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ヒトラーの震え 毛沢東の摺り足

1999年に発行された『ヒトラーの震え 毛沢東の摺り足』(小長谷正明著 中公新書)を読みました。  「まえがき」から抜粋し、番号を付けて紹介します。

『①筆者は神経内科医である。  脳や脊髄、末梢神経、筋肉などのはたらきの異常を診るのが専門だ。  精神科ではない。  シビレなどの感覚障害、ふるえやマヒなどが主な症状だ。  だから、目にする人の立ち居ふるまいや、表情、声の調子などが気になる。

②そして、20世紀は科学技術の世紀であり、映像の世紀でもある。  会えるはずのない、海の向こうや歴史の彼方の政治家、それに雲の上の人の歩き方や動作をテレビや映画でみることができ、ついプロ意識で病気かどうかを診断することがある。

③いわば神経内科医の本能で、ヒトラーのふるえや毛沢東のすり足もブラウン管を通して視診した。  そこで、20世紀のリーダーたちの神経疾患を調べてみて、歴史に投げかけた影を考えてみた。

④20世紀は何かときな臭く、政治的に不安定で、大変動が多かった時代である。  2つの世界大戦や、ロシアや中国などでの革命と、それらにまつわる局地戦争や動乱、粛清がたえずあった。  

⑤そのつど、都市と文化は破壊され、兵士だけではなく、多くの普通の市民が命を落とした。  決して明るさと希望にみちていた世紀ではなかったようだ。  

⑥この100年間のきわめつけの大事件は第二次世界大戦と、ほぼ1世紀にわたる中国の大混乱、そして共産主義の実験国家、ソ連の盛衰である。

⑦これらの事件では、いずれも強烈なリーダーないし独裁者があらわれ、彼らのパーソナリティーが歴史の流れや人々の運命に大きく作用した。  彼らがどのように世界を考え、どうしたいと思い、また感情がどうゆれ動いたかで、人類の行く末が左右されたともいえる。  (中略)

⑧20世紀の大事件のリーダーたち、ヒトラー、レーニンとスターリン、毛沢東、さらにアメリカ大統領のウィルソンやフランクリン・ルーズヴェルトは、脳の器質的障害による神経疾患にかかり、この世から去っていった。  

⑨アメリカのカーター大統領の特別補佐官であったブレジンスキーが1993年に出したある計算では、20世紀に、人による命令あるいは決定によって殺された人の数は、1億6700万人にのぼるという。  この数字のかなりの部分に前にのべた人たちは直接、間接にかかわっていた。

⑩ある場合は、指導者たちの病気によって混乱はさらに深まり、より悲惨な将来をもたらすこともあったし、別のケースでは独裁者の死でもってマイナスの歴史をそこで断ち切ることができたこともあった。(中略)

⑩20世紀の独裁者、あるいは為政者の病気が、世界や人々におよぼす影響を考えることは、次の21世紀をより良い時代として迎えるために、意義があるにちがいない。』

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立花隆さん

1.前回のブログでは、『組織の不条理・・・日本軍の失敗に学ぶ』(菊澤研宗著 中公文庫)を取り上げました。  

今回も、同じ『日本軍の失敗』というテーマに関して、『立花隆 最後に語り伝えたいこと』(立花隆著 中央公論新社)を取り上げます。  

作家・評論家の保阪正康さんが、巻末の解説を書かれていました。  2009年に札幌で開かれたシンポジウムでの立花さんの講演内容に関する記述から抜粋し、番号を付けて紹介します。

『(1)彼は、①戦争はなぜ起こったのか、②どういうシミュレーションの元での判断だったのか、③彼我の戦力比をどう考えるか、という点にポイントを絞って論じた。 (中略)

(2)立花が問題にしたのは以下のようなことだった。

①軍事が行なうシミュレーションの折に、敵と味方が衝突したら、その勝敗についていくつかのパラメーター(変数、測定値)にいろいろ数字を入れていく。

②客観的な数字を入れるだけでは、日本に勝ち目はない。

③ところがもっとも楽観的な数字を入れると、それでも敗北と出るが、しかし僅差で敗れるとなる。

④そこで軍事指導者たちは、日本には精神力という数値化できないプラスがある、といったような判断をする。  

⑤そして戦争に入っていったということになる。

(3)立花の講演はこのことが本題ではなかったので、このからくりが日本人の欠陥であるというような例のひとつに挙げたに過ぎなかった。  (中略)

(4)私は日本の軍事指導者の最大の欠点は、「主観的願望を客観的事実にすり替える」という点にあると考えてきた。  そういう例にまさに符節すると思った。

(5)立花のこういう指摘は、実は無意識のうちに「ある立場(日本的指導者というべき)」に立つ人の思考方法そのものだとも気がついたのである。』


2.本書の第二部では「世界はどこへ行くのか」というタイトルでノーベル賞作家の大江健三郎さんと対談しています。  その中で立花さんが環境破壊について語っている部分から抜粋し、番号を付けて紹介します。

『①これまでの地球の生命史を考えて、こんな大きな哺乳動物で、地球に50億もいる生物なんてどこにもいないですよ。  これは生命の歴史の上で全く不可能だったことを可能にした種で、どうやって可能にしたかというと、結局、食い物を何とか獲得したんですね。

②食い物を獲得するために、畑や田んぼをどんどんつくったわけです。  そのために、必然的に環境破壊をもたらしたわけで、今、環境破壊というと、工業の問題とか、何かそういうことを問題にしますが、実際に地球の自然を大きく破壊してきたのは農業です。

③今の熱帯雨林の問題なども、日本が南洋で木材を切っているからという指摘があり、それはもちろんあるけれど、もっと大きいのは畑をつくるための伐採、それから牧場をつくるための伐採です。

④そうやって食料をどんどん増やしていく。  つまり自然破壊しなければ、人間はとても生きていけないようなところまで、種として繁栄した。

⑤そういう意味で、僕は人口問題を考えると、自然の歴史の中で人間は完全に矩を超えた存在になっているのじゃないかという気がしますね。  かといって、同じ船にわれわれは乗っているわけですから、おまえ降りろというわけにいかない。

⑥だから、何とかして、せめて今ぐらいの規模で、人口をコントロールするという条件のもとで、地球を最大限利用し、かつ保ちうる環境規模というものを、本格的に研究して維持していかないと、何か救いがないという気がしますね。』

知の巨人、立花隆さんは今年の4月30日に逝去されました。  ご冥福をお祈り申し上げます。

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組織の不条理

『組織の不条理・・・日本軍の失敗に学ぶ』(菊澤研宗著 中公文庫)を読みました。

昨年5月24日のブログで、名著『失敗の本質・・・日本軍の組織的研究』(野中郁次郎他著 中公文庫)を紹介しましたが、その本を意識しつつ書いたそうです。  


1.「中公文庫版のためのまえがき」から抜粋し、番号を付けて紹介します。

『①『失敗の本質』の基本的なスタンスは、合理的な米軍組織に対して非合理的な日本軍組織という構図があり、それゆえ日本軍の組織はより合理的であるべきであったという流れになっている。  

②つまり、完全合理性の立場に立って、日本軍の戦い方の非合理性を問題点として分析するという形になっている。

③ところが、1990年代、企業理論や組織論の研究分野では、完全合理性の立場から現実を分析するのではなく、人間はもともと不完全であり、限定合理的な立場から分析する研究が流行りはじめていたのである。  

④当時、この限定合理性の立場で研究していた私は、人間は非合理的なので失敗するのではなく、むしろ合理的に行動して失敗するというきわめて不条理な現象が起こることに気づいた。』


2.「第2章 なぜ組織は不条理に陥るか」から抜粋し、番号を付けて紹介します。

『①大東亜戦争における陸戦の敗北のターニング・ポイントになったガダルカナル戦では、近代兵器を駆使した米軍に対して、日本軍は3回にわたって白兵攻撃(軍刀・銃剣をもって斬り込むこと)を繰り返し、結果的に日本軍は全滅した。

②当時、白兵突撃作戦は、明らかに非効率的な戦術であった。  しかし、日本軍はその戦術を放棄し変更することができなかった。  というのも、長い年月と多大なコストをかけて訓練してきた日本陸軍伝統の白兵突撃戦術を放棄した場合、これまで白兵突撃戦術に投資してきた巨額の資金が回収できない埋没コストになったからである。

③また、その変更に反発する多くの利害関係者を説得するために、多大な取引コストを負担しなければならない状況にあったからである。

④したがって、このような状況に追い込まれると、組織はたとえ白兵突撃戦術が非効率的であったとしても、それを放棄して巨額のコストを負担するよりは、その戦術にかすかな勝利の可能性さえあれば、その戦術を変えずにそのまま進む方が合理的となるような不条理な状態に追い込まれることになる。

⑤このように、合理的に非効率的状態を維持するという不条理な組織行動は、人間の無知や非合理性のために発生するのではない。  人間の合理性によって生み出されるのである。』


3.「第9章 組織の条理と不条理」から抜粋し、番号を付けて紹介します。

『①(イギリスの哲学者)K・R・ポパーによると、人間が限定合理的であることを自覚し、誤りから学ぶためには、積極的に誤りを受け入れ、徹底的に批判的議論を展開することが必要となる。

②そして、もし誤りが見つかれば、将来、同じ誤りをしないように、それを排除するような新しい戦略・状態・制度を創造する必要がある。

③ここで、注意しなければならないのは、批判は否定ではないということである。  それは、どこまで認めることができるのか、その限界を画定することである。  (中略)

④このようなごう慢で硬直的な組織では、非効率と不正は単調増加し、最後に組織は淘汰されることになる。  このような状況を回避し、組織が淘汰されないために、限定合理的なわれわれ人間がなしうるのは、K・R・ポパーが主張するように、きわめてシンプルなことである。

⑤すなわち、われわれ人間は限定合理的であり、常に誤りうることを自覚し、絶えず批判的であること、そして誤りから学ぶという態度をとることである。

⑥したがって、組織内部に非効率と不正が発生する可能性を認め、それを排除する制度をめぐって絶えず批判的議論ができる「開かれた組織」を形成することである。』

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