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自然の神秘を信じる心

(1)昨年12月9日のブログで『ランニング王国を生きる』(マイケル・クローリー著 青土社)を紹介しました。  1月27日の日経新聞の『ランナーのホンネ』という特集で、鹿島アントラーズ地域連携チームマネージャーの吉田誠一さんが同書を取り上げていました。  タイトルは「エチオピアに学ぶ  自然の神秘を信じる心」です。  全文を、番号を付けて紹介します。

『1.①エチオピアのランナーは週に1度しか舗装路を走らないのだという。  世界のトップクラスの選手も同様らしい。

②エチオピアのランナーは隊列を組み、標高3000メートルにもなる高地の森の斜面を上る。  真っすぐではなく、ジグザグに右へ左へと曲がりながら上り下りするのだという。

③そんなエチオピアの「常識」を教えてくれたのは、スコットランドの人類学者、マイケル・クローリーの著書「ランニング王国を生きる  文化人類学者がエチオピアで走りながら考えたこと」だ。  同書には、マラソンを2時間20分で走る著者が1年3カ月の間、ともに走った王国のランナーたちから授かったものが詰まっている。

④走ることに加え、新型コロナウイルス禍で山を登るようになり、トレイルランニングも始めた私は、きつい斜面を上り、でこぼこの悪路を駆け、多様な路面や勾配から力を得るエチオピアのランナーたちについていきたくなった。

⑤私はすぐに影響を受ける。  普段から田んぼの間を縫うような農道を走っているが、そこはアスファルトで舗装されている。  エチオピアの真実を知ってしまった私は、あえて舗装路を外れ、枯れ草がぼさぼさと生えていたり、砂利が混じっていたりする平らではない未舗装道を走り始めた。  雪解けで緩くなった路面でズルっと滑り、泥だらけになりもした。  もちろん登山道も走る。

⑥めったに舗装路を走らないというのには驚くが、エチオピアの常識には理屈がある。  未舗装路はタフで、高速で走るのが難しく、脚を強くする。  それでいて、硬い舗装路より脚に優しい。  故障のリスクが低いだろう。

⑦坂をジグザグに上っていくのはなぜなのか。  まっすぐ上ると同じ動作をずっと続けることになり、筋肉の特定の箇所に負担が掛かる。  だから曲がりくねって走るらしい。  均一であるもの、均一であることを彼らは避ける。  様々な路面、斜度、高度を求めて練習の場を日々、変える。  

⑧彼らは「ランニングの練習」を「レメメド」という言葉で表すそうだが、それは「適応」や「何かに慣れる」という意味だという。  「ランナーが能力を高められるかどうかは、この適応のプロセスをうまく管理できるか否かの問題だと考えられている」

⑨隊列から外れたり、遅れたりすると、無理やり引き戻される。  「置いていかれることに慣れてはいけない。  それも、一種の練習への適応になってしまうからだ」。  練習で遅れることに慣れると、大会でも遅れる。  耳の痛い言葉である。

⑩エチオピアのランナーはひたすら、前にいるランナーの足を追い掛ける。  先行者が速度を上げたら、追随する。  こうした精神面の効能についても、彼らが実践していることは理にかなっている。


2.①しかし、実は私は本書にちりばめられた理屈では説明し切れない部分に引き付けられた。

②エチオピアのランナーたちは重ねて本気で、こう話すのだという。  「この山には神秘的な力がある」  「高地の森の中を走れば木々からエネルギーをもらえる」  「ここは魔術師が、他のランナーが持つようなパワーを得るための手助けをしてくれる」

③そこに漂う神聖で、特別な、ただならぬ空気が世界的なランナーを育ててきた。  彼らはそう信じる。  信じることが彼らを強くする。

④そうした観念で走り続けるほうが、理屈をもとに走るより心が躍るではないか。  そこにある神聖なる「空気」を想像すると、ぞくぞくとしてくる。』


(2)上記2.を読んで、海や山などの自然の中でトレーニングしていた格闘家ヒクソン・グレーシーを思い出しました。

以下はネットで検索したヒクソン選手のインタビュー(1994年6月13日)からの抜粋です。

『技術的なことは道場でやるけど、メンタル(=精神)トレーニングは、海岸か山でする。   何て言ったらいいのかわからないけれど、呼吸の仕方、ストレッチ、体のバランス、柔軟、パワー、 スピード。  そういったもののコーディネーション(=一致→協調)を考えているんだ。  (中略)

とにかく静かで、空気のキレイな所に行きたい。   俺が日本に行ったら、俺のために山小屋を用意してくれ。  リング?  いらないよ。  土の上に草を敷いて、そこで練習するから。  ちょっとした空間があれば、そこで練習できるよ。   (中略)

静かな所という意味は、人のいない所という意味さ。  試合の 1週間前になったら、もう技術的な練習は必要じゃなくなるから。  メディテーションとか、精神を集中させることこそ、必要になってくる。』


(3)上記1.⑧⑨も重要です。

「練習で遅れることに慣れると、大会でも遅れる。」とありますが、「スタミナ練習で(自分の限界まで)出し切らないことに慣れると、大会でも出し切れない。」とも言えますね。 








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道教思想10講

1976年から、朝の立禅を日課にしています。  昨年は『武道気功 私の「立禅」修行』(道義出版)という本を出しました。  立禅の根本思想には道教があり、「第11章 道教と練丹法」で解説しています。

今回取り上げるのは『道教思想10講』(神塚淑子著 岩波新書)です。  抜粋し、番号を付けて紹介します。

『1.道教は、老子の思想を根本とし、その上に不老長生を求める神仙術や教団道教で用いられた符籙(ふろく・・・おふだを用いた呪術)や斎醮(さいしょう・・・亡魂を救済したり災厄を除去するために行う祭祀儀礼)、あるいは、仏教の影響を受けて作られていった経典や儀礼など、さまざまの要素が時代の推移とともに、多層的に積み重なってできている。

2.(不老長生を求める)養生術においては、「気」が大きな役割を持つ。  『老子』第10章に、「気を専らにし柔を致して、能く嬰児たらんか」とあるのは、純粋な「気」を専一に保ち、この上なき柔軟さを持ち続けることによって、嬰児(えいじ・・・生まれたばかりの赤ん坊)のような生命力を維持できることを述べている。  「気」を養うにあたっては、「行気(こうき・・・気を体内にめぐらす)」の重要性が着目されている。

3.①「内丹」は瞑想法などを通じて、自分の体内の気を精錬することによって、身体内部に還丹金液(金丹)を作り出そうとするものである。  (中略)

②内丹法に見られる思想として注目すべきものに、内丹の修練は人体の形成を逆行する過程であるという考え方がある。  修行を進めると、「精→気→神→虚(道)」の順で人体の生成を遡り、神仙に近づくという説である。  元(1271~1368)の李道純が著した『中和集』では、修行過程を「1.錬精化気(精を錬り気に化す)」 「2.錬気化神(気を錬り神に化す)」 「3.錬神還虚(神を錬り虚に還る)」の三段階に分けている。

4.①古代日本において、道教を儒教・仏教と並べて「三教」と呼び、三者を比較しつつ、それぞれの思想の要点についてはじめて本格的に論述したのは、空海(774~835)の『三教指帰(さんごうしいき)』である。  (中略)

②(薬草・符・呪禁・呼吸法・錬丹などの)仙術を修めることによって、身体が若返って長生きし、時空を超えて思いのままに天翔ることができるようになり、「淡白にして欲無く、寂寞として声無く、天地とともに以って長く存し、日月とともにして久しく楽しむ」というように、根源の「道」と一体化して、精神の自由を得ることができると述べる。  (中略)

③空海は道教というものを、『老子』の恬淡無欲にして「道」と一体化するという思想と、晋(265~420)の葛洪が著した『抱朴子』に見える神仙思想とを合わせたような形で捉えていたことがうかがわれる。』

内容的にはちょっとマニアックですが、前述の『武道気功』を補足する意味と、私自身の備忘録として紹介しました。

興味ある方は、『武道気功』と併せて読むとわかりやすいと思います。

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村上春樹さん

先週紹介した村上春樹さんの『職業としての小説家』の中に不思議な逸話がいくつか書かれていたので抜粋し、番号を付けて紹介します。

『1.国分寺でジャズ喫茶を経営していたころの話

①銀行に月々返済するお金がどうしても工面できなくて、夫婦でうつむきながら深夜の道を歩いていて、くちゃくちゃになったむき出しのお金を拾ったことがあります。  シンクロニシティーと言えばいいのか、何かの導きと言えばいいのか、不思議なことにきっちり必要としているお金でした。

②その翌日までに入金しないと不渡りを出すことになっていたので、まったく命拾いをしたようなものです(僕の人生にはなぜかときどきこういう不思議なことが起こります)。  本当は警察に届けなくてはいけなかったんだけど、そのときはきれいごとを言っているような余裕はとてもありませんでした。


2.小説を書こうと思ったときの話(国分寺の店が立ち退きを迫られ、千駄ヶ谷に店を移した後)

①1978年4月のよく晴れた日の午後に、僕は神宮球場に野球を見に行きました。  午後1時から始まるデー・ゲームです。  僕は当時からヤクルトファンで、神宮球場から近いところに住んでいたので、よく散歩がてらふらりと試合を見に行っていました。  (中略)

②1回の裏、広島の先発ピッチャーが第1球を投げると、(先頭打者)ヒルトンはそれをレフトにきれいにはじき返し、二塁打にしました。  バットがボールに当たる小気味の良い音が、神宮球場に響き渡りました。  ぱらぱらというまばらな拍手がまわりから起こりました。  僕はそのときに、何の脈絡もなく何の根拠もなく、ふとこう思ったのです。  「そうだ、僕にも小説が書けるかもしれない」と。

③そのときの感覚を、僕はまだはっきり覚えています。  それは空から何かがひらひらとゆっくり落ちてきて、それを両手でうまく受け止められたような気分でした。


3.「群像」の新人賞を取ったときの話

①「群像」の編集者から「村上さんの応募された小説が、新人賞の最終選考に残りました」という電話がかかってきたのは、春の日曜日の朝のことです。  神宮球場の開幕戦から1年近くが経ち、僕はすでに30歳の誕生日を迎えていました。  (中略)  

②その編集者の話によれば、僕のものも含めて全部で5篇の作品が最終選考に残ったということです。  「へえ」と思いました。  でも眠かったこともあって、あまり実感は湧かなかった。  僕は布団を出て顔を洗い、着替えて、妻と一緒に外に散歩に出ました。  

③明治通りの千駄ヶ谷小学校のそばを歩いていると、茂みの陰に1羽の伝書鳩が座り込んでいるのが見えました。  拾い上げてみると、どうやら翼に怪我をしているようです。  僕はその鳩を両手にそっと持ち、表参道の同潤会アパートメントの隣にある交番まで持って行きました。  そのあいだ傷ついた鳩は、僕の手の中で温かく、小さく震えていました。

④そのときに僕ははっと思ったのです。  僕は間違いなく「群像」の新人賞をとるだろうと。  そしてそのまま小説家になって、ある程度の成功を収めるだろうと。  すごく厚かましいみたいですが、僕はなぜかそう確信しました。  とてもありありと。  それは論理的というよりは、ほとんど直観に近いものでした。』

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