2022.01.30 Sun
自然の神秘を信じる心
(1)昨年12月9日のブログで『ランニング王国を生きる』(マイケル・クローリー著 青土社)を紹介しました。 1月27日の日経新聞の『ランナーのホンネ』という特集で、鹿島アントラーズ地域連携チームマネージャーの吉田誠一さんが同書を取り上げていました。 タイトルは「エチオピアに学ぶ 自然の神秘を信じる心」です。 全文を、番号を付けて紹介します。
『1.①エチオピアのランナーは週に1度しか舗装路を走らないのだという。 世界のトップクラスの選手も同様らしい。
②エチオピアのランナーは隊列を組み、標高3000メートルにもなる高地の森の斜面を上る。 真っすぐではなく、ジグザグに右へ左へと曲がりながら上り下りするのだという。
③そんなエチオピアの「常識」を教えてくれたのは、スコットランドの人類学者、マイケル・クローリーの著書「ランニング王国を生きる 文化人類学者がエチオピアで走りながら考えたこと」だ。 同書には、マラソンを2時間20分で走る著者が1年3カ月の間、ともに走った王国のランナーたちから授かったものが詰まっている。
④走ることに加え、新型コロナウイルス禍で山を登るようになり、トレイルランニングも始めた私は、きつい斜面を上り、でこぼこの悪路を駆け、多様な路面や勾配から力を得るエチオピアのランナーたちについていきたくなった。
⑤私はすぐに影響を受ける。 普段から田んぼの間を縫うような農道を走っているが、そこはアスファルトで舗装されている。 エチオピアの真実を知ってしまった私は、あえて舗装路を外れ、枯れ草がぼさぼさと生えていたり、砂利が混じっていたりする平らではない未舗装道を走り始めた。 雪解けで緩くなった路面でズルっと滑り、泥だらけになりもした。 もちろん登山道も走る。
⑥めったに舗装路を走らないというのには驚くが、エチオピアの常識には理屈がある。 未舗装路はタフで、高速で走るのが難しく、脚を強くする。 それでいて、硬い舗装路より脚に優しい。 故障のリスクが低いだろう。
⑦坂をジグザグに上っていくのはなぜなのか。 まっすぐ上ると同じ動作をずっと続けることになり、筋肉の特定の箇所に負担が掛かる。 だから曲がりくねって走るらしい。 均一であるもの、均一であることを彼らは避ける。 様々な路面、斜度、高度を求めて練習の場を日々、変える。
⑧彼らは「ランニングの練習」を「レメメド」という言葉で表すそうだが、それは「適応」や「何かに慣れる」という意味だという。 「ランナーが能力を高められるかどうかは、この適応のプロセスをうまく管理できるか否かの問題だと考えられている」
⑨隊列から外れたり、遅れたりすると、無理やり引き戻される。 「置いていかれることに慣れてはいけない。 それも、一種の練習への適応になってしまうからだ」。 練習で遅れることに慣れると、大会でも遅れる。 耳の痛い言葉である。
⑩エチオピアのランナーはひたすら、前にいるランナーの足を追い掛ける。 先行者が速度を上げたら、追随する。 こうした精神面の効能についても、彼らが実践していることは理にかなっている。
2.①しかし、実は私は本書にちりばめられた理屈では説明し切れない部分に引き付けられた。
②エチオピアのランナーたちは重ねて本気で、こう話すのだという。 「この山には神秘的な力がある」 「高地の森の中を走れば木々からエネルギーをもらえる」 「ここは魔術師が、他のランナーが持つようなパワーを得るための手助けをしてくれる」
③そこに漂う神聖で、特別な、ただならぬ空気が世界的なランナーを育ててきた。 彼らはそう信じる。 信じることが彼らを強くする。
④そうした観念で走り続けるほうが、理屈をもとに走るより心が躍るではないか。 そこにある神聖なる「空気」を想像すると、ぞくぞくとしてくる。』
(2)上記2.を読んで、海や山などの自然の中でトレーニングしていた格闘家ヒクソン・グレーシーを思い出しました。
以下はネットで検索したヒクソン選手のインタビュー(1994年6月13日)からの抜粋です。
『技術的なことは道場でやるけど、メンタル(=精神)トレーニングは、海岸か山でする。 何て言ったらいいのかわからないけれど、呼吸の仕方、ストレッチ、体のバランス、柔軟、パワー、 スピード。 そういったもののコーディネーション(=一致→協調)を考えているんだ。 (中略)
とにかく静かで、空気のキレイな所に行きたい。 俺が日本に行ったら、俺のために山小屋を用意してくれ。 リング? いらないよ。 土の上に草を敷いて、そこで練習するから。 ちょっとした空間があれば、そこで練習できるよ。 (中略)
静かな所という意味は、人のいない所という意味さ。 試合の 1週間前になったら、もう技術的な練習は必要じゃなくなるから。 メディテーションとか、精神を集中させることこそ、必要になってくる。』
(3)上記1.⑧⑨も重要です。
「練習で遅れることに慣れると、大会でも遅れる。」とありますが、「スタミナ練習で(自分の限界まで)出し切らないことに慣れると、大会でも出し切れない。」とも言えますね。
『1.①エチオピアのランナーは週に1度しか舗装路を走らないのだという。 世界のトップクラスの選手も同様らしい。
②エチオピアのランナーは隊列を組み、標高3000メートルにもなる高地の森の斜面を上る。 真っすぐではなく、ジグザグに右へ左へと曲がりながら上り下りするのだという。
③そんなエチオピアの「常識」を教えてくれたのは、スコットランドの人類学者、マイケル・クローリーの著書「ランニング王国を生きる 文化人類学者がエチオピアで走りながら考えたこと」だ。 同書には、マラソンを2時間20分で走る著者が1年3カ月の間、ともに走った王国のランナーたちから授かったものが詰まっている。
④走ることに加え、新型コロナウイルス禍で山を登るようになり、トレイルランニングも始めた私は、きつい斜面を上り、でこぼこの悪路を駆け、多様な路面や勾配から力を得るエチオピアのランナーたちについていきたくなった。
⑤私はすぐに影響を受ける。 普段から田んぼの間を縫うような農道を走っているが、そこはアスファルトで舗装されている。 エチオピアの真実を知ってしまった私は、あえて舗装路を外れ、枯れ草がぼさぼさと生えていたり、砂利が混じっていたりする平らではない未舗装道を走り始めた。 雪解けで緩くなった路面でズルっと滑り、泥だらけになりもした。 もちろん登山道も走る。
⑥めったに舗装路を走らないというのには驚くが、エチオピアの常識には理屈がある。 未舗装路はタフで、高速で走るのが難しく、脚を強くする。 それでいて、硬い舗装路より脚に優しい。 故障のリスクが低いだろう。
⑦坂をジグザグに上っていくのはなぜなのか。 まっすぐ上ると同じ動作をずっと続けることになり、筋肉の特定の箇所に負担が掛かる。 だから曲がりくねって走るらしい。 均一であるもの、均一であることを彼らは避ける。 様々な路面、斜度、高度を求めて練習の場を日々、変える。
⑧彼らは「ランニングの練習」を「レメメド」という言葉で表すそうだが、それは「適応」や「何かに慣れる」という意味だという。 「ランナーが能力を高められるかどうかは、この適応のプロセスをうまく管理できるか否かの問題だと考えられている」
⑨隊列から外れたり、遅れたりすると、無理やり引き戻される。 「置いていかれることに慣れてはいけない。 それも、一種の練習への適応になってしまうからだ」。 練習で遅れることに慣れると、大会でも遅れる。 耳の痛い言葉である。
⑩エチオピアのランナーはひたすら、前にいるランナーの足を追い掛ける。 先行者が速度を上げたら、追随する。 こうした精神面の効能についても、彼らが実践していることは理にかなっている。
2.①しかし、実は私は本書にちりばめられた理屈では説明し切れない部分に引き付けられた。
②エチオピアのランナーたちは重ねて本気で、こう話すのだという。 「この山には神秘的な力がある」 「高地の森の中を走れば木々からエネルギーをもらえる」 「ここは魔術師が、他のランナーが持つようなパワーを得るための手助けをしてくれる」
③そこに漂う神聖で、特別な、ただならぬ空気が世界的なランナーを育ててきた。 彼らはそう信じる。 信じることが彼らを強くする。
④そうした観念で走り続けるほうが、理屈をもとに走るより心が躍るではないか。 そこにある神聖なる「空気」を想像すると、ぞくぞくとしてくる。』
(2)上記2.を読んで、海や山などの自然の中でトレーニングしていた格闘家ヒクソン・グレーシーを思い出しました。
以下はネットで検索したヒクソン選手のインタビュー(1994年6月13日)からの抜粋です。
『技術的なことは道場でやるけど、メンタル(=精神)トレーニングは、海岸か山でする。 何て言ったらいいのかわからないけれど、呼吸の仕方、ストレッチ、体のバランス、柔軟、パワー、 スピード。 そういったもののコーディネーション(=一致→協調)を考えているんだ。 (中略)
とにかく静かで、空気のキレイな所に行きたい。 俺が日本に行ったら、俺のために山小屋を用意してくれ。 リング? いらないよ。 土の上に草を敷いて、そこで練習するから。 ちょっとした空間があれば、そこで練習できるよ。 (中略)
静かな所という意味は、人のいない所という意味さ。 試合の 1週間前になったら、もう技術的な練習は必要じゃなくなるから。 メディテーションとか、精神を集中させることこそ、必要になってくる。』
(3)上記1.⑧⑨も重要です。
「練習で遅れることに慣れると、大会でも遅れる。」とありますが、「スタミナ練習で(自分の限界まで)出し切らないことに慣れると、大会でも出し切れない。」とも言えますね。