じ大阪発のダイエーやマイカルとは違い、スーパー以外の事業に目もくれなかった。  一時は不動産会社の秀和と組み、忠実屋、いなげや、長崎屋との4社合併をもくろんだが断念。  自力でライフを食品スーパー最大手に育てた。

⑤清水氏の真骨頂は後継者選びだ。  男の子供が不在だったこともあり、時間をかけて脱・創業経営を模索。  92年に三菱商事と提携したのは後継者探しにあった。  厳しい人物チェックの末、お眼鏡にかなったのが現在の岩崎高治社長だ。

⑥三菱商事から出向し、スーパーの仕事を楽しんでいる岩崎氏に「あんたは私利私欲がない」と伝え、2006年に社長を任せる。  会長になってからの清水氏は経営に口を出すことはほとんどなかった。  岩崎氏も「好きにやれ。  この会社がどうなろうとも自由に、と言われた」と明かす。  会社は消費者と次世代の公共物と言わんばかりに潔く身を引いた清水氏。  「人生の降り方」は見事だった。』

「優秀」とか「営業力がある」ではなく、「スーパーの仕事を楽しんでいる」・「私利私欲がない」という観点から後継者を選んだことに感銘を受けました。




TOP↑

山縣亮太選手

1.昨年12月17日のブログで、男子100メートルの日本記録(9秒95)を持つ山縣亮太選手のインタビュー記事を紹介しました。  その後に次のように書きました。

『以前、NHKで山縣選手のドキュメンタリー番組を見たことがあります。  未熟児で生まれ、インキュベーターの中に入っている山縣選手の映像が妙に印象的でした。』

2.昨年12月25日の朝日新聞に山縣選手の体験談が掲載されました。  番号を付けて紹介します。

『①小学生のとき、両親から生まれた頃の話を聞きました。  予定日より2カ月早く1730グラムで生まれ、すぐに新生児集中治療室に入ったこと。  医師に「何かしら障害が残るかもしれない」と言われたこと。  小さい頃は病弱だったそうです。

②そういう話を聞いても、「へえ、大変だったんだ」ぐらいにしか思いませんでした。  外で遊ぶのが大好きで、元気でしたから。

③小学生の頃は、背丈の順に並ぶと前から3番目から5番目ぐらい。  ただ、小さく生まれたから背が低いと思ったことも、体が弱いと思ったこともありません。  生まれたときのことについて、父は詳しい話をしたがらなかった気がします。  心配させないように、という親心だったのかもしれません。

④陸上選手になるきっかけをつくってくれたのも父です。  小学生のときに大会に出て陸上クラブからスカウトされたのですが、僕は乗り気じゃなかった。  でも父が練習に参加できるように計らってくれ、やってみると友達もできて楽しかったんです。

⑤小さく生まれたことが、体にどういう影響を及ぼしたのかはわかりません。  ただ、なにかしらのハンディキャップを背負って生まれてきたらしい状況にありながらも、その後は目標を持ってやってきましたし、「よくやっているな」と思います。

⑥意識して前向きにというよりは自然とそうなっただけですが、競技に打ち込んでここまできました。  あまり気にしない性格でよかったなと思います。  「才能がないかも」とか「小さく生まれたから」とか、ネガティブな方向に気持ちが引っ張られていたら、どこかで挫折していたかもしれないですから。

⑦僕のハンディキャップになるかもしれない部分を受け止めて、両親が大事に育ててくれたことが、いまの自分の根っこにあります。    その後の人生や選手生活で、前向きでいられるきっかけの一つなのかもしれません。』

ご両親の温かく前向きな育て方が、今の山縣選手を生んだのですね。

TOP↑

| PAGE-SELECT | NEXT