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チャーチルの読書

2月1日のブログで紹介した『知の旅は終わらない』(立花隆著 文春新書)の副題は、「僕が3万冊を読み100冊を書いて考えてきたこと」でした。

第二次世界大戦時のイギリス首相、ウィンストン・チャーチルも43冊(72巻)の著書があり、回顧録『第二次世界大戦』では1953年のノーベル文学賞を受賞しています。  ちなみに、この年の文学賞有力候補はアーネスト・ヘミングウェイ(1954年受賞)だったそうです。

チャーチルの読書について、先日読んだ『危機の指導者 チャーチル』(冨田浩司著 新潮選書)に記述があったので、抜粋し、番号を付けて紹介します。

『①(前略)  さらに留意すべきは、チャーチルが政治家修行のために払った意識的な努力で、この面で特筆されるのが、膨大な読書を通じた自己教育である。

②もともと(21歳からの)バンガロール駐屯地での生活は、午前中に多少の訓練を行った後は、昼寝かポロをして過ごすといった、怠惰なものであった。

③当時、チャーチルは自分の教養が不十分なものであることを意識し、大学に進学することも考えたようであるが、(陸軍士官学校進学前のパブリック・スクール)ハロー校時代にあれほど苦労したラテン語と再格闘するすることに気が進まず、断念する。  そのかわりにに選んだ選択肢が自己教育である。

④彼が最初に手を染めたのは、ギボン、マコーリによる歴史書であり、母親のジェニーを通じロンドンから送らせた原典を毎日数十ページのペースで読み進める。

⑤ギボンの『ローマ帝国衰亡史』全八巻、マコーリの歴史書、論文集全十二巻を読破すると、幅広い題材の書物に転じる。  アダム・スミスの『国富論』、チャ-ルズ・ダーウィンの『種の起源』、プラトンの『共和国』などである。』

2013年6月、視察で南インドのバンガロールとコインバトールに行きました。  チャーチルが着任したのは、1896年9月ですから100年以上前のことですね。  

現在のバンガロールは、インドが誇るIT産業の中心地となっています。

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森繁久彌さん

『森繁久彌コレクション 1⃣自伝』(藤原書店)を読みました。

昭和を代表する国民的俳優・森繁久彌さんは1939年26歳の時、NHKアナウンサーとなって旧満州国の新京(現在の長春)中央放送局へ赴任し、第二次世界大戦終了(1945年)後の1946年まで7年間勤務しました。

本書中「Ⅲ満洲」の「収容所でひと働き」の項から抜粋し、番号を付けて紹介します。

『①戦争が終わってみんなが引き揚げるとき、私たち家族はオンボロのかっこうで、重いリュックを背負って無蓋貨車(上に覆いのない貨車)に乗り込み、営口を回って錦州に入った。

②その錦州で私は引き揚げの集団から離れた。  私が心から愛した満洲だ。  その満州でひとの何倍も働き、ここの土になりたいと思っていた私だ。  何をいそいで帰る必要があるのか。  満洲から引き揚げる日本人全部を送った後で、帰れるものなら帰ればよいのだ。  いや、この国がなくなってもおれはここに残りたい。

③そう思っていた私は家内にそのことを言うと、彼女も賛成してくれ、母も「あなたが残るなら、私も残りましょう」と言ってくれた。  そこでわたしたち家族と友達二人は引き揚げ集団から離れてここに残ることとなった。  みんなは帰りたい、帰りたいというけれども、私は帰りたくなかった。

④私たちは錦州の収容所から職員の宿舎に移った。  言ってみれば、引き揚げのみなさんのお世話をする仕事にたずさわることになったのである。  そこで与えられた一軒の家は四畳半一間ではあったが、それでもみんなでいっしょに眠ることができるのはうれしかった。

⑤またわれわれは特別な腕章をもらって鉄条網の外に出ることもできた。  街に出られるのは私たち腕章をつけた職員だけで、外へ出ていろいろな物を買うこともできた。  そのうち私は街の人たちと仲良くなった。

⑥私が息子二人を連れて外出すると、中国人から声をかけられる。  「この小輩、かわいいから、売れ」  私が冗談に、「いくらだ」と言うと、「二千円でどうか」  「そんな安い値段では売れない」  

⑦すると、三千円、四千円と値があがるので、あわてて私は、「私の子供だから、売買はできない」と言って断ったが、みな私たちに好感をもっていてくれたことは確かだった。  (中略)

⑧こうして、四十何万人の引き揚げ者たちを、私は見送った。  引き揚げの話は、五十年たった今でも語り難いものがある。』

本書には、このブログでは紹介しにくい悲惨な状況も書かれています。  

森繁さんは1913年生まれですから、私より40歳年長です。  本書を読むと、戦争のない時代を生きてきたことが、いかに幸せであったかが実感できました。  

また、日常生活における悩みも、戦時中の人たちの悩みに比べると、とても小さなものに思えてきます。  命を奪われることはないのですから。

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危険の直感

『天災から日本史を読みなおす』(磯田道史著 中公新書)を読みました。  

東日本大震災(2011年3月11日14時46分)時の岩手県大船渡小学校・柏崎正明校長に磯田さんが直接取材した内容が書かれた「危険の直感こそが生存への道標」から抜粋し、番号を付けて紹介します。  

柏崎前校長は約10メートルの大津波に襲われた小学校で在校児童265人全員の命を守り抜いた人です。

『①大船渡小学校はちょっとした高台にある。  地域住民の避難所に指定されており、その場にいた全校児童265人と教職員21人の命を預かる柏崎校長は、ひとまずマニュアル通りに、校庭に全員を避難させたという。  (中略)

②校長たちは15時20分に異変を感じた。  「避難していた校庭から海手の方を見ると、バキバキと音を立て、土煙を上げながら家の屋根が移動しているのが見えた」(柏崎校長の震災時のメモより)

③ここが運命の分かれ目であった。  危険に直面した時、人間の直感は案外に正しい。  危機の時、何より正しい教科書は、マニュアルや想定より、目の前にある現実だ。  そこが避難所に指定されているからといって、安全という保障は何もない。  「ここにいては危ない」。  そう直感した柏崎校長は決断を下した。

④校庭を放棄し、もっと高い大船渡中学校へ逃げる指示を出したのである。  本当に、これがよかった。  また、柏崎校長はじめ教職員は児童を迎えにきた保護者や体育館に避難してきた30人ばかりの地域の人にも「ここは危ない。  高台に逃げて下さい」と呼びかけたと校長はメモに記している。

⑤ところが津波はもうそこまで迫っていた。  大船渡小の教職員は、またここで、後日、保護者に感謝される行動をとった。  迫る津波に、校門から非難する余裕はないとみて、山手のフェンスから避難させた。  (中略)

⑥大船渡小の校門は標高7メートルしかないが、学校裏手は斜面になり、はい上がれば標高12メートルとなるうえ、高さ1メートルほどのフェンスが立ちふさがっている。  津波の時には、どんなに不格好でも道なき道でも一番はやく高いところに登れる場所に向かってまっしぐらに逃げるのがよさそうである。

⑦背後から津波が迫るなか「フェンスを登れない一年生児童を教職員が引き上げた」(柏崎メモ)。  大船渡小を襲った津波は標高10メートル付近まで侵した。  児童全員を校門から整然と行進させていれば、危なかった。  (中略)

⑧危険察知本能があっても人間はなかなか平時と違う行動がとれるものではない。  とくに公務員や教員は臨機応変して日々利益を追うビジネスマンと違い、規則にのっとる行動をとりやすく、集団の指揮を任されると、平時の公平と穏当を前提にした常識にとらわれやすい。  心すべきことである。

⑨災害は過去の例をこえることもある。  災害時にはマニュアル・被害想定・避難所の安全を過信してはならない。  眼前の現実こそが教科書となり、危険の直感こそが生存への道標(みちしるべ)となる。  避難に躊躇(ちゅうちょ)は禁物。

⑩大船渡小の全校児童268人全員の無事が確認された時のことを柏崎校長はメモにこう書く。  「教職員から拍手が起こり、涙がこみ上げてくる」。  

⑪教職員21人中9人は自宅が浸水。  帰宅せず、児童を守っていた。  災害への最後の砦(とりで)は温かい心と責任感かもしれない。』

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