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国家と教養

『国家と教養』(藤原正彦著 新潮新書)を読みました。   

1.第6章「国家と教養」の序文および「西洋崇拝の教養と決別する」の項からから抜粋し、番号を付けて紹介します。

『①18世紀後半には、英仏に後れをとっていたドイツに、「古典に精神を学び、人格の陶冶を図る」という教養主義が生まれました。  (中略)  これを見ていた我が国は、明治維新より軍隊、憲法、高等教育などでドイツを手本とした国造りをしました。  (中略)  

②そしてこれら人文的教養に身を包んだ教養層が、20世紀になって、ドイツでも日本でも、第一次大戦、第二次大戦という歴史的愚行に際し、ほとんど抑止力とならなかったことを見ました。  (中略)

③両大戦を経て世界のスーパーパワーに躍り出たアメリカが、教養とは対局にある功利主義の国であったことや、科学技術の驚異的発展などが人文的教養のさらなる地位低下に連なったことも見てきました。

④しかしながら一方で、諸現象の真髄を見抜くために、知識や情緒に根差した物差しは欠かせません。  とりわけ、ますます広範に渡り深化する情報社会を生き抜くためには、この物差しの必要性はかってより増していると言えます。  (中略)

⑤これからの教養とは一体何でしょうか。  それは従来の教養のごとく、少数のエリートにより独占されるものではありません。  独裁政権や軍事政権の下では、瞬く間に排除あるいは抑圧されてしまうからです。  我が国に強く見られた、西洋崇拝に基づいた教養のひ弱さも第5章で見ました。  (中略)

⑥これからの教養は書斎型の知識ではなく、生を吹き込まれた知識、情緒や形と一体となった知識です。

⑦まず情緒ですが、ほぼ先天的に備わっている喜怒哀楽ではありません。  それなら獣にもあります。  より高次元とも言える、後天的に得られるもの、すなわちその人が生れ落ちてからこれまでにどんな経験をしてきたか、によって培われる心です。

⑧どんな親に育てられたか、どんな友達や先生と出会ってきたか、どんな美しいものを見たり読んだりして感動してきたか、どんな恋や失恋や片思いをしてきたか、どんな悲しい別れに出会ってきたか・・・・・・などにより形成されるものです。

⑨また形とは、日本人としての形、すなわち弱者に対する涙、卑怯を憎む心、正義感、勇気、忍耐、誠実、などです。  論理的とは言えないものの価値基準となりうる、獣ではない人間のあり方です。  (中略)

⑩一人前の人間として「大切な教養については、人により言い方が異なります。  東京女学館女子中学校の校長をしていた四竈経夫先生は「私が生徒にどうしても伝えたいのは三つのこと、読書と登山と古典音楽の愉しさです」と私に語りました。

⑪ある会社の社長は「人間にとって最も大切なのは、人と付き合い、本を読み、旅をすることだ」と言いました。

⑫手塚治虫はこう言いました。  「君たち、漫画から漫画の勉強をするのをやめなさい。  一流の映画を見ろ、一流の音楽を聴け、一流の芝居を見ろ、一流の本を読め。  そしてそれから自分の世界を作れ」。  表現は様々ですが、大体、私と同じことを言っているように思います。』

2.同じ章の「論理の危うさ」の項からも抜粋し、番号を付けて紹介します。

『①人間は論理的に考えるだけでは、物事の本質に到達することは決してできません。  『国家の品格』で詳述しましたように、実生活において、論理などというものは吹けば飛ぶようなものです。

②人を殺してはいけない論理も、人を殺してよい論理も、少しでも頭のいい人ならいくらでも見つけることができます。

③状況や立場や視点によっていくらでも変わりうる、変幻自在な論理などに頼ることなく、一刀両断で真偽、善悪、美醜を判断できる座標軸がぜひとも必要な所以です。

④教養という座標軸のない論理は自己正当化に過ぎず、座標軸のない判断は根無し草のように頼りないものです。』

  

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信長の原理

『信長の原理』(垣根涼介著 角川書店)を読みました。  今年下半期の直木賞候補作にも選ばれています。  各武将の人物描写の細かさが秀逸です。

1.織田信長の人物描写から抜粋し、番号を付けて紹介します。

『①確かに信長は、個人として見れば欠点だらけの若者だ。  短気で、無礼で、時には暴力衝動を抑え切れず、失態を犯した小者を平気で手打ちにしたりもする。  重臣に対しても、人を人とも思わない。  頭ごなしに物を言うような傲岸な態度もしばしばとる。

②が、戦の前の軍議となると、これが同一人物かと疑うほどにその態度は一変する。  武官たちの間で相反する戦術について議論が百出しても、ほとんど口を挟まずに、最後まで我慢強く聞いている。  (中略)  話の全体の方向が、万一にも間違っているかも知れない自分の意見に引き摺られることを、恐れているからだ。

③おそらくは無意識だろうが、大将とはどうあるべきかを骨の髄まで分かっている。  粘り強く色々な可能性や方向性を考えられるだけ揃えたうえで、その中から慎重に判断を下す。

④一方で、大局的な戦略・・・その戦自体をやるのかやらないのか、やるとしたらいつ始めるのかなど・・・は、誰にも相談せず、自分の中で長い時間をかけてじっくりと検討する。  それは、大将が己の責任において一人で決断することだからだ。  (中略)  そんな弾正忠家(・・・織田信長の家系)としての方向性を衆議にはかろうものなら、たちまち敵対している他家に漏れ、戦う前から相手に防衛の準備をさせてしまう。

⑤だから、一人で思い悩むことになる。  孤独の中で常に武門の重みを背負うことに耐え続ける。  悩み、苛立ち、躊躇しながらも、流動的な状況の中で、いくつかの選択肢の中のどれが最善なのかを、常に考え抜くことが習慣化している。  (中略)  だから結果として信長は、いつも憂鬱かつ不機嫌そうな顔をぶら下げているのだ。

⑥その執拗さ、神経の太さ、耐性の強さ。  武門の棟梁としては必須であるこの三つの資質を、信長はすべて併せ持っている。』


2.信長の弟である織田信勝の人物描写から抜粋し、番号を付けて紹介します。

『①幼少の頃から兄より自分が上だと思い上がり、二度まで謀反を起こされかかっても、信長はまだ心底ではあの弟のことが嫌いにはなれない。  むしろ、哀れに思う。

②あいつはただ、神輿の上で踊らされていただけだ。  母親や家臣たちに囃し立てられ、その時の気分で動いていただけだ。  そもそも、このおれに対する本質的な悪意などないのだ。

③しかし、およそ人の上に立つ者の資質で、愚かで軽率なことは、悪意よりもはるかに始末が悪い。  救いようがない。  悪意は、ある意味で怜悧さの表れでもある。  そして場面によっては、あるいはそんな自分を悟りさえすれば、その後は態度や考え方を改めることが出来る。

④だが、愚かさや軽率さは直らない。  いくらその場で猛省しても、また似たような過ちをしでかす。  懲りないからだ。  いったい自分のどこに欠陥があるのかを自覚できる怜悧さがない。  挙句、一生同じ過ちを繰り返す。  結果として周囲に大いなる災禍をもたらす。

⑤そういう意味で、およそ人の上に立つ人間としては徹底して無能、と言える。  (中略)  人は改心することはあっても、性根の資質は直らない。  一生持ち越していく。』

明日は内部試合です。  平成最後の年末もあとわずかですね。

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日本海海戦の「丁字戦法」

1.8月7日のブログで「歴史を物語として学ぶ危険性」を取り上げました。  

朝日新聞夕刊の連載『大和とヤマトをたどって』の第4回(11月16日)・第5回(11月20日)は日露戦争・日本海海戦の「丁字戦法」について書かれています。

「丁字戦法」についてコトバンクで検索すると次のように出てきました。

『日本海海戦で用いられた旧日本海軍の砲戦戦法。  縦陣で進む敵艦隊の頭を味方艦隊が縦陣で横切りつつ敵艦隊を射撃する戦法。  味方が舷側砲火によって多くの火砲をもって敵の先頭に集中攻撃しうるのに対し,敵は少数の砲でしか射撃できない。  丁字を描くことから,こう呼ばれた。 』

2.連載記事から抜粋し、番号を付けて紹介します。

『①東郷平八郎は実在の軍人ながら「物語の主人公」になったと言える。

②東郷を巡る「物語」の中心は、1905年5月にあった「日本海海戦」だ。  連合艦隊司令長官の東郷は、敵艦隊の眼前で「大胆不敵な180度ターン」を指示。  名参謀秋山真之(さねゆき)が考案した、敵艦隊の一部に味方の集中砲火を浴びせられる艦隊運動「丁字戦法」を実行してロシア艦隊を壊滅させ、日本を救ったとされる。  作家・司馬遼太郎は「坂の上の雲」で、海戦序盤の東郷の指揮を「ほとんど無謬(むびゅう)」とまで絶賛した。

②だが、近年の研究で明らかになったのは、日本海海戦の東郷を巡る「物語」と、現実の戦闘との乖離(かいり)だ。

③長年、各国の海軍史を研究してきた中川務(86)は日本海海戦時の日本、ロシア両艦隊の動きを分析し「東郷ターンで展開された戦況は、丁字戦法の理論とかけ離れた別個のもの」と結論づけた。

④ターンの直後、日ロ両艦隊は、日本側が圧倒的に有利となる「丁字」ではなく、双方が同じ向きに航行しつつ全力で砲火を交える「並航戦」へと移行。  東郷の華麗な指揮で敵を翻弄(ほんろう)したのではなく「力任せの殴り合い」になったのだ。  日本が勝利したのは、大砲の性能や射撃の精度がロシアを上回ったからだった。

⑤東郷が危険を冒して敵前ターンを行ったのは「丁字戦法のためではなく、味方に犠牲を強いてでも敵の頭を抑え、逃亡を防ぐことが目的だった」と中川はみる。  (中略)

⑥こうした現実から浮かび上がる東郷像は「神がかった英雄」ではなく、「なりふり構わず勝利をつかもうとする、しぶといリアリスト」の顔だ。  なぜ「物語の東郷」は、現実の東郷からかけ離れてしまったのか。

⑦実は、東郷を巡る物語には「原作者」がいた。  「文才提督」と言われた海軍中将小笠原長生(ながなり)だ。  小笠原は東郷と極めて近く、東郷の発言を外部に伝える役割をほぼ独占していた。

⑧日本海海戦から約1カ月後の1905年6月30日。  朝日新聞に「日本海海戦談」が掲載された。  記事では「当日東郷大将の執られたる戦法が丁字戦法」とされた。  この記事のベースとなったのが、大本営の広報担当だった海軍中佐・小笠原長生が、前日に東京都内で行った講演だった。  多くの研究者は、この記事が「日本海海戦の勝因は丁字戦法だったという物語」が広がる出発点になったとみる。

⑨一方、小笠原が事実上の編集長を務めた海軍の公式戦史には、日本海海戦の実戦で「丁字戦法を使った」という記述はない。  小笠原が実際には丁字戦法が用いられなかったことを知りつつ、「一般向けの受け入れられやすい説明」として丁字戦法に言及したことがうかがえる。

⑩防衛大学校名誉教授の田中宏巳(75)によれば、小笠原は文才に恵まれ、日清・日露戦争の公式戦史編集で中心的役割を果たした。  (中略)  (小笠原が書いた)大衆向け日本海海戦記「撃滅」はミリオンセラーとなり、その「主人公」東郷は国民的英雄となった。

⑪「撃滅」には次の一節がある。  「我が東郷大将の活眼に至ってはほとんど神の如(ごと)く、一度かうとにらんだが最後、必ずそれが的中して事実の上に現れ来たるから恐ろしい」。  現実の東郷は、日本海海戦に先立つ黄海海戦では、判断ミスで敵を逃しそうになるなど「無謬(むびゅう)の人」ではなかった。  小笠原がそれを知りつつ自らの筆力で「東郷の物語化」を図ったのは疑いない。

⑫田中は「太平洋戦争に参加した大多数の将兵は、日露戦争の時のような日本の勝利を確信していた。  小笠原が形成した東郷像は、その確信の原点にあった」とみる。

⑬私が「宇宙戦艦ヤマト」の艦長沖田十三に憧れたように、小笠原の作った東郷像に憧れ、長じて実際に戦場に赴いた若者は数知れない。  (中略)  人間は事実の羅列だけでは動かない。  人を動機づけるには「強い情動を引き起こす物語」こそが必要なのだ。』

日本海海戦は、極真の大会でいえば本戦・一本勝ちではなく、再延長・判定勝ちに近かったのかも知れません。

10年以上前、神奈川県横須賀市の三笠公園に展示されている『三笠』を見ました。  現在は記念館になっており、中央展示室のパノラマ模型では連合艦隊とバルチック艦隊の動きが再現されています。

その時は、「これが『丁字戦法』か~!」と感激したのですが。

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